このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

ドイツ、魔の山のひとびと ドイツ表現主義の周辺2

東俊郎

 1901年、ベルリンに新しくつくられた勝利広場にはプロイセンの指導者32人の大理石像が偉容をほこり、いまや世界の支配者たらんとするウィルヘルム2世はその開設を祝って次のように語った。

 
かくも壮大な企図を実現し得る一団の芸術家とともに、全世界〔註:そういえばこの時代のドイツで世界―,Welt―という言葉が流行した。〕の前にここベルリンが存在していると考える時、この私の心は誇りと歓びで、いっぱいとなるのであります。 それは、ベルリン派の彫刻が、ルネサンス彫刻にほとんど劣らない水準にあることを、示すものであります。

シーダ・シャピロ「画家たちの社会史」荒井信一訳、三省堂、1984年

 そして彼はヒットラー顔負けの言葉を吐いている、「私の定める法律や限度を逸脱するいかなる芸術も、もはや芸術ではありません。」、と。ここにぼくらがみてとれるのは、政治の用語が芸術の領域へとめどなくあふれ、芸術を蚕食する光景以外のなんでもない。そこで、ウィルヘルム2世からみれば「限度を逸脱する芸術」にちがいなかった表現主義芸術がかえって芸術が芸術であるけじめを守ったという逆説も生まれ得る。「価値真空」を誇大な妄想によって、陶酔によって忘れるという悪知恵よりは、なにもないのなら、なにもないという不毛と野蛮こそ活用すべき所与だとする愚直を信ずる、とは近代人の固執である「自己」―すペての力の源である「自己」を信ずることに依存するとはいえ、一方、なにも『ゲルマーニア』にまで遡らなくても、ドイツという共同体への最終的な信頼(たとえば〈ブリュッケ〉の目標のひとつはドイツ中世の職人的な共同制作・生活だった)の絆はけっして切れていないことを表現主義を考えるとき無視できないだろう。表現主義芸術がフランス印象派ほどなじまれない遠因もそこにあるかとみえる。

 

* * * * *

 

 そして音楽は――。

 

 「価値真空」に傷つかないそれは、精神の不毛・欠如・歪曲をむしろ恰好の土壌として急激に巨大化した異常植物のようなリヒャルト・ワグナーの、みずから誇るところの綜合芸術――楽劇で頂点に達した感がある。ドイツの空を黄昏に染めぬいたその音響は、国境を無気味に侵しつつ折しも世紀末趣味に沈もうとしているフランスの最も輝かしい知性、音楽家ならドビュッシイ、詩人ならポオル・ヴァレリーの魂にはいりこんでしまう。

 

 ただ彼らにあっては無心な陶酔から冷静な批判への旋回がやがておこなわれ、このワグナー病は退潮するにいたるが、彼らの精神の地形図をのぞいてみるなら格闘の跡もなまなましい深い傷のような断層がいくつも発見できるはずだ。それなら反ワグナー党となったドイツ人、たとえばニーチェの場合、事態はさらに深刻だっただろうし、ニーチェほど劇的にワグナー礼賛から否定に急旋回しなかったにせよ、彼の音に野蛮と暴力を聴きとらないはずはなかったトーマス・マンの場合も、なまなかの用意ではワグナーの音楽を拒否できないことをするどく自覚していたようだ。それが〈内なるドイツ〉である眼り、ワグナー批判はとうぜん自己批判を大量に含んでいるからである。逆にいうなら、自己批判などには無縁の圧倒的多数のドイツ中間層の上昇指向的な耳には、「ジークフリート」が腐敗した世界に正義のたたかいをいどむドイツ民族の昂揚と、「パルジファル」が聖なる杯のもとにあつまって人類の新生を庶幾する使命感と結びついた甘美な夢=現実として、自己肯定の音楽として響いていたとしてもけして不思議ではない。

 

 このへんでそれをワグナー一箇の個性を超えたドイツの音、ドイツの悲喜劇を示す運命の音だといってもいい。だからここでルキノ・ヴィスコンティの映画『地獄に堕ちた勇者ども』のなかで使われていたブルックナーの交響曲の印象をぽくがいま思いだしたからといってけっして唐突ではない。ブルックナーの天上的な音楽もそれが地上におとした無意識の影をみれば、なにやら背筋をぞくぞくさせる、快楽を秘めた悪魔的な瘴気の微粒子をゆっくりと、ゆっくりと発散させていて、ナチの非情な政治劇の展開する画面にぴったりあって気味がわるいくらいだった。おもえばあれこそ〈内なるドイツ〉なのだ。新鮮でしかもどこか腐った果実がもつ特有のエロスの匂いそのもであったシャーロット・ランプリングとともに。

