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シリーズ・三重の作家たち(4)

早崎●(こう)吉─中国美術の紹介者─

毛利伊知郎

 前号の平子鐸嶺に引続さ、今回も実作家ではないが、三重県ゆかりの美術関係者として忘れることのできない、早崎こう吉(号・天真、1874−1956)について紹介してみよう。

 

 早崎こう吉の存在は、一般には広く知られていないが 彼は明治期に、日本人としていちはやく、中国美術を研究して、日本やアメリカに多くの優品を将来し、その後の我国に於ける中国美術研究に、少なからぬ影響を及ぼしている。本稿では、波乱に富んだ彼の前半世と業績について記すこととする※註1

 

 早崎こう吉は、明治7年(1874)10月5日、三重県津町(現在の津市)に、早崎勝文、慶を両親として生まれている。早崎家は、代々津の藤堂藩士をつとめた家柄であった。父の勝文は、鉄道人と号し、36歳で早逝したと伝えられるが、若くして藩校の講官になったという。また、祖父の早崎勝任(1805−1886)は、巌川と号して、江戸の昌平ごうにも学んだことのある文人で、幕末から明治初期にかけて、この地方で多くの功績を積んだ学者であったという。 

 

 こう吉は、明治19年(1886)から22年(1889)にかけて、旧津藩校の教官で書画にも巧みであった土井有恪(号・黌牙、1817−1880)の創設になる凍水舎に漢学を学んでいる。その後、明治24年(1891)、小学校を卒業した彼は、画家を志して上京し、橋本雅邦に入門するとともに、岡倉天心の書生となって、中根岸の岡倉家で寄宿生活を始めた。

 

 雅邦や天心の指導の賜物か、翌明治25年(1892)9月に、こう吉は東京美術学校日本画科に入学している。

 

 当時の岡倉天心は、東京美術学校校長や、帝国博物館美術部長などの要職にあって、青年美術家の育成や全国各地に於ける古美術品調査など、多方面にわたる精力的な活動を行っていたが、明治26年(1893)7月から約5ケ月間、帝国博物館から中国美術調査のため清国出張を命じられ、中国各地を旅行することになった。

 

 この中国旅行に、助手兼従僕として同行したのが、他ならぬ早崎こう吉である。この時の中国行が機縁となって、こう吉は、以後、日本画家志望のコースを離れて、中国美術の研究と蒐集とへ傾斜していった。

※註1 早崎こう吉については、既に白川一郎氏の紹介文がある。「龍門石仏を発見した一日本人―岡倉天心の中国探題として中国美術を世界に齎らした早崎天真」『芸術新潮』10-7 昭和34年7月。

 清見陸郎氏によれば、天心の命により、梗吉は、出発の半年程以前から、旅行の準備として、渋谷宮益坂の田中猪太郎や小川一真らに写真術を、また日本橋浜田の大西某に中国語を習う生活を続けたという※註2

 

 この年の中国旅行については、岡倉天心による『支那旅行日誌』が遺されていて、その行程や当時の中国の様子等を詳しく知ることができる※註3

 

 本稿では、その詳細について記す余裕はないが、朝鮮半島経由で8月初旬中国人りした天心とこう吉は、北京、開封、洛陽、西安、成都、上海などの諸都市を廻り、居庸関・明十三陵・白馬寺・龍門石窟・慈恩寺などの史跡を訪ねている。

 

 旅行中の早崎は、天心の身の廻りの世話をしたほか、各地で写真撮影を行つていた。帰国後の天心は、日本青年絵画協会の研究会や日本美術協会総合などの席上、旅行での見聞を基に中国美術に関する講演を行っているが、その時、聴衆に示されたのは、早崎の撮影になる写真であった。早崎が作成したと思われる写真目録が、天心の『支那行雑綴』に収められているが、その数は136点の多きに上っている※註4。 当時、これだけの写真を撮影し、持ち帰った苦労は、想像に余りあるが、龍門石窟を初めとする、中国の主だった遺跡や遺構が、我国でまとまって紹介されたのは、恐らくこの時が最初ではなかったと思われる。

 

