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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > 萬鐵五郎の心象風景画「木の間より見下した町」

萬鐵五郎の心象風景画 「木の間より見下した町」

中谷伸生

 

 大正7年(1918年)に制作された「木の間より見下した町」は、萬の数多い作品中でも、とりわけ暗鬱な印象を与える絵画である。画面を覆う晴褐色の色調が、この画家の重苦しくて鬱陶しい心境を表明しているようにも思われる。事実、萬はこの頃非常に苦悩していたに違いない。その間の事情について、小林徳三郎は、萬の遺作展の時に、この絵について次のように語った。「此絵は殆ど灰色だけの濃淡である。描いてあるものも木なら木、家なら家の精霊のように見えるものだ。しかし斯うなっては萬君も苦しい事であったろう」(小林徳三郎「萬鐵五郎君の遺作記録」、『萬鐵五郎画集』平凡社1931年)。確かに萬は苦闘していた。作品制作上の打開策をめぐって蹄躇逡巡していたに違いない。だが、具体的にいって、彼は一体どのような造形上の問題に直面して、いかなるジレンマに陥っていたのであろうか。

 

 「木の問より見下した町」は、遥か遠方に見られる十数軒の家並の稜線に施された鮮やかな朱色を除けば、全体として暗褐色のモノトーンによる絵画である。浅浮彫り風に見える家並の形象は、西欧のキュービスムの手法、例えばフラックの「レスタックの家」(1908年作)を思い起こさせるが、画面両側に配置された樹木の形態は、フォービスム的あるいは表現主義的な躍動感に溢れる、伸びやかで、しかも不気味な性質を示している。この憂愁に満ちた風景画を指して、浦上玉堂の影響を指摘する見解(牧野研一郎「萬鐵五郎と南画」、『生誕百年記念 萬鐵五郎展』図録1985年)もあるが、いずれにしても、この絵画の造形表現には、東西の様々な芸術表現の実験模索の跡が窺われる。とりわけ私には、キュービスム的形態モティーフと、表現主義的形態モティーフという、両立し難い二つの表現法の混在が、この作品の「核」、つまり絵画芸術としての優れた価値となる特質を明示しているように思われてならないのである。

 

 萬は大正4年から5年にかけて、茶褐色の色調によるキュービスム風の自画像を幾枚も描いている。土方定一は、萬が描いた自画像のシリーズには、20世紀初頭のピカソのニグロ時代の性格が見られる、と語った(土方定一「萬鐵五郎ノート」、『三彩』1962年9月号)。まさしく、この時期に、萬はフランスのキュービスム、しかもニグロ時代のピカソから必然的に先へ進んで、1910年前後の、いわゆるピカソ、ブラックらの、色彩を抑制した分析的キュービスムを自家薬籠中の物にしようと苦闘していたはずである。大正4年に始まる、「自画像」を主題としたキュービスムの探求は、数年で終止符を打った。「自画像」は、内面の表現、表出という課題にとって、もっともふさわしいモティーフであったがために萬が好んだものと思われるが、西欧のキュービスムの造形思考は、自己の内面を造形化するためには不向きな様式であって、この様式は、対象の表層を扱う形態、つまり、できる眼り情熱的な感情を排除することによって獲得される知的でクールな描写を主要な狙いとしている。キュービスムに対する萬の苦闘は、まさにこの点にあったと推測するのが妥当であろう。内面の表出および造形化という課題は、文芸雑誌『白樺』などが喧伝した大正期の芸術思想にとって、避けて通ることのできない、もっとも重大な思想上の問題であった。当代の思潮に棹さしていた萬も、もちろん、その埓外ではなかったはずである。

 

