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川喜田半泥子

森本孝

 当館では、宇田荻邨展藤島武二展に続く第3番目の、三重県にゆかりの深い作家を回顧展望する企画展として、本年7月14日から8月12日までの間、半泥子が永らく頭取・会長の職にあった百五銀行と、茶道裏千家淡交合三重支部表千家同門合三重県支部の協賛をいただき川喜田半泥子展を開催した。この展覧会は、半泥子生誕105年を記念したもので、当館では最初の工芸展であった。

 

 充分な準備期間が取れず、細部にまで行きわたった展観とは言い難いが、幸い満岡忠成氏を中心に、林屋晴三氏、藤田等風氏、吉田耕三氏からの協力を得て、半泥子の芸術活動のほぼ全貌をうかがうことのできる内容の、半泥子の展観では最も大規模なものとなった。

 

 半泥子は本名川喜田久太夫政令、幼名善太郎。父・久太夫政豊、母稔子の唯一の子として、明治11年(1878)11月6日大阪で生まれる。多芸多趣味、青年時代から芸術に関心をよせ、茶道・油彩画・日本画・俳句などそのそれぞれに一見識を有し、特に陶芸においては余技が嵩じて道楽三昧、金と時間を費やし、いつしか玄人では成し得ない境地に至った人物である。号には半泥子のほか、無茶法師、泥仏堂主人、紺野浦二、鳴穂堂、莫迦耶慮、其飯、部田六郎などがある。

 

 明治32年(1899)早稲田専門学校を卒業、家業の百五銀行に入る。朝鮮古窯を探訪して千歳山の自邸に自ら登窯を築き、戦後は津市郊外長谷山の麓に窯を移し広永陶苑を創設、後進の指導にも当り、昭和38年11月26日に没している。

 

 富豪川喜田家の16代として生まれた半泥子であるが、生後6か月にして祖父石水と父を失くし、母とも生別を余技無くされ、祖母政子以外には心を許せる人物はなく、何不自由のない身上とはいえ、精神的には孤独な青少年期であった。人生の寂しさを早くから知らされ、神経質で身体も弱かったそうである。

 

 大正5、6年頃から余暇に楽焼を楽しんでいた半泥子は、始め地域の産業振興を目的として専門陶工集団による工房造りを考えていたが、半泥子の意に叶うものはできず、昭和7年(1932)自ら作陶に入る決意をしている。

 

 百五銀行頭取など多くの会社の要職にあって、多忙な毎日であったにもかかわらず、半泥子の自己流によるお茶碗作りも本格化していく。乾山が鳴滝の非常に裂い土でさえ、へたってしまうことなく見事な茶碗を作っていることに負けじと、半泥子もあらゆる土を使い、手当り次第に焼いていった。昭和9年には加藤唐九郎が来て、轆轤引きにも熱がこもる。

 

 世の中の常識や約束事には全く拘ることのない半泥子であったから、親交を重ねる人物は幅広く、大工や農夫あるいは大会社の社長や国務大臣など、その地位も名声も超越したところでの交友関係があった。

 

 趣味の世界では洋画家の藤島武二(1967−1943)、岡田三郎助(1869−1939)栗原忠二(1886−1936)、日本画家の鏑木清方(1878−1972)、陶磁研究家では、津中の同級で大正13年(1924)自ら東洋陶磁研究所を創設してそれまであまり知られていなかった東洋陶磁の研究に尽力した奥田誠一(1883−1955)らがいた。

 

 特に陶芸家では金重陶陽(1896−1967)、中里無庵(1895− )、三輪休和(1895−1981)、荒川豊蔵(1894− )、加藤唐九郎(1898一 )、ら、後年になって桃山時代に生まれた伝統的な陶芸を復興させ、独自の作風を確立した多くの人たちと半泥子は交友を結び、彼らから様々な陶技を学びながらも、「作陶する精神」においては半泥子が指導的役割を果仁したものと考えられる。

 

 川喜田家には千利休(1522−1591)の竹花入や光悦(1558−1637)の茶碗をはじめ数多くの名品と文書が伝わっており、財産も名誉も欲しいままであった半泥子であるが、いわゆるお金持ちではなく、数奇風流する心があった。祖母政子に推められて、伊勢朝熊出身の大徹弾師のもとへ早くから参弾、「無とは何か」を教えられていた。晩年に至り「ほんとうに天分ある素人は素朴でつまらぬ古い約束事にとらわれず、純真集中的であらゆることに疑問と興味をもち新しい工夫創作を試みる。外から苦労と見えても御当人少しも苦しみではなく、その仕事は楽しみに満ち、時間も場所も忘れてそのことに傾倒する。念願とするところはひとえに芸術的真実の発見だけである。」(『萌春』昭和33年)と述べているように、無になろうとする絶え間ない努力から、自由自在に作陶する精神が生まれ、無心になって数千、数万個の茶碗を作るなかで芸術性の高い作品ができる、と半泥子は考えた。「真にお茶をおいしく飲める茶碗を作りたい」という想念は、利休・織部、光悦・乾山といった人たちによって生まれた茶陶に通じるものである。江戸時代に入ると、茶の湯の人口は増大し、茶陶の生産も量的には増化するが、例外はあるとしても全体の作行きは次第に画一化され低調となり、明治・大正を経て昭和を迎え、半泥子によって蘇えり、沈滞していた茶陶の空気を一掃するだけの仕事を半泥子は行ったと考えられる。

 

 半泥子は素人であった。しかし、偉大なる素人であったといえよう。既成の約束事や様式にとらわれることなく、様々な陶技を自らの趣くままに駆使して、素人ならではの極みに至っている。半泥子の作域は、井戸、伊羅保、三島、唐津、伊賀、引出黒、志野、染付、赤絵など非常に広い。しかし高光茶碗を作っても、志野を焼いても、それらは全て半泥子流である。それぞれの作品には、作者である半泥子の作陶する喜びと楽しさが満ち溢れ、大らかな雰囲気が匠みに表現され、豪快な作調のなかに半泥子の繊細な作為をうかがわせている。

 

 半泥子の創作活動は幅広く、自らの俳句を記した生気溢れる書や軽妙な淡彩画なども数多く遺しているが、その中心はお茶碗づくりにあったであろう。シャァシャァ削り落とすことなく高台は一発で決められ、口造りには張りがある。ロクロも一気に引さ上げられ、高台脇から胴を経て口辺に至る曲線は伸びやかで濶達自在である。釉掛けも半泥子の意の向くままに掛けられてはけられてはいるが、胴、腰、茶溜りなど見処の景色はピシャリと決まっている。半泥子の作る茶碗には、格調高いリズムがあり、ひとつひとつの茶碗がそれぞれ違った味わいを持っていて、見る者を楽しませてくれる。

 

 半泥子の代表作として、萩で焼いた『萩の宿』、千歳山時代の『松ヶ根』『すず虫』『天平』『いよ長者』『志ら菊』などがあげられよう。戦後の広永窯では『沖の石』『一声』『赤不動』『厚氷』『大さび』『寒山』『仁和寺土茶碗』など、より一層多彩な作調をみせる作品群がある。

 

(もりもと・たかし 学芸員)

 

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