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ひる・とおく

 去る4月21日、鹿子木孟郎の作品調査委員会が発足した。

 

 当日の参加者は、ご遺族の鹿子本家2人と東京大学教授の高階秀爾氏、京都国立近代美術館の島田康寛氏など来客6人、当館からは館長以下5人であった。

 

 ご遺族の意思で、没後あかずの問となっていた蔵から絵画、スケッチ、書翰類を入れると何百点、何千点にも及ぷという貴重な作品、資料が当美術館に運び込まれているという。

 

 鹿子木孟郎といえば岡山県の出身で、藤島武二、赤松麟作などと相前後して、明治30年前後に、当時の津中の教壇に立った。

 

 三重県を去ってのち、東京美術学校の黒田清輝が東京画壇の中心であったのに対し、関西美術院の鹿子木孟郎と称される関西画壇の大御所となったのは周知のところである。

 

 会議が進むにつれて、私は初めて出会った新鮮な喜びを感じ始めていた。作品の燻蒸から概ねの整理を終えるのが来年3月、更に展覧会を催すまでに2年の歳月が必要とのことである。

 

 館長が「先日この美術館に狐が出たんですよ。きっと『狐のショールをまとえる婦人』(鹿子木孟郎作・当館所蔵)を見にきたのでしょうか。」と笑みを浮べた。

 

 早速作品が運び込まれた。窓越しの新緑に映えて、狐のショールをまとった西洋の貴婦人像があった。 わけのわからぬ不思議な感動が走った。

 

 ご遺族が「この様な最高の方々に調査をお願いでさるのはこの上もない幸せです。」「これだけまとまって世に出てくることは、美術界にとっても幸せなこと。ご遺族に感謝したい。」と高階教授。

 

 このさりげない会話を聞きながら、将来の展覧会が無性に待遠しい思いにかられるのである。

 

(前山禮三 三重県立美術館次長)

 

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