 

* * * * *

オットー・ディックス 「流行のダンス」

オットー・ディックス

「流行のダンス」

 

1922年

 

 もちろんべつの観測もできる。力工ルの目は動くものは識別できても動かないものは、そもそも認識できないという話をきいたことがあるが、そうだとすると「歴史」というのもなんだか力工ルの眼に似ている。世界の動静と言葉ではいっても、あれは大概動動にすぎない。静への目配りのきいた歴史(家)こそ真にその名にふさわしい。そこでぼくも、これまでの論旨を破るかもしれないワルター・ラカーの次のような視点をここにいれておく。

 

 1914年以前のドイツは自信と楽天主義をふんだんに発散きせていた。当時におけるほとんど唯一の耳ざわりな 声の源といえば、どの時代にも見受け られる左右両翼の少数の文化悲観論老や、さし迫った混乱と破滅を予測 しながらそのつぶやきの口火が真面目に取りあげられなかった、数人の風変わりな作家や画家の他にはなかった 。(中略)戦前のドイツの特筆すべき特徴は、たしかにそのような〔大革命前のフランスのような。タレーラン は革命前のフランスを知らない人は、人生の楽しみを知らないといっているがともかく、金だけでは買えない〕 優雅な生活ではなかったが、それでも、後の世代がついぞ経験することのなかったような安定感を知っていた。

ワルター・ラカー「ワイマール文化を生きた人びと」脇圭平他訳、ミネルヴア書房、1983年

 つづけてラカーが「資産家が、次の年に、自分の貯金や投資からどれだけの収入があげられるか、はじき出すのは、さして困難ではなかった」といい、「進歩・啓蒙・理性に対する信仰は、中産階級のなかにも、労働者階級のなかにも、根深く定着していた」と記すその時代は、なにはともあれ古い中国の諺でいう鼓腹撃壌の時代に近かったことについて、異議をとなえるのはむずかしい。彼のいうように、第一次世界大戦後のドイツ社会の広汎な層に「幸福な過ぎ去りし日」という強烈な郷愁がひろがったとするなら、なおさら。

 

* * * * *

 

 digression and digreSSion の連続だがこのへんですこし表現主義にふれよう。というのも、そのおなじラカーが表現主義を単に美術のみにとどまらない社会運動とみて簡潔な定義づけをこころみているからである。表現主義とは、と彼はいう。

 

 中産階級の青年運動であり、中庸〔さきに述べたドイツ社会の安定〕に対する倦怠感と不満とに根ざした、世界的規模における反逆の一部であった。つまりそれは、知的な洗練と創造性の点でより高度な水準に立った一種のワンターフォゲルであった。

 

 しかしここではっきり区別しておかなくてはならないのは、精神と肉体の健康をもとめてはじまったワンターフォーゲルが、すこしずつ政治の網の目に組みいれられて、その「純粋」を利用されてゆくのに対し、表現主義運動のほうは、さらにつづけてラカーを引用すると「表現主義でないものや、表現主義がそうありたいと望まなかったものを確認することの方が、はるかにやさしい」というほどあらゆる思考と感情のごった煮であったにもかかわらず、本質的に政治意識がひくかったという点だろう。たださきにふれた初期〈ブリュッケ〉の中世回帰にみられるような〈理念の共同体〉をもとめる社会意識はあったので、いまからみれば美術史上いちはやい〈反近代〉の烽火とも、それはかんがえられる。

つづく

 

カール・シュミット=ロットルフ 「帰りつく小舟」

カール・シュミット=ロットルフ

「帰りつく小舟」

 

1921年

 

 

たとえばワルター・ベンヤミンは「自由ドイツ青年運動」の指導者グスターフ・ヴィネケンに私淑していたものの、第一次大戦勃発後にヴィネケンが書いた『青年と戦争』に対し、失望して去ってゆく。 →生松敬三「二十世紀思想渉猟」青士社、1981年

ページのトップへ戻る