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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > ひる・ういんど 第9号 「カルピスの包み紙のある静物」余談

「カルピスの包み紙のある静物」余談

牧野研一郎

 情熱の歌人、与謝野晶子に次のような歌がある。

 
 カルピスを友は作りぬ蓬釆の

 

 薬といふもこれに如(し)かじな

 

 カルピスは奇(く)しき力を人に置く

 

 新しき世の健康のため

 おそらく依頼されて作ったものであろう。歌の良し悪しは私にはわからないが、カルピスというモダンな響きがこの歌の骨格を形成しているかに思われる。

 

 中村彝の晩年の一群の表現主義的な静物画のなわに「カルピスの包み紙のある静物」(茨城県立美術博物館蔵・1923年作)があることは周知のことである。日本で最初の乳酸飲料が、醍醐の梵語サルピスと含有されるカルシウムとを合成したカルピスとう名称で発売されたのは大正8年(1919)のことであるが、この翌年、彝が後援者である洲崎義郎に宛てた手紙には次のようにある。

 

 「この頃は毎食後カルピスと云ふものを飲んで居ります。乳酸カルシュームに葡萄糖等を入れて「口あたり」のい、飲料にしたものです。僕の病中に中村パン屋のオヤジ(註相馬愛蔵)が見舞に呉れたのですが、これが又馬鹿に旨(おい)しくて迚も止めること力出来なくなりました。─」(大正9年5月3日附書簡)

 

 結核を病む彝が、様々な療法や、「ボビナイン」「四○號」「沃度注射」などの薬を一縷の望みをもって試みたことはよく知られているが、食事療法にも相当意を配っていたことが、今村繁三の妻に宛てた書簡中「その頃愛読して居た石塚さんの食物の養生」や「自分の小さい経験では、なるべく単純な塩からい食物、例へばねぎの味噌粥に副食物は味噌漬、古梅干、大根の煮しめ、白身のさしみ等を少なくとも一週間に三日位は時々用ひる事です」などという記述から窺える。「カルピスは初恋の味」というコピーは大正10年、詩人の驪城(こまき)卓爾によって作られているが、当時「赤い鳥」などに掲載されたた宣伝文には、その効能のひとつに「カルピスは人体の抵抗力を旺盛ならしむる強壮料として特に結核素質者、腺病質者、及び妊娠中の婦人、悪阻患者等に最も必要であります」とある。彝がこうした効能書きを鵜呑みにしたかどうかは別として、彼がそれを単なる「口あたりのいい」清涼飲料として愛飲したのでないことは前記書簡に明らかであろう。

 

 ところで、「カルピスの包み紙のある静物」という長い題名はいつ頃からこの絵に使われはじめたのであろうか。彝の歿後まもなく画廊九段で開かれた遺作展(1925)には「静物」として出品されている。翌年刊行された「中村彝作品集」にも「静物」とあり、またアトリエ社の画集(1926)も同じである。昭和16年出版の森口多里「中村彝」(アトリエ社)も同様であるが、森口氏はその第2章で「藍地に白の水玉模様のある紙(カルピスの包装紙)を敷いた卓の上に花をいけた角瓶や花を植えた鉢をのせた「静物」」と形容している。戦後に目を転じると、昭和28年、開館まもない(東京)国立近代美術館で開催された「四人の画家」展では先例を踏襲し「静物」となっている。「カルピス」の名がその題名に冠されるようになったのは、昭和38年刊行の講談社版「日本近代絵画全集」第10巻・今泉篤男「中村彝・佐伯祐三」をそのはじめとするようである。今泉氏は先の「四人の画家」展を組織されているが、そのおりに「静物」だけでは混乱が生じて不都合であると感じられ、「パイプのある静物」など各静物画の特色を題名に附されたように推察される。今泉氏がこの絵に冠した名は「カルピスのある静物」であった。その翌年、鎌倉の近代美術館での「中村彝とその友人」展では「カルピスの瓶のある静物」と変っている。「カルピスの包み紙のある静物」という今日の題名となるのは、講談社「日本の名画」37巻・鈴木秀枝「中村彝」(1972)が最初のようである。その後の展覧会・画集では、集英社「現代日本美術全集」三木多聞「中村彝」が「カルピスの紙のある静物」とあるほかは、全て「カルピスの包み紙のある静物」を用いている。昨年の当館の展覧会でもそれを踏襲したように、今日ではすっかりこの名称は定着したかに思われる。しかし念のために、この稿を起すにあたって、カルピス食品工業株式会社広報部の橋本信明広報課長にお尋ねしたところ、この題名の因となった水玉模様の包装紙は昭和初期に誕生したもので、カルピス生誕の7月7日、七夕に因んで天の川を形どったものですというお答えをいただいた。彝は大正13年のクリスマス・イブに喀血による窒息のため歿しているから死後のことになる。ただ橋本氏は贈答用の包み紙に水玉模様を用いた可能性もないではないであろうとされた。余談であるが、カルピスの、帽子を被った黒人のマークは、第一次大戦後、疲弊・困窮の極にあったヨーロッパの美術家を救うため、創業者三島海雲の発案でドイツ・フランス・イタリアでポスターの懸賞募集をし、選ばれたものであるという。作者はオットー・デュンケルというドイツの画家であるが、この画家の詳細はわからない。

 

(まきの・けんいちろう 学芸員)

 

年報/中村彝展

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カルピスの包み紙のある静物

カルピスの包み紙のある静物

1923年

 

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