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大正末期の彝

山口泰弘

 大正12年の秋、つまり中村彝が急死する前年のことであるが、彼は新らしい絵画の創造を狙って、それまでの制作理念を一変させるかに思える内容の手紙を、越後柏崎の知人、洲崎義郎に宛てて書き送った。その内容は、「跪拝すべき崇厳と合掌すべき慈護の精神」を画面に現出させるため、「従来の静物画の描図法を全然破って、全くシンボリックな方法でやって見る積もりです」という気迫の籠った文章であった。衰弱してゆく身体をもって、彝が築こうとした新しい芸術とは一体何であったのか。大正末期に彼が描いた絵画、たとえば「カルピスの包み紙のある静物」(大正12年)、「髑髏を持てる自画像」(大正12−13年)、「老母像」(大正13年)には、西洋のカトリック教美術において頻出する象徴的モティーフと、様式的に華奪で上昇的特徴を示す形態モティーフ、さらに付言すれば、一種の精神主義的といってもよいような作風を認めることができるはずである。ごく親しい友人であった鈴木良三は、落合時代の彝が、スペインのマニエリズム画家、グレコの複製画を壁に貼り付け、その昇天のリズムを作品に採り入れようとしていた事実を追想している。もちろんグレコを想起させる特徴は、グレコ的な様式の単なる影響に止まらず、それとは別種の彝独自の絵画観の視覚化を主眼にしたものであることはいうまでもない。その上、「老母像」などに顕著な長く引さ伸ばされた形姿の人物像は、ある観点から見れば、グレコの神秘的な様式と同質の性格を内包する西洋中世のゴシック芸術を想わせる。実際、彝はこの時期に、「ゴシック寺院の内部に見るが如き、あの厳粛な神秘と無限感とを表はして見度い」(大正12年中村春二宛手紙)と書き付けている。確かに、「髑髏を持てる自画像」では、キリストあるいは殉教の聖者に重ね合わせることさえできる人物像が、盛期ゴシック大聖堂外観側壁に並ぶ聖像彫刻に似る理想化された様式で描かれ、さらに、「カルピスの包み紙のある静物」でも、画面中央上部に教会を象徴的に摸した十字架と破風装飾(ガーブル)のモティーフが見てとれる。その右側背後には、中世のロマネスク教会堂の主要モティーフである半円形アーチ型壁龕が描かれた。手前右側のS字型の草花は、教会堂のステンドクラス窓を縁取る格子細工装飾(トレーサリー)といったところであろうか。このモティーフは、「髑髏を持てる自画像」において、より一層鮮明に示され、そこでは彝の肖像の背後で、ゴシックのステンドクラス窓を喚起させるアーチ型形態の右手に、やはり格子細工を型取ったと思われる幾何学的なS字型の草花が宙に浮く格好で象徴的な形をのぞかせている(彝が語る「全くゴシックの無限感と神秘感を表現すべき線の錯綜の研究」(大正12年、洲崎義郎宛手紙)という言葉は、これらの表現の根底にあった芸術思想を端的に表明しているといえよう。大正期には森口多里監修の『北伊太利のロマネスク装飾美術集』(大正12年2月、東京洪洋社刊)といった西洋中世美術の図版集などが出版されており、おそらく彝もそれらの書物を介して、キリスト教美術に創作の手掛かりを求めたに違いない。友人の税所篤二の言によれば、彝は美術雑誌『みづゑ』に紹介された、マレーの『十二世紀仏国宗教画史』なる書物をフランスから取り寄せようと知人に問い合わせていたというが、これはフランス中世図像学の碩学エミール・マールが、今世紀初頭にパリのアルマン・コラン社から初版本を刊行した『フランスにおける十二世紀の宗教美術』(Emile Male,LArt Religieux du Xlle Siele en France)のことである。

 

 さて以上のことから、大正末期に彝が構想を練っていた新しい絵画の輪郭がおぼろ気ながら理解できるように思われる。これはひとつの推論でしかないが、「血を吐く男」の自虐的でもある作品からも推し量ることができるように、この時期の彝は、回復の見込みのない病によって自己の宿命を締観することから、ついには広大無限で神聖な精神世界への憧憬の念を抱くに至ったのではなかろうか。地上に縛りつけられた物質的なものを超越して、全く精神化された聖なる精神の高みに至ろうとする真摯で悲愴な感情がこの頃の彝を支配しつつあったようにも思われる。乱暴な言い方だが、セザンヌの、ある点において無骨な様式とは全く対照的に、「カルピスの包み紙のある静物」は、柔らかい線描と透き通るような効果をもつ賦彩法とを示している。結局、晩年の彝が志向した絵画とは、まさにゴシック芸術がそうであったように、物質を精神に変貌させようとする、いわば練金術的とでも形容すべき大胆な試みであったに違いない。前記の諸作品に見られる、人物画や静物画にしては、はなはだ雄大で、身体や事物の重量感を排除した様式こそ、彝が希求した糟神的なるものの示現の表現ではなかろうか。もっともそうした芸術観の十全な展開は、画家の夭折によって、残念ながらその端緒にして途絶することになってしまったのである。

 

(なかたに・のぶお 学芸員)

 

年報/中村彝展

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