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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > ドイツ、魔の山のひとびと ドイツ表現主義の周辺1

ドイツ、魔の山のひとびと ドイツ表現主義の周辺 1

東俊郎

 「自らを野蛮とは無縁の者とみなすようでは、20世紀のヨーロッパ人たる資格はない」とかいたのはオーストリアの文学者エリアス・カネッティである。ヨーロッパがヨーロッパであることを僅かにおもいだした世紀末をこえたとき、彼らヨーロッパ人を待っていたものがなんだったかを、この言葉はよく示している。なかでもドイツにおいて、この含みの多い表現はすべてこの帯域で発火した。表現主義とはこの現象をさす言葉の一例にすぎない、とぼくは考えている。表現主義という言葉をひっくりかえせば、その裏側にいま引用したカネッティの書物の題『群衆と権力』が顔をみせる、といったぐあいに。

 

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 以下20世紀ドイツ芸術という多面体のサイコロをふってみよう、とかいてまず思いだしたのはアインシュタインの「神がサイコロあそぴをするはずはない」で、これはハイゼンベルクの自伝『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房)にでている。現在でも難解だといわれ、「同時」という概念に代表される古典的時間論を一新した相対性理論を生んだ頭脳が、ハイゼンベルクの「不確定性理論」とニールス・ボーアーの「相補性」に支えられた量子力学という、いっそう新しい思考に対する反発と拒否の身ぶりを示した言葉といえよう。しかし承認するから拒否するのであって、滔滔たる思想の流れが「世界は(神のいない)サイコロあそび」のほうをむいてゆくことにアインシュタインが無感覚だったとは思えない。ただ彼の知性がそこに「野蛮」をみて不安をおぽえる〈形式〉であったのに村し、ハイゼンベルクの知性はそれをそれとして生きる〈内容〉だという相違があるだけだ。神なき宗教画家である逆説を生きるエミール・ノルデに似ているのはアインシュタインか、それともハイゼンベルクか。

 

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 さてこのハイゼンベルク、ひょんなところでドイツ表現派の画家とかかわりがあった。その画家とはロヴィス・コリント、場所はヴァルヘン湖畔のウァフェルド。コリントが画業の頂点で病気にたれたことは周知だが、それまでの重厚であっても運動のない画風をふきはらって、「ブリュッケ」のもっとも尖鋭な、輝かしい才能を感じさせるキルヒナーをも刺戟した作品を描いてもっとも表現主義に接近するのは病気回復ののちなので、しかもその重要な舞台となったのが1919年以降住んだヴァルヘン湖畔の別荘だといってよい。コリントは1925年に亡くなる。そして1939年夏、近づく破局の予感にうながされ家族の避難所をさがしていたハイゼンベルクが手にいれたのが、偶然にもこの旧コリント別荘だったというわけなのだ。『部分と全体』はこう描いている。

 

 その別荘はかつて若かった頃ヴォルフガンク・パウリとオットー・ラポルテと私とが、自転車旅行をした際に、カルベンデル連山の風光の中で、量子論について討論しながら(註・同書pp.47-56.1921年のこと)通ったあ の街道のおよそ百メートルばかり上の山麓の南面にあった。その家はロビス・コリンスの所有であったもので、私はそこのテラスからの眺めを、時折展覧会で見かけた彼のワルヘン湖畔の風景画から、すでによく知っていたものであった。

 

 ドイツの超一流の知性となったハイゼンベルクの美術についての関心をもつと穿鑿してみたいけれど、推測するに彼の芸術趣味は物理学の領域での過激さとはうらはらに、保守的とはいわないまでも穏健な、中庸をえたものだろう。それは美術以上に愛好する音楽(この時代のドイツの学者芸術家にはべつに稀ではないが、なにかひとつの楽器はひける愛好家。ハイゼンベルクの場合はピアノ)上の見解からほぼ想像されるからである。彼によれば「最近」(註・1920年ごろ)の音楽は「驚くほど不安定で、むしろ虚弱な実験的段階におちいっており、そこであらかじめ決められた軌道にそって進んでいこうという確実な意識よりも、理論的な考案」ぱかりが目立つ。そしてそれに同意する友人にこう語らせている。「今日の音楽には、新しい内容があまりにもわずかしか認められないか、あるいはあまりにも認めがたいし、表現の可能性の洪水は僕にはむしろ心配になるだけだ。」と。

 

 つまりこと芸術にかけては、物理学上の「サイコロ遊び」を許せないアインシュタインとほとんど同じ位相にあったハイゼンベルクにとって、いっけん表現の拡大にみえるものこそ表現を死にみちぴく野蛮な行為とみえたにちがいなくて、このこと、すなわちあるひとつの領域における前衛が別の領域では必ずしも前衛となりえないという事実はむしろふつうである。抽象絵画への道を拓いたカンディンスキーが、シェ-ンベルクの音楽のよき理解者であったのは、むしろ例外に属する。そのカンディンスキーよりもっとmusik-alischだったとぽくにはみえるクレーにしても、 モーツアルトとバッハから離れることはなかったのに。

