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月僊 毛利伊知郎

 「三重の作家たちシリーズ」、第1回目は伊勢古市の寂照寺住職を長くつとめた画僧・月僊を取り上げることとした。画家としての月僊は、一般には京で円山応挙に学んだ所謂円山・四条派に属する画僧として知られている。田能村竹田の有名な『山中人餞舌』には、彼の作風が谷文晁のそれと対比して語られているのを初めとして、当時の文献にもその名をしばしば見ることができ、彼は江戸時代後期において、かなり積極的に活動した画家の一人であったと推察されるのであるが、多作であった割に制作年代の判明する基準作や、良質の現存遺品が少なく、また彼の生涯にわたる詳細な事蹟を伝える文献史料が十分に整理されていないこともあって、月僊に関する実証的な研究は未だ十分に行われていないのが現状である。本稿では、先ず月僊の生涯を概観し、月僊が持つ絵画史上の問題点について、少し検討を加えてみたい。

 

 月僊が長く住職をつとめ、その復興に尽力した寂照寺は、この地方の遊里として名高かった古市の近隣に所在する浄土宗知恩院派の末寺で、その草創は5年(1677)の知恩院37世玄誉寂照知鑑大和尚が天樹院(徳川秀忠女・千姫)の位牌遺品を奉安したのに溯るが、檀家の少ないこともあって、月僊の移り住む頃にはかなり衰退していたらしい。月僊の奔走によって同寺はようやく再興され現在に至るが、当寺には現在でも月僊に関する資料が数多く伝えられている。

 

 寂照寺に遺る月僊関係の資料として、ここでは、当寺境内に建立されている「月仙上人之碑」について、紹介しておきたい。この碑は、碑文末尾の年紀によると、月僊没年の翌年に当る文化7年(1810)9月12日に建立きれたもので、碑文は月僊の弟子・定僊の撰にかかるものであるという。

 

 この碑文は、月僊の踵に接していた弟子による撰であり、また撰文も月僊の入寂の直後になされていて、月僊の事蹟を検討する際の一次資料になり得ると考えられる。碑文に沿って、月僊の足跡を辿ってみよう。

 

 碑文によると、月僊は寛保元年(1741)尾張国那古耶(名古屋)の生まれで、俗姓は丹家氏であったという。彼は、7歳にして円輪寺で仏門に入り、「十有余歳」の時には江戸に下って芝の三縁山増上寺に入ったと伝えられる。また、月僊の号は、江戸において妙誉定日大僧正から与えられたものであるらしい。その後月僊は、京都に上り、知恩院に住するようになったが、この碑文には月儒上洛の年紀については全く記されておらず、また他にもこの上洛の年について言及した文献は見当らないようである。知恩院には、現在でも「百盲図巻」を初めとする月倦画が数点遺存しており、京都時代の月僊の画蹟を知ることがでさる。

 

 月僊が知恩院に何年滞在していたのか、またどのような生活を送っていたのか、といった諸点については、残念ながらこの碑文は何も触れておらず、次に述べられるのは、月僊の伊勢への移住に関る事柄である。それによると月僊は、知恩院貫主・担誉大僧正から、当時既に無住となって荒廃していた伊勢・寂照寺の住持を命ぜられ、伊勢に赴くことになったという。時に、月僊34歳の安永3年(1774)の出来事であった。

 

 伊勢に移った頃の月僊は、既に画家としての声名もかなり広まっていたらしく、碑文によると「納潤筆者接踵而至」る状態であったという。そこで、 知恩院貫主から当寺復興の命を受けていた月僊は、これを好機と作画による潤筆料を主な手投として復興事業に乗り出すこととなった。そして、山門から庫裡に至る寺内の堂塔の有様を一新させることに成功した。現在、寂照寺に通る建造物のうち、当寺の面影を伝えるものとしては、碑文に「転輪蔵堂」と記される経蔵がある。この経蔵は、三間四方の宝形造りで、内部に八角輪蔵が造られている。碑文によれば、寛政12年(1800)春の起工、享保3年(1803)秋の竣工と伝えられる。

 

 また月僊は、かなりの額の金銭を山田奉行所に託し、寂照寺修繕や地元民救済の費用に充当していたらしい。このように、寂照寺再興と貧民救済に手腕をふるった月僊も、文化5年(1808)の春病に倒れた。再起不能を覚った彼は、弟子達に蓄えた財産を分け与えた後、翌文化6年(1809)正月12日に世を去った。時に、月僊69歳であった。

 

 以上が、寂照寺境内に遺る「月仙上人之碑」碑文に記された、月僊の生涯の大筋である。この碑文は、69年にわたる月僊の生涯を手ざわよくまとめてはいるが、残念ながら、我々が最も関心を寄せる、月僊が如何なる絵画修業を受け、また他の画家たちと如何なる交渉を持っていたかという、画家・月僊の核心に関る部分については、殆んど語ってくれない。そこで、諸書に伝えられる月僊の師承関係や他の画家との交渉について、ここで整理を行ってみたい。

 

 月僊の直接の師としては、一般に桜井雪館(1716〜1791)と円山応挙(1733〜1795)の2人があげられ、また彼は与謝蕪村(1716〜1783)にも私淑したとも伝えられる。田能村竹田が「痩筆乾擦、後用淡墨少湊合之」と評したように、月僊の作品は、全般に擦筆によるゴツゴツした描線を多用しているため、山水画では潤いのある空間表現に成功した例は多くなく、また人物画にあっては、その卑俗な顔貌も相まってむしろ情趣に乏しい画面に陥りやすいようである。本稿では、こうした月僊の作風の特質やその由来を詳しく検討する余裕はないが、寂照寺に伝来している仏涅槃図の大作(縦276.5cmx横180.0cm)や当館所蔵の「山水図屏風」(六曲一双、各縦161.0cmx横350.0cm)では、月僊画にしばしば認められる欠陥があまり認められず、上記の彼が応挙や蕪村を学んだという証言をいかにも無理なく我々に納得させるだけの優れた写生カと表現力とを具えており、こうした代表作はや、もす・驍ニ多作の卑俗な画家と等閑硯きれてしまいがちな月僊に対する再検討を迫っているようにも思われる。

 

 月僊に関しては、この他にも従来から指摘のある彼と司馬江漢や亜欧堂田善などの洋風画家との関係、あるいは水戸の南画家・立原杏所らとの関係なども改めて検討を要する問題である。また、木村兼葭堂の『兼葭堂日記』には、天明年間から寛政初年の条に月僊の名がしばしば記されており、月僊は兼葭堂を中心とする関西の文人達とも交渉があったことが推察され、たとえ月僊が当時の絵画会で中心的な地位を点めていた画家ではないにしても、18世紀後半から19世紀初頭の絵画史を、よりきめ細かく構成する上で、彼は無視できない画家の1人と考えられるのである。

 

(もうりいちろう・学芸員)

 

月僊についての記事一覧

月僊「山水図」(左隻)|本館蔵

月僊「山水図」(左隻)|本館蔵

 

月僊「山水図」(右隻)|本館蔵

月僊「山水図」(右隻)|本館蔵

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