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無明の中の微光

東 俊郎

 「ゴヤは、スペイン絵画の生きた象徴となるには至らなかったとしても、常に興味つきないスペインの生きた象徴ではあったであろう」と語ったのはスペインの碩学エウヘーニオ・ドールスである。これはとても微妙なふくみのある発言であり、ゴヤの作品に対する世間の過褒へなげつけられた一箇の疑問符とみなければならない。

 

 彼はこの異議申し立てをささえる西欧十九世紀の歴史上の二つの事実をぼくらに教えてくれる。そもそも現在のゴヤの名声を確立したものはなにかといえば、それは(1)美術史上の印象主義の絶対的な勝利であり、(その先駆者としてのゴヤ、あるいはマネにおけるゴヤの位置の重要性)(2)「家に閉じこもったまま絵画について語りうるという利点をゴヤに見いだした文筆家たちによる支持」である(そのときボードレールは?)と。けれども印象主義的な技法ならたとえばヴェラスケスにだってあるし、印象主義の発生をめぐる必然性に背を向けているのではないらしいドールスのこと、要するに彼のゴヤについての評価保留のほんとうのわけは筆が立つだけで眼のきかない文筆業看たちへの不満に根ざすものらしい。そして間接的ながらそういったいわば素人の文学趣味に訴えるところが大きいらしいゴヤの画風とかあるいは文学になりやすい彼の謎めいた伝説的な生涯**へのいささか過度の警戒心がそれを淡く彩っている。

 

 たとえば版画集『戦争の惨禍』からは「家」=自己に閉じこもったままいくらでも放恣な〈物語〉を紡ぎだすことができる。反戦思想の物語、性悪説の物語、運命論の物語、また悪夢の、虚無の(No69はタイトルそのものが『虚無』であり、Nadaと紙に書つけたまま腐敗してゆく死体をとりまく悪気が凝って亡霊が充満している凶凶しい印象が強烈だが)、そして自意識と無意識のドラマetc.

 

 ところで精神分析という二十世紀の怪物が隠された欲望について語るとき、芸術の分野ではゴヤ以上にそれにふさわしい対象が少なかったことも彼の名が広まる一因をなしたようだ。この精神分析の手法を芸術批評の基準にとりいれたフランスのルネ・ユイグがゴヤについて語った言葉にそれが端的にあらわているとはいえないだろうか。

 

 人間が自己の動物的本性を、おそるべき野獣の鼓動を、見いだしたときにあげるひそかな叫びを、ゴヤは、恐怖 をもって、しかも疑いもなく内密な陶酔をもまじえた恐怖をもって、ききとったのだ。耳にふたをして心の底にと じこもりながら、そのくらやみのまっただなかに、まるで本能の間歇泉のように噴きあがるその叫びを耳にしているのである。***

 

 『戦争の惨禍』の制作にあたってえたいのしれない戦争というものの全体像を描ききろうなどという考えは、たぶん一度もゴヤを訪れていない。ある強い選択の規則に縛られているためその世界はたとえばトルストイの『戦争と平和』が感じさせてくれるような空間の広がりに欠け、単調で狭い。類似のシーンの繰返しに最初の衝撃はやがて減衰する。というものの、そういった欠陥にもかかわらずそこには『気まぐれ』や『妄』、まして『闘牛技』にはあらわれてこないある〈旋律〉の存在がはっきりききとれる。それをなんとか名付けようとしてみたぼくの心に浮んできたのは意外にもゴヤ連作全版画展の会期中に読んでいたトルストイ『戦争と平和』のすでに後半部でアンドレイ・ポルコンスキイの妹マリアがつぶやいた「悲しみは神によって送られるので、人間によってではありません。人間は─神の道具です。」という言葉だったのはわれながら当惑せざるをえない。

 

