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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > 宇田荻邨

宇田荻邨

森本孝

 宇田荻邨は本名善次郎、明治29年6月30日、三重県松阪市魚町に生まれる。父春吉、母たきの長男。「祇園の雨」「夕涼」「清水寺」など京洛の四季折々の風物を主題に、心をこめて繊細で爽やかな筆致で情趣豊かな世界を描出した作品群を遺して、昭和55年1月28日逝去している。

 

 荻邨は、松阪男子尋常高等小学校(現在の松阪市立第一小学校)に入学、同校高等科を卒業するころには既に非凡なる才能を示し、「商人になれ」と言う両親、画家になることに反対する親戚一同も学校長や図画担当教諭の説得と滝原神宮の元宮司松木光彦のすすめがあって納得、京都の四条派の系統を引く三重県度会郡二見町の画家中村左洲(1873~1953)のもとで1年余りの間、写生・運筆・模写にはげみ、画家への第一歩を歩み始めることになる。

 

 基本的な画技をマスターしたことを示すこの期の「魚類写生帖」「六波羅行幸の図(模写)」を携えて、大正2年荻邨は京都に出て菊地芳文(1862~1918)の門に入る。芳文は四条派直系の幸野楳領(1844~1895)門の、竹内栖鳳(1864~1942)、谷口香◆(きょう)(1864~1915)、都路華香(1870~1931)とともに楳嶺門四天王の一人で、四条派の伝統を受継ぎ、自然を素直にくみとり優美・温雅な画面を構成していた画家であった。

 

 翌3年芳文のすすめで、荻邨は京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)別科に入学、同期生らと共に研究グループ「密栗(ミツリツ)会」に加わり、土田麦僊(1887~1936)など知恩院派の画家たちから強い影響を受けている。

 

 この年から荻邨は文展に出品するが落選を繰り返す。京都市立絵画専門学校の1期生を中心とする知恩院派の画家たち、すなわち麦僊、小野竹喬(1889~1979)、村上華岳(1888~1939)らによって結成された国画創作協会展にも出品したと伝えられるが詳細は不明で、もしそうであるとすれば同展でも落選していたことになる。 

 

 苦しい模索期にあった荻邨であるが、同8年の第1回帝展に「夜の一力」を出品、初入選を果たしてデビューする。以後、暗く重たい色調の「太夫」「港」「木陰」「南座」などを発表、当時の耽美的な風潮を漂わせた作品群には若き荻邨の情念が感じられるとともに、見る者を魅了するカがある。

 

 大正7年、京都の日本画界の老大家であり、荻邨にはやさしい祖父的存在であった芳文が亡くなリー、荻邨は芳文の養嗣子菊池契月(1879~1955)につき、以降契月の清麗典雅な画風と冷徹澄明な作画態度に接し、鍛えあげられていく。

 

 麦僊らとの親交は続くが、新しい芸術性を追求していく国画創作協会の作風から脱却して、荻邨は大和絵や琳派などの伝統の研究へと向かう。大正13年の「巨椋の池」ではそれまでの作品から一変して画面の色調は明るくなり写実に基づきながらも装飾性の高い表現となる。「えり」「梁(ヤナ)」によって、この荻邨の壮麗でかわ爽やかな色彩表現と画面構成が結実したと考えられるが、その間大正14年の第6回帝展に出品した「山村」で特選、翌年の第7回帝展では「淀の水車」で特選並びに帝国美術院賞を受賞、その翌年の「渓間」が宮内省買上げとなり、荻邨は帝展日本画界のスター的存在となる。

 

 昭和10年頃から徐々に軍国主義への傾斜は色濃くなって、本来ならば荻邨の最も充実した一時期が形成されていたと想像されるが、他の画家同様荻邨も、戦争によって精神的な昂揚が疎外された感がある。

 

 終戦をむかえ、戦時中の重苦しい空気は一掃され明朗で自由な気分に満ちあふれてはいたが、画家が戦争による後遺症から立ち直ったといえるのは昭和20年代後半になってからと考えられる。

 

 戦後、荻邨は題材を求めて洛中・洛外を隈なく歩きスケッチをして、それに基づき「蓮」などを制作しているが、昭和28年の「祇園の雨」に至り、祇園白川の実景を一気に洗練昇華させ、清爽で格調高い画境をみせている。以後「鴨川の夕立」「大原寂光院」「夕涼」「清水寺」「雪の嵐山」を発表しているが、そこには実景をことさらデフォルメすることを拒否する姿勢が貫徹されており、円熟期を迎えようとする荻邨ならではの世界がある。

 

 晩年の「桂離宮笑意軒」「水神貴船奥宮」「高山寺」では緑青、群青・朱という大和絵の特色的な色彩をより純化して用い、清々しい諧調が生み出されている。

 

 昭和36年日本芸術院会員、同47年三重県松阪市栄誉市民。明治以来さまざまな様相を呈する日本画界にあって、荻邨は伝統に固執する数少ない画家であったといえる。 

 

(もりもとたかし・学芸員)

 

宇田荻邨についての記事一覧

雪の嵐山|1961年|紙本・着色|本館蔵

 

祇園の雨|1953年|絹本着色|本館蔵

 

木陰|1922年|絹本着色|本館蔵

 
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