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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > ひる・ういんど 第10号 平子鐸嶺―美術研究の先達(承前) 毛利伊知郎

シリーズ・三重の作家たち(3)

平子鐸嶺―美術研究の先達(承前)

毛利伊知郎

 

 明治38年(1905)は、鐸嶺ことっても、また我国の古代美術史研究にとっても記念すべき年である。すなわち、いわゆる法隆寺論争が起ったのがこの年で、同年2月こ発表された建築史家・関野貞の「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」(『史学雑誌』16の2『建築雑誌』218)と平子鐸嶺の「法隆寺草創考」(『国華』1の7『歴史地理』7の4・5)と、これに反対する喜田貞吉の諸論文〈例えば、同年4月の喜田貞吉「関野、平子両氏の法隆寺非再建論を駁す」『史学雑誌』(16の4)〉にこの論争は端を発している。

 

 多くの学者が参加した法隆寺論争の経緯について、ここで記す余裕はないが、鐸嶺はこの年に、非再建説の立場をとって法隆寺関係の論文を8篇程発表している。また彼は、法隆寺問題と共に、我国古代美術史上の大きな課題である薬師寺問題(薬師寺東塔や金堂本尊の製作年代をめぐる論争)につき、根本史料の一つである東塔銘に関する論文を3篇発表して、薬師寺東塔移建説を唱えている。

 

 平子鐸嶺と喜田貞吉との間に激しい応酬のあった法隆寺論争は、明治39年(1906)になると未決著のまま冷却化し、また薬師寺問題も同様の経過をたどった。法隆寺再建非再建論争は、その後の発掘調査等から今日では再建説が決定的となり、薬師寺問題も様々な論争の末現在では非移建説(新築説)が有力となっている。従って、いずれの場合も、鐸嶺の所説は結果的に不利な立場に追い込まれたことになるが、この点はどう考えたらよいであろうか。

 

 ここで注意されるべきは、彼の研究方法であろう。鐸嶺の研究方法の大さな特徴となっているのは、文献批判、とりわけ『日本書紀』に対するそれと、美術史家としての様式論である。鐸嶺が、法隆寺非再建論を唱えたのは、彼が現存する同寺の金堂・五重塔などの建築様式を推古朝のものと見做したことによっている。また、鐸嶺は、法隆寺金堂釈迦三尊像を中国の北魏式と見て、中国龍門石窟の北魏仏との比較を行うなど、日本の古代美術の様式研究に熱意を注いでいた。

 

 美術史研究は、本来、作品そのものから出発すべきものである。絵画なり彫刻なり、美術の流れをあとづけようとする場合、その基礎となるのは個々の作品に対する認識である。作品の様式を如何に見るかによって、その作品の製作年代判定に異説が生じるのは、言うまでもない。様式観は、もともと主観的なものであり、様式論による製作年代推定を補完したり、客観化するための手段として、文献史料がしばしば用いられる。こうした様式研究と文献研究が、美術史研究にとって必須の要素たることは、今日では当然のことと考えられているけれども、我国でこのような研究方法が芽吹き始めたのは、鐸嶺が活躍を始めた明治後期頃からであり、鐸嶺はそうした研究方法を先取りしていた学者の1人であったと言うことができる。

 

 鐸嶺にとっては、法隆寺金堂や五重塔のスタイルが、推古天皇の時代のものであるという認識が最も重要な主張で、この説を裏付けるために『日本書紀』の文献批判がなされたのである。また、薬師寺問題に関しても、同寺東塔は天平の様式になるものではなく、持続朝の様式を示すものであるという様式理解が鐸嶺にはあり、従って東塔さつ銘も持続天皇の頃撰文されたものとして解釈されたのである。

 