 

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 はなしをコリントにもどそう。彼が左半身不随の難病を克服してきりひらいた後半生の画業は、キルヒナーからも「奇跡的」だと評価されているが、その画面の力強さと深さが彼の病気にもかかわらずではなくて、むしろ病気によって生まれたとする考察がある。(杉下守弘「右脳損傷と画才」、『現代思想』1984年10月号収載)右脳に損傷のある画家の絵が「より感情的な直接的な」傾向と左半側空間の無視という特徴をあらわすというH・ガードナーの説を論証するかたちをとっていて、日本人の例としては中山巍をあげる。

 

 ぽくにとってはおもしろい仮説だが、ただ、このような原因―結果の一対一対応にもとづく考えには、思考の野蛮さとそれゆえのあきたりなさをいつも感じてしまう。身心の深い相関をいうにしても、まず肉体としての全体、そして精神としての全体を楕円の異った二極としたあとで全円を描かなければ、そもそも相関などないにひとしい。身体の欠陥はまず身体が補い、そこから身心の結合地帯をへて精神へ顕現する(逆もまたおなじ)とする考えのほうに、なによりまず懐の深さを、応用の広さを、いいかえればこれからの科学の趨勢をぼくはみる。分析とか切断という言葉に代表される科学=方法とは、今となってみればはっきりわかるように、特殊ヨーロッパ的なものなので、しかもこの方法が20世紀初頭のドイツで完成されると同時に解体きれる運命を担ったところにドイツの悲劇と喜劇があるのだ。その間の事情が知りたいなら、ポール・ヴァレリイの『ドイツの制覇』とナチ体制下の茶番である、〈ドイツ物理学〉 なる概念をつきくらべればよいだろう。

 

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 ドイツが19世紀半ば以降(象徴的には1870年の普仏戦争以降)イギリスとフランスにとっておそるべき競争者として急速にうかびあがってきたのは、ビスマルク外交の成功とむすびついた産業資本の急成長、商品の市場を求める海外植民地政策によるが、さらにその背後をさぐると科学研究におけるドイツの圧倒的な優勢につきあたる。そしてそこから、ドイツ人(またはアーリア人)は世界の〈頭脳〉であるという確信(狂信)へわきめもふらずつきすすむところに生まれたのが〈ドイツ物理学〉という奇形児だった。ゲルマン的な徹底性によって合理に合理をつみかさねたあげくのこの野蛮な不合理。(抽象の高みと野鄙な夢想との反知性的な結合。「ドイツ、世界に冠たるドイツ」の歌声の初々しさのなかから双頭の鷲が羽ば亡く音がきこえはじめる。

 

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 ここまで書いてきてちいさな事実がひとつみつかった。ウァフェルドの別荘はコリントの娘が夫とともにドイツを脱出すべく不要となったので、ハイゼンベルクに売ったらしく、一方ハイゼンベルクは、目前にせまった政治的破局をみこしてアメリカに亡命したフェルミなど多くの友人に会って後、1939年8月「アメリカからヨーロッパヘの最後となった船で帰って」きたという。(エリザベート・ハイゼンベルク「ハイゼンベルクの追憶」山崎和夫訳、みすず書房。なお、〈ドイツ物理学〉にふれた箇所が若干ある。) アメリカに亡命したフェルミとドイツに止まったハイゼンベルク――この関係はゆくりなくもぽくに同時代の二大指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーの、さらにもつれた関係を思いださせる。そしてフルトヴェングラーといえばいわずと知れた「文学の道に迷いこんだ音楽家」トーマス・マンとの、ドイツをめぐる複雑怪奇な愛憎のドラマをも。アメリカ亡命後、それまでの「またもぐらつくトーマス・マン」から「反ナチの闘士」へと急旋回した彼は、フルトヴェングラーをナチの御用音楽家と批難するが、のちやや冷静にドイツ知識人の精神の総決算とみなしうる、『ドイツとドイツ人』を講演したことを忘れてはいけない。このトーマス・マンの著書や、フルトヴェングラーとハイゼンベルクの、国賊とののしられる危険を十分知りつくしつつ、いやドイツの敗戦を確信しながら亡命しなかったという〈事実〉のあいだから、悪役にされつづけてきた不幸な歴史をもつドイツの、かけがえのない美質へ至る糸口がわずかにのぞいている、とみるのはぼくだけなのだろうか。しかし急ぐことはない。トーマス・マンの「ドイツとドイツ人」を紐解かなくても、ドイツの良心的な知識人はずっと同じことを考えてきたのである。