 早崎は、当時まだ美術学校の1年生であったが、帰国後も美術学校に通って、明治30年(1897)7月には、同校日本画科を卒業している。また、天心の勧めがあったのか、卒業前年の明治29年(1896)に、早崎は、天心の異母姪である八杉貞(1869−1915)と結婚している※註5

 

 美術学校を卒業した早崎は、明治30年10月から翌年4月にかけて、奈良に赴き、帝国博物館の委嘱によって、法隆寺や新薬師寺で古画の模写を行ったが、明治32年(1899)8月には、中国美術研究のために、再び中国に渡り、北京に滞在して翌33年1月に帰国している。その後、明治33年12月から翌年11月こかけては、兵役に服し、また古社寺保存計画の嘱託になったりしている。

 

 明治35年(1902)11月、早崎は3度目の中国訪問を行った。この時の訪中は、早崎が、当時の清国陜西省三原大学堂の教習に招聘されたためであった。

4年後の明治39年(1906)7月に早崎は帰国しているが、この間早崎は、三原大学堂教習に続いて、三原高等学堂陜西武備学堂教習に任ぜられ、一方で東京帝室博物館の嘱託になって、陜西地方の古美術品調査にも当っていた。

 

 

 帰国して間もない明治39年10月、早崎は四度中国へ渡ることになった。今回の旅行は、彼が師事してさた岡倉天心に同行してのものであった。岡倉天心は、明治37年(1904)から、ボストン美術館中国日本部の業務を手伝い、翌明治38年には、同美術館の作品収集を京都や奈良で行っていたが、中国美術収集のために、早崎を伴って中国へ渡ることになったのである。

※註2 清見陸郎『天心岡倉覚三』101〜2頁 昭和55年 中央公論美術出版。

 

※註3 『岡倉天心全集 5』13〜114頁  昭和54年 平凡社。

 

※註4 全掲書 117〜19頁所収。

 

※註5 貞は、明治28年に、岡倉天心と関係をもって、三郎(のち和田姓)を出産しており、早崎と貞との結婚には、天心も関係して、様々な事情のあったことが推測される。

 明治39年10月から翌40年2月に至るこの中国旅行について、天心は前回と同じく『支那旅行日誌』※註6を遺しているほか、天心がボストン実術館に書き送った書簡が幾つか残っているので、それらによって旅行の行程や作品買付けの成果などを知ることができる。

 

 10月15日、天津に上陸した天心と早崎は、北京・洛陽・西安などの諸都市を廻ったが、両人は明治40年(1907)1月、藍田で別れて、以後別行動をとり、天心は2月13日に上海から帰国の途についた。一方、天心と別れた早崎は、残務整理のためか、その後も中国に残って、同年7月に帰国している。

 

 この頃になると、早崎は、かなりの中国通として、識者にその存在を注目されていたようである。たとえば、明治34年(1901)から東京美術学校々長をつとめた正木直彦の『十三松堂日記』を繙くと、明治41年(1908)1月28日の条に、当時、『審美大観』などの美術書を出版していた審美書院が中国へも進出する件について、大村西崖が正木を訪ねた時、中国方面の担当者としては、早崎こう吉が最適であると二人が話合った記録を見出すことができる※註7。また、同年2月5日の条には、日本大博覧会徽章の図案に関し、中国方面の勧誘員として早崎梗吉を推薦したことを正木は書き記している※註8

 

 このように、中国事情に通じた人物として、識者の信頼を得ていた早崎であったが、彼の中国行はその後も行われて、明治41年10月には、帝室博物館総長股野琢の中国旅行に同行している。

 

 明治39年10月から翌年7月に至る、岡倉天心に同行しての中国行がボストン美術館の作品購入を目的とするものであったことは、先にも記した。この旅行の後も早崎は、天心の命を受けて、ボストン美術館東洋部に収めるべき作品の探索を続けていたようで、天心と早崎の間には、何度か作品購入に関する書簡のやりとりが行われている。

つづく

 

 

(もうり・いちろう 学芸員)

※註6 前掲書 175〜216頁。

 

※註7 正木直彦『十三松堂日記 1』16頁 昭和40年 中央公論出版。

 

※註8 前掲書 19頁。

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