 この息詰まる状況を、萬は、キュービスムの画面に、内的感情の激しい噴出とでも形容すべき表現主義的様式を導入することによって突破しようとした節がある。その観点からいえば、この時期、萬は、明治末から大正の初め に研究を重ねたフランスのフォービスム、あるいは大正の中頃から思索を深めていった日本、中国の山水画よりも、一層ドイツ表現主義に接近した位置に、制作の基盤を置こうとしていたのではなかろうか。1918年の年紀を持つ「木の間風景」、「かなきり声の風景」は、そのことを裏づける興味深い作例といえよう。もっとも、きわめて明晰な頭脳を持つこの画家にとっては、分析的で知的なキュービスムの画面構成は、捨てがたい大きな魅力を秘めたものと映ったにちがいない。彼が最晩年にいたるまで、キュービスムの手法を、作品制作の底流として持ち続けた理由がここにある。

 

 さて、「木の間より見下した町」は、こうした状況を背景にして誕生した絵画である。萬に直接師事した画家、原精一が、「僕は土沢のほうのモチーフだと思いますね。それで、あれをもって東京で描いているうちにだんだんあそこまで行ったのだと思うのです」(原精一 小倉忠夫対談「萬鐵五郎─土着した表現主義の先駆─」、『美術手帖』1962年9月号)と語っている。この作品では、土沢を描いた初期の印象派風の風景画とは、まるで異なる画面、要するに、あらゆる煩雑な細部描写が徹底的に単純化されて、いわゆる再現的絵画とは、対局的位置に立つ、萬独自の心象風景画となっている。キュビスムと表現主義という相反する様式がここでは分裂瓦解することなく、作品全体を貫く一種の精神的フォルムとなって統合されているといってよい。それ故、この絵画は、観者に「苦悩」の印象を与えるであろう。「苦悩」という言葉によって、私は萬の当時の精神的苦闘が絵画化されているということを強調しているのではない。私が言いたいのは、あくまで造形的な次元での問題である。本来、結合不可能な造形的要素が、緊張感溢れる均衡を保ちながら、隙のない小世界を形づくっているという意味での「苦悩」の印象である。換言すれば、造形上の劇的な性格とでもいうべきものである。日本近代の洋画は、その多くが、西欧のさまざまな絵画表現の模倣と追随の轍の歴史であったと主張するのは言い過ざであろうか。しかし、「木の問より見下した町」は、数少ない例外の一点であると思う。何度も繰り返すが、この画面には、ヨーロッパのフォービスムやキュービスム、あるいは表現主義の絵面には見られない劇的性格が刻印されている。ここには、萬の人生上の悲劇ではなく、造形上の悲劇的な性格が見てとれる。すなわち、内面の情熱を表出する絵画を実現するにあたり、それらを完全に拒否する理知的かつクールな様式を駆使することによって、基本的に実現不可能なものを可能ならしめようとする、造形上の悲劇的性格が見られるのである。

 

 以上のことを踏まえることで初めて、この絵画に具体化され仁、キュ-ビスム、表現主義、あるいは南画の諸要素の混淆の意味が明らかになるであろう。いうまでもなく、これらの諸要素を一体化させている「核」というべきものは、萬の思想と感情のすみずみを覆っていた、自我の表現を狙いとする大正期の人格主義に他ならない。「最近の芸術は自分の心を赤裸々に紙の上にぶちあけるものの気がする」(武者小路実篤「手紙から」、『白樺』44年12月号)という言葉は、その典型的な例証である。フランスのキュービスムの様式を追求しつつも、この様式は美的興味あるいは単なる造形上の面白さに終始するだけではないか、という懐疑が、萬の脳裏に焼き付いていたのではなかろうか。私には、その苦闘の末の、まず最初の突破口が、「木の間より見下した町」であったように思われてならないのである。

 

(なかたに のぶお・学芸課長)

 

年報/萬鐵五郎展

作家別記事一覧:萬鐵五郎

中谷伸生 キュビスムへの反抗-一九一七年・一八年の萬鐵五郎 

研究論集no.3 1991.3

 

萬鐵五郎「木の間より見下した町」1918年

萬鐵五郎「木の間より見下した町」1918年

 

萬鐵五郎「自画像」1915年

萬鐵五郎「自画像」1915年

 

萬鐵五郎「木の間の風景」1918年

萬鐵五郎「木の間の風景」1918年

 

萬鐵五郎「かなきり声の風景」1918年

萬鐵五郎「かなきり声の風景」1918年

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