 なぜなら、ゴヤに光が象徴するものとは正反対の無明の世界があるという指摘****はぼくもみとめるからだし、いっぽうトルストイには、これはどういえばいいのか、闇を闇のままではおかない晴朗な暴力としての神の眼が光を放射しているからだ。〈無明〉と〈神の眼〉は同居しないというぽくのあたまを併しぼくの視覚がうらぎる。ということなら─ゴヤの頭をゴヤの眼と手が裏切ることだってないことはないだろう。だいたい眼と手が思想を裏切らない画家なんて画家の名に値しないのだし。

 

 思いきっていうと、ゴヤの『戦争の惨禍』は、名文の必須の条件がそれだと吉田健一がいう「静けさ」に包まれている。ホメロスによって描かれたアキレウスとヘクトルの一騎打ちに舞い上がった地上の塵があらゆる音を吸いとってゆっくり大地を覆う、そんな時間の中の静寂に。その時アキレウスがヘクトルの屍骸をひきずりながらトロイの城の周囲をまわる凄惨な光景も、そうであるほかない悲劇の相を帯びて深海のように周囲に音は絶える。叫びはぽくにはきこえない。ゴヤの『戦争の惨禍』もまた。絶望から絶望へわたっていくとしてもその足取りには一種の〈軽さ〉さえかんじられるのだ。

 

 もちろんこの〈軽さ〉はもとからの、つまり自然のそれではない。比喩的にいえば〈重さ〉の感覚を受けとる視線のかたちのごときものである。現実の悲惨はどうかえようもないがそれを描く画家の素早い指先ひとつで、そのいわゆる現実の比重は変化が可能だとぽくらに信じさせる力をもつとき、芸術作品が必須にもつ条件としての〈軽さ〉。それがあるゆえに、ぽくらはフランス革命下のスペインを席巻する人間の悪を、すくなくとも表現されたものの領域では、精神分析の定義するものを超えて、楽しむ、あるいは感動することができるのであるが。また別にいいかえると、ここには真実があって、事実はない。あるのは、事物を輪郭によってではなく、短時間に一気に描くのを常とした油彩技法の修練のうちにつかんだ運筆にうまくのせた密な平行線の堆積によって、そのヴォリユウムさえ生みだすゴヤの腕の冴えがつくりだした世界の模型のリアリティだ。

 

 けれど、ゴヤに関して『戦争の惨禍』は一箇の例外としたほうがよいようだ。それはなんといっても無明の闇のなかに蛍のように光る島宇宙で、逆に周囲はそのためますます黒の深さと厚さを増し、ぼくの理解を超えたブラック・ホールに連続している、とみえる。なぜか。たとえば、スルバランのスペインはわかる(ような気がする。彼こそ人は神の道具だというマリアの言葉にふさわしい画家だろう)。ヴェラスケスのスペインも。しかしゴヤのスペインはと問うとき、その答は絵画の領分をはみだしてしまう。むしろスペインの無明がゴヤを描いたのじゃないか、ピカソにまでつづくスペインの無明が。ドールスのいいたいこともその辺にあるのではないか。

 

(ひがし・しゅんろう 学芸員)

 

作家別記事一覧:ゴヤ

エウヘーニオ・ドールス「プランド美術館の三時間」神吉敬三訳、美術出版社、1973年

 

**ゴヤのドンファン伝説。その典型的な例は「裸のマハ」などのモデルとされてきたアルバ公爵夫人とのスキャンダルだが、J=F・シャブラン「ゴヤの生涯」、幸田礼雅訳、美術公論社、1983年、p84年、にはきわめて興味深いゴヤの性格が指摘されている。それによると、女性の傍らにいる方がより自然に、素直に子供らしさもある自身の性質を、ゴヤは表現できたと想像することが可能だ。一方男性に対しては生涯甲殻類として心を許さなかったと。

 

ゴヤ 《虚無・事実が物語るだろう》

虚無・事実が物語るだろう

 

***ルネ・ユイグ「見えるものとの対話3」、中山公男他訳、美術出版社、1971年

 

****小林秀雄、岡潔「人間の建設」、新潮社、1965年

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