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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > 下村観山における古典と創造

 

下村観山における古典と創造 -近代日本画の歩み展に因んで

毛利伊知郎

 

 新しい芸術の創造に当り、画家達がより古い時代の作品から霊感を得て、革新的なスタイルを創り出すということは、洋の東西を問わず、美術史上度々見られる現象である。

 これは明治以降の日本画の展開を辿り、その特質を探る上でも注目される事柄であって、当館の「近代日本画の歩み展」の際にも、このことの重要性を筆者は強く感じた。そこで、ここでは下村観山の場合を例にとって、この問題につき筆者の感じるところの一端を記すこととしたい。

 

 

 明治27年(1894)東京美術学校を卒業してから、昭和5年(1930)57歳で没するまでに制作され仁観山の重要な作品を、彼が中国や日本の古美術に対して如何なる接し方をしていたかという点に注意しながら通覧していると、そこにはおよそ次のような三つの傾向を認めることができるように思われる。 すなわち、「仏誕」(明治29年)、「闍維」(明治31年)など仏教絵画との関連を示すものが第一。第二は、「熊野観花」(明治27年)、「大原御幸」(明治41年)などのように平安・鎌倉時代の絵巻物からの影響を示すもの。また第三は、「木の間の秋」(明治40年)や「小倉山」(明治42年)などのように琳派を初めとする江戸絵画研究の形跡が認められる作品である。

 

 無論、こうした類別が絶村的なものでないことは言うまでもなく、上記三つの傾向も、各作品を成立させている様々な要素の一つにすぎないわけであるが、観山の作画活動の内実をより深く理解する上で、少なからぬ示唆を与えてくれる特徴ではあるということができよう。

 

 ところで、観山の代表的作品を明治40年の「木の間の秋」や同42年の「小倉山」、あるいは大正3年の「白狐」、同4年の「弱法師」など、江戸絵画研究を基礎とした大画面形式の作品とみるのは、恐らく異論のないところであろう。そこで、これら諸作品の作風を検討しながら、その特質を探ってみることとしたい。

 

 明治40年の第1回文展に出品された「木の間の秋」は、既に発表当初から本図を酒井抱一と比較した評者があり、またその後も先学の指摘したごとく前景の薄を初めとする秋草の形態や、画面上方から下降する葛の表現、あるいは没骨描法による樹幹の各所に施された溜込の技法等には、観山による琳派研究のあとが明らかで、抱一の「夏秋草図屏風」・「月に秋草図屏風」などとの関連が強く想起される作品である。

 

 ただ、「木の間の秋」における観山の琳派学習は、上記のごとき部分的なモチーフや技法のみに限定されていて、抱一画に見られる広い余白を生かした装飾的な画面構成は、「木の間の秋」においては全く採用されていない。むしろそれとは逆に、観山は数多くの雑木を重層的に配し、余白を少なくすることによって、奥行の深い密度の高い緻密な画面を構築しようとしたように思われる。

 

 このように、観山は「木の間の秋」において江戸琳派の形態表現を巧みに自らの画襄に取り込んだが、明治後期から大正前期にかけての彼の画風展開を見ていると、その後の観山は先述したようなモチーフの形態表現に重きを置いた琳派学習の段階から更に進んで、画面構成の面でも琳派的な特質を次第に画中に盛り込んでいったようである。

 

 例えば、明治42年の「小倉山」を見ると、その木立ちの表現などは「木の間の秋」のそれと似通っているが、画中に描き込まれた樹木の数がかなり少なくなって整理されている点、とりわけ向って左隻の楓の老樹と異様に延伸した松の木とが装飾的に配された余白の多い画面は、「木の間の秋」の非常に濃密な空間構成と比較したとき、先ず注目される特徴であり、観山による琳派研究の有様を考える重要な手掛かりとなろう。

 

 「小倉山」に見られた新しい傾向は、大正3年の「白孤」になると、更に押し進められているようである。本図はその前年に世を去った岡倉天心を追慕して制作された作品と云われ、内容的には極めて高い精神性を求めたものと考えられるが、ここで観山はやはり江戸琳派研究から学んだと思われる広い余白を持つ装飾性の強い左隻と、緻密に描き込まれた右隻とを対比させて全体として緊張感漲る有機的な画面を構築することに成功している。 この「白狐」に見られるような、装飾的な表現を用いながらも、画面全体としてはより深い内実性を持った画中世界を築さ上げようとする観山の制作意欲は、大正4年の「弱法師」において一つの頂点に達したように感じられる。「弱法師」にあっては、背景は総金地となり、そこに主人公の俊徳丸・梅の老樹・夕日という主要なモチーフのみを大胆に配置して、この主題の劇的な性格を表出することに成功している。とくに、満開の花をつけて枝を四方に伸ばした老梅は、構図の上では合掌する俊徳丸と彼の祈りの対象である画面左端の夕陽とを連絡する重要な役割をおっていると思われるが、その表現からは観山が琳派の花木図のみならず、桃山・江戸初期の狩野派を中心とした障屏画をも視野におさめていたことが看取されるのである。

 

 以上のように、明治後期から大正前期にかけて制作された観山の主要な屏風画を検討してみると、彼は主として抱一や光琳など琳派の花木表現や装飾的画面構成、更には金地の使用や溜込の技法も取り入れて、それらに加えて象徴性や夢幻性をも盛り込んだ彼独自の絵画世界を築くことに成功したということができるように思われる。古典的な作風・技法の継承と新しい画風の創造という性格を異にする二つの芸術的営為の融合は、少なくとも観山の上記諸作に関する限り、非常に良い結果を生んでいるように筆者には感じられるのであるが、他の画家達の場合は如何なるものであったのか、日本の近代美術の有様を考える上で、今後とも注目すへき問題であろう。

 

(もうり いちろう・学芸員)

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