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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第12号 早崎●(こう)吉─中国美術の紹介者─(承前)毛利伊知郎

シリーズ・三重の作家たち(5)

早崎●(こう)吉─中国美術の紹介者─(承前)

毛利伊知郎

 

 明治44年(1911)4月22日付で、岡倉天心から早崎梗吉に送られた書簡によると、同年4月21日をもって、早崎はボストン美術館中国日本部の鑑査顧問に任命され、年報酬1、000円を給付されることになった※註1。この時、中川忠順・新納忠之助も同じく顧問に就任しているが、両人の年報酬は500円と伝えられている。早崎の年報酬1、000円に天心による特別の配慮がなされたことは明らかである。

 

 明治45年(1912)5月、岡倉天心は、ボストン美術館の美術品収集のために、門司を出港して中国に向かい、当時すでに中国にいた大沽で早崎の出迎えを受け、1力月程中国に滞在している。この間の事情は、天心の『九州・支那旅行日誌』に記されているが、それによると、この時天心と早崎は、北京市内の古美術商を積極的にまわって、数多くの古書画・陶器・青銅器などを購入している※註2

※註1 『岡倉天心全集 7』(平凡社版)60頁 No.477。

 

※註2 『岡倉天心全集 5』(平凡社版)233~277頁。

 その後も早崎は、何度か日本と中国を往復して、ボストン美術館のための作品収集に当ったらしいが、大正2年(1913)9月に天心が亡くなると、早崎の活動も終りを告げたようである。

 

 これ以後、大正中期から昭和にかけての早崎の経歴は明らかでない。時折、美術雑誌等に中国美術に関する随想を執筆しているが、特に目立った活動は行っていない。しかし、早崎は、明治後期から大正初年に至る、長期の中国滞在の結果、自らも数多くの中国美術品を収蔵し、有数の中国美術コレクター、あるいは中国美術の情報通として人々に知られていたらしい。

 

 たとえば、後述するように、早崎が収集した中国彫刻の多くは、細川家に入っているが、早崎が細川護立と関係を持ち、同家に出入りしていたのは、大正後期から昭和初年のことと思われる。また、日本人として初めて中国彫刻の流れを系統的に論じた、大村西崖の『支那美術史彫塑篇』(大正4年刊)には、早崎の所蔵品が数多く収録されているほか、早崎の撮影になる多くの写真が図版として掲載されている。

 

 晩年の早崎についても、その詳細は殆んど不明であるが、彼は長命で、昭和31年(1956)8月21日、東京で歿している。

 

 前号にも記したように、早崎は17歳の頃から岡倉天心に師事し、三度にわたる天心の中国行には必ず同行している。また早崎は、自らの号を、岡倉の号「天心」と音の通じる「天真」とし、天心歿後には、その墳墓の形式も考案している。こうしたことから見ても、早崎が天心から受けた影響の大きさは想像に余りある。

 

 早崎は、天心の助手役に徹し、また中国美術に関する体系的な著作も著さなかったため、彼の活動に華やかな面は殆んどなく、彼の果たした役割は現在では忘れ去られがちである。しかし、日本人として、誰よりも早く中国美術に目を向け、天心を助けて龍門石窟を初めとする中国美術の遺産を日本やアメリカに紹介した、その活動は注目に値するものと思われる。

 

 では、早崎が中国で収集した美術品とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。彼が中国から将来した美術品の中には、現在では既に行方の知れないものも少なくないが、今もなお所在を確認できる作品としては永青文庫とボストン美術館の所蔵品をあげることができる。

 

 旧熊本藩主細川家伝来の美術品を収蔵する永青文庫は、古代美術から近代絵画に至る、良質の、広範なコレクションを有しているが、その中に、故細川護立氏(1883-1970)の収集になる中国の、仏像が30数点含れている。 これらの中国仏教彫刻は、南北朝時代から唐代に至る石仏が中心で、西安宝慶寺から将来された北魏の石造菩薩半跏像や、宝慶寺石仏群として有名な唐代の仏龕像など、美術史的に重要な作品も少なくない。

 

 これらの彫刻が、いつごろ、どのような経緯によって細川家へ入ったのか、詳細は明らかでない。ただ、その大部分が早崎こう吉によって同家へ入れられたことは確かなようである。細川家に入れるまでの間、早崎はこれらの中国仏像を自ら所蔵していたようであるが、現在細川コレクション中の早崎将来になる仏像は、20点以上にのぽっている※註3 。

※註3  細川コレクションの仏像彫刻については、『細川家コレクションを中心とした中国の仏像展』(1985年4月 熊本県立美術館)を参照。

 一方、ボストン美術館の所蔵品には、どのような早崎将来品があるだろうか。ボストン美術館東洋部が、質量ともに優れた日本東洋美術のコレクションを有していることは周知の事柄であるが、その中に中国・日本特別基金によって購入された一群の作品を見出すことができる。

 

 この中国・日本特別基金によるコレクションには、岡倉天心が京都や奈良で買い求めた日本の古美術品と、天心が早崎とともに中国各地で収集した中国の美術品とが含まれているが、彼らがこれらの作品を収集したのは、前述したように、明治39年(1906)から大正元年(1912)頃にかけてのことである。明治39年と明治45年には、天心自ら中国に渡って作品収集に当っているが、これ以外の時期には、早崎一人が中国にあって、天心と連絡をとりながら、収集につとめていた。

 

 このコレクション中の主要な作品としては、伝徽宗筆「搗練図巻」、馬遠筆「遠山柳塘図」などの中国絵画の名品や、西安香積寺伝来の四天王立像を初めとする中国石仏をあげることができるが、これら以外にも古代の青銅器・玉器から明清画に至る広範な作品群が、この中国・日本特別基金によって購入されている。

 

 天心の『支那旅行日誌』や、早崎から天心にあてた書簡には、中国での買付作品の詳細な目録が収められている。そこには、現在では収集することなど到底考えられないような宋元画や、青銅器などが列挙されており、これによって、両人の中国美術に対する高い見識と、積極的な行動力とを知ることができる。

 

 日本人による中国美術研究は、大正から昭和前期に、当時の日本による大陸侵略とも相まって、中国各地の遺跡・遺構の調査や出土品の将来などが盛んに行われて、この時期に刊行された報告書・研究書の数は、少なくない。しかし、明治期に溯る中国美術の現地調査は非常に少なく、天心と早崎とによって行われた中国美術紹介の先駆的役割には、注意を払っておきたいと考えるのである。

 

(もうり・いちろう 学芸員)

 

早崎こう吉 著作目録

 ※ 「唐代の佛像」『日本美術』107 明治41年1月。

 ※ 「余が持ち帰りし隋唐の古塑像」『美術之日本』2-6 明治43年6月。

 ※ 「支那の土中」『日本美術』143 明治44年1月。

 ※ 「支那の話」『美術新報』10-8 明治44年6月

 ※ 「支那における六朝佛」『美術新報』10-9 明治44年7月。

 ※ 「前清皇室所蔵の宝物」『書画談』1-7 大正6年7月。

 ※ 「清代の大家袁耀」『書画談』1-10 大正10年12月。

 ※ 「岡倉天心の支那旅行の就いて」『東京美術学校校友会誌』19 昭和15年10月。

 
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