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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第13号 萬鐵五郎の戯画 陰里鐵郎

萬鐵五郎の戯画

陰里鉄郎

 

 さる5月3日の夕刻、洋画家の原精一さんがわれわれの世界から去った。76歳であった。一昨年(昭和59年)の8月敗戦記念日をはさむ会期で『原精一戦中デッサン』展が三重県立美術館県民ギャラリーにおいて開催されたことは記憶に新しいところである。そのとき、原さんは会場に姿をみせ、たまたま開かれた『ドイツ表現派』展オープニング・レセプションに出席して短かい挨拶をした。「このごろ、絵というものはほんとうに面白い、と思うようになりました」と語った。なんの変哲もない言葉ではあるが、60年に近い歳月のあいだ、それこそ戦場を這いずりまわりながらも鉛筆をはなきずに描きつづけてけてきた原さんの言葉には測りがたいほどの重さのあるのを感じた(その原精一さんの唯ひとりの師が萬鐵五郎であった。師であった、といっても実際に師弟として接触できたのは僅かに4年間ほどであったはずだが、原さんはその後の長い数10年の生涯のあいだも、自分の師は萬鐵五郎ひとり、と考えていたようである。原さんの萬鐵五郎に対する畏敬と親愛の情は、同時代の草土社の一部の画家たちが岸田劉生に対していだいていたそれと比較すると、どこか質的な違いが感じられるが、濃度の点では両者は匹敵するように思われる。

 
 

 ここに1枚の戯画がある(挿図)。小肥りの壮年の男が下帯ひとつで椅子にすわっている。その前に袴をつけた若い書生がふたり、両手を膝の上に揃えてかしこまっている。小さなテーブルには急須と茶碗が3つ。壮年男の背後の壁には掛幅が1本吊るされており、床の上にも掛幅が3本おかれている。そのかたわらに額縁がひとつ。壮年男は下唇をつきだして、右手の人さし指を立て、左手には団扇を持ってなにやら偉らそうに書生に語っているようである。若い書生のうちの大きなひとりは坊主頭に目をむいてこれを神妙に聞いており、いまひとりは温和そうな顔だちでこれまた神妙に耳を傾けているようである。急須はテーブルからはみだして落っこちそうだ。

 

 このなかの若い坊主頭の大男は若き日の原精一であり、その手前の若者は森田勝。おちちとおなかを赤裸に突さだし毛脛をむきだしにしてふんぞり返っているのが萬鐵五郎である。この戯画の作者は萬鐵五郎、つまりこの戯画は、萬鐵五郎の自画像のひとつ、ということになる。こうした情景が現実にあったのは、大正14年(1925)の夏、場所は湘南茅ヶ崎海岸近くの萬鐵五郎のアトリエにおいてであった。アトリエといってももと医師が住んでいた借家であり、このとき萬は40歳、原精一と森田勝は中学校を卒業したばかりの17歳であった。原と森田は藤沢の中学校でのクラスメートであり、上級生に鳥海青児がいた。彼らが在学していた藤嶺中学は、あの今東光があちこちを退学させられた揚句に転入卒業した学校で、なかなかに奥行きの深い学校であったらしい。原、森田そして鳥海らが萬のもとに出入りするようになったのは大正12年の夏以降のことであったと思われるが、最初に萬家を訪ねたのは原精一であった。原さんの語るところによると、その年の第1回円鳥会展で萬の作品をみてふかく感動した原少年はある雨の日に数枚の自作の水彩画を携えて決死の思いで萬家の門をたたいたという。風もつよく、玄関先でとりだした原少年の水彩画は宙に舞った。萬があわててそれを追いかけてくれたことに原少年はさらにつよい感動を覚えずにはいられなかったらしいが、なにより驚嘆したのは、この偉い画家の質素な生活ぶりであった、ということである。この戯画のなかで緊張した姿で描かれている原少年を見ながら、眼を薄く閉じるようにしながら当時のことを回想して語ってくれた原さんを想いだす。

 

 戯画の画面にかえろう。原精一と森田勝はこのとき要件をもって萬鐵五郎を訪ねたのであった。その要件とは、彼らふたりも参加していた湘南美術会の第二回展に是非とも萬に出品してもらいたいという要請であった。若いふたりの要請に対して萬は快諾した。第二回湘南美術会展はこの年7月27日から31日まで、萬の長女とみ子が通学していた神奈川県立平塚高等女学校で開催され、萬は油彩画の小品一点と『湖山舟遊図』を含む水墨画数点を出品している。『湖山舟遊図』という作品がどのようなものであったかは詳かではない。しかし戯画の画面にみられる、璧にかけられている掛幅、そして床の上の3本の作品はおそらくこのときに出品されたものであったのではなかろうか。萬は、若いふたりに自作を指さしながら絵画論、ここでは多分、南画について教えるように論じているのであろう。この時期、萬は愛読書として『芥舟学画篇』をあげていたり、前年には「鐵人邦画展」と称して水墨画と水彩画の個展を開いたり、そのまえには玉堂論、大雅論などを発表しており、若いふたりに萬流南画論を開陳しているのであろうか。もっとも当然カンディンスキーなどの表現主義にも論及したことであろう。

 

 それにしても萬はこの戯画をなぜ描いたのであろうか。どうして描く気になったのであろうか、と画面をみていてふと思ってしまう。

 

 萬は美術学校を卒業したころに、漫画家になろうか、と考えたことがあったらしく、事実、それらしいものをいくつか描いたことがあった。漫画といってもそれはひと駒の社会諷刺、というより風俗を諷刺した図様に傾いていたといってよいであろう。茅ヶ崎転居(大正8年)後もしばしば試みている。したがって萬が戯画を描くこと事体は彼にとってはごく自然のことであったが、自画像を描きこんだことがすこし気になるのである。もちろんこの戯画は若いふたりの訪問後に描かれているが、萬はふたりと面談したときの自分になにかこだわりを感じたのではなかろうか、と想像するのである。萬はたしかに論客ではあったが饒舌を好んだとは思えないし、むしろ無口な方であった。偉らそうに威張ったという話もつたえられてはいない。そうしたことを考えると、萬はこのときの自分に日頃の自分とは別の自分を見出して茶化してみたくなったのではないか。自説を神妙に聞いてくれた若いふたりに対して、いい機嫌で話していた自分がじつは不恰好で滑稽であったといいたかったのではないか、と私には思われてくるのである。

 

 自画像というものは自己凝視であるがその底にナルシシズムがあることは否定できない。自分を醜悪にみるということはそうたやすいことではないはずである。この戯画は萬鐵五郎のなにかを語ってくれている。

 

(かげさと てつろう・館長)

 

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