 先に鐸嶺の学説が、今日では結果的には不利な立場に追い込まれていることを述べた。これは、当時の作品そのものに対する詳しい調査が未熟な状況では、或はやむをえない結末と言うこともできよう。というのは、我国の古代美術についての様式論は、今日でも種々議論がなされて、異説の多いところで、様式研究が緒についたばかりの当時にあっては、現在では当然と考えられる、こうした研究方法にもかなりの危険があったというべきであろう。むしろ重視すべきは、鐸嶺が文献批判を援用しつつ、自らの様式論を中心とした研究を積極的に推し進めたという点であろう。

 

 ともあれ、明治38年(1905)法隆寺論争で大いに名を馳せた鐸嶺は、翌明治39年9月から40年1月まで、建築史家で東京工科大学教授の塚本靖、同助教授・関野貞に同行して中国旅行を行っている。その主な目的は龍門石窟の視察にあったらしく、また唐代石仏で有名な長安の宝慶寺等も訪れたようである。帰国した鐸嶺は、主に龍門石窟を論じた『平子鐸嶺稿 洞窟古年考完』(稿本)を作成している。

 

 明治41年(1908)4月には、法隆寺百万塔の詞査報告である『百万小塔肆攻付図』を私家版として刊行し、またこの年には黒板勝美らと古筆・古文書研究の会・汲古合の設立に参加している。

 

 明治42年(1909)1月、父の尚次郎が亡くなったため、鐸嶺は一時津に帰ったようである。また、この年から、鐸嶺は翌明治43年5月にロンドンで開催される日英博覧会の準備に参加することになった。明治42年5月、彼は同博覧会の美術及歴史に関する出品計画委員となり、出品作品の選定作業等に当った。

 

 明治43年3月に、内務省編纂の『特別保護建造物及国宝帖解説』が同博覧会のために刊行されたが、その「第二篇 彫刻 絵画及巧藝」は、岡倉天心を中心Lご中川忠順・平子鐸嶺によって作成されたものであった。鐸嶺と天心は、以前から関係があったらしく、鐸嶺の同年3月の古社寺保存会委員就任には、彼による後押しのあったことを天心の書簡から知ることができる。

 

 このように、宿病の肺結核にもかかわらず、短年月の間に精力的な活動を行った鐸嶺ではあったが、明治44年(1911)4月、再び喀血して倒れ、5月10日鎌倉の自宅で数え年35歳の若さで亡くなった。5月14日には、東京芝増上寺で中川忠順・黒板勝美らを中心に参会者150名を集めて、追悼会が行われている。鐸嶺の墓は、平子家の菩提寺である津市の浄安寺に建てられたが彼ゆかりの法隆寺にも分骨されて供養塔が建立されている。

 

 鐸嶺は死の年にも、「夾紵像考」(『国華』249・251)など数篇の論考を発表しているが、没後も友人・知己によって遺稿が刊行されている。例えば、大正2年(1913)法隆寺貫主・佐伯定胤の尽力によって刊行された『補校上宮聖徳法王帝説 証註』は、『法王帝説』の註釈書として評価の高い書である。また、大正3年(1914)、中川忠順・黒板勝美・稲葉君山3名の共編によって発刊された遺文集『佛教藝術の研究』は、美術史家としての彼の全容を我々に示してくれるものである。

 

 以上、平子鐸嶺の生涯と業績について、筆者の理解に従って略述した。鐸嶺の活動領域は幅広く、記し尽せなかった点も幾つかある。例えば、彼の『馬酔木』への参加などは、平福百穂・結城素明と鐸嶺との関係のみならず、当時の美術界・文芸界の状況を考える上でも興味ある事柄と考えられる。また、ボストンで中川忠順から鐸嶺の訃報を受けた岡倉天心は、この少壮学者の死に強い哀悼の意を表している。このような鐸嶺を含む、天心をめぐる美術界の人々の動向についても、詳しい報告が必要であると思われる。こうした諸点に関しては、将来改めて論じてみる予定である。

 

(もうり・いちろう 学芸員)

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