 

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〈ドイツ〉についての引用二件

 

 「あんなに深い思想のうまれたこの団で認識を行動にするために全国民の力があつめられたためしがいまだかつてないのである。不正の暴力追放のために手が動いたためしがない。考えることにかけては人並以上で、純粋理性のいきつく最後まで、虚無の底まて考える。ところが現実の国では、神の恩恵と腕力が支配している。(略)生活はゆっくりと重苦しい。精神にしたがつて生活をつくりあげる造形的な才能がたりない。理念は物のよこで、あるいは物のうえで、すきなように遊びをたのしんでいるがよいというわけである。理念がおりてきて手をだすと、混乱や見通しのつかぬことをひきおこすだろう。(ハインリッヒ・マン『精神と行為』、「表現主義の理論と運動」河出書房新社に収載)

 

「作家や思想家の群れは詩人気質をかなぐり棄てたこと、そして詩人気質は思想家の詩人気質とならないで、もっぱら科学者とかさらには音楽家の詩人気質となったことは、少なくとも部分的には、ドイツ精神がしばしば――そして遺憾なことにあまりにもしばしば――取りかねないあのラジカルな性格に帰着することができる。このラジカルな性格のために、ドイツ精神は時代の根本諸特質の一つである合理性を極度に発展させて、極端な抽象性にしてしまった。このような抽象性の中にあっては、ただもろもろの科学と、抽象性の是認できる表現手段たる音楽だけが残り続けるにすぎない。」(ヘルマン・ブロッホ『ホフマンスタールとその時代』菊盛英夫訳、筑摩書房)

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 科学と音楽の領域におけるドイツ人の圧倒的な能力にもかかわらず、そこにいつもなにか、大神殿を建てながらその横の掘立小屋にすんでいるような印象があるからか、たとえばトルストイの『戦争と平和』からジョン・バカンのスパイ小説 『緑のマント』までに登場するドイツ人たちは多分に滑稽な存在だ。どうもイギリス人からみればセンチメンタルだし、フランス人からみれば窮屈で、ロシア人からみれば権高すぎるというわけだ。

 

 け・黷ヌオーストリア人は今でもドイツ人だと思っていないという話があるそうで、彼らがドイツ人という言葉で意味するのはプロイセン(プロシア)人だということは、ちょっと頭にいれておいたほうがいい。プロイセンのプロイセンによるプロイセンのための膨張運動がドイツの栄光と挫折の軸をなしているからである。それではこのプロイセン的なるものはなにかということだが、再びハイゼンベルクを引用しよう。ニールス・ボーアとの対話のなかで彼はそれをもっともよく象徴するのは「清貧と純潔と従順という修道僧の誓願を立てて、キリストの教えを拡げるために神の庇護の下に異教徒と戦うというチュートン騎士の姿」だといっている。プロイセンがドイツを「征服」した余勢をかってフランスを破り、パリ、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国が誕生するそれ以後、「ドイツ、世界に冠たるドイツ」の下、世界は突然「異教徒」だらけの野蛮な地にみえはじめたのだろう。皮肉なことに、当のドイツに精神生活の荒廃、ヘルマン・ブロッホのいう「価値真空」の状態がひろがってゆくことはもちろん知るよしもなく。文学と美術がそのいちはやい鏡となる。

 

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 「しかしそれなら、なぜいわゆる普仏戦争後の泡沫会社濫立時代のドイツは――それは1870年から1890年までの時期であるが――完全に精神的荒廃の印象を呼び覚ましたのであろうか。」(ヘルマン・ブロッホ)

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 ブロッホはこの「価値真空」をヨーロッパ全体の次元で語ることにつしては留保しつつ、もっぱらドイツという例外的状況について議論をすすめている。そこで彼が導きだす思考の綾をほぐせば最後にのこるのは次のようなことになるはずだ。すなわち、ドイツの「価値真空」は文学と絵画の領域以外では無視されがち、というかほとんどその徽候さえ気づかれなかったのにくらべ、それをまっさきに計測したのが文学者・美術家なので、それゆえこの時代の文学と美術にはなんらみるべき成果がなかったのだ、と。なにか現代の世相を暗示する言葉のようにさえ、ぼくの耳に響いてさて、ブロッホの苦々しい心裡が察せられひとごとではないが、さてこの彼の見解を逆からみれば、空を空と観じることができず、かえってそこに「空華」(この言葉をいまぽくは道元がつかったのとは逆のベクトルでつかう)を、誇大妄想にちかい繁栄の夢をみていた芸術家と、彼らを支える新興成金的保護者の多さを想像せざるをえなくて、その最たる人物はなんといってもドイツ第二帝国の皇帝ウィルヘルム二世だろう。

つづく

 

 

(ひがし・しゅんろう 学芸員)

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