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長原孝太郎(2)

牧野研一郎

 前回、明治21年(1888)の九鬼隆一、岡倉天心らの古美術調査に長原孝太郎も九鬼隆一に随伴して参加したことに触れたが、この事に関してもう少し補足しておきたい。おそらく、この際には長原は古美術の写生にあたったことと思われる。後にこの時のことを、美術雑誌の談話記事中でわずかに語っているので紹介しておこう。

 

(1)「其頃九鬼、岡倉両氏等の全国宝物取調委員に随行して奈良高野の古美術巡覧した。其頃岡倉氏から東京美術学校へ招聘せられたが、思ふところがあって辞したそうである。」(美術新報第13巻第4号・“現今の作家(三)・長原止水氏”坂井犀水・大正4年)

 

(2)「明治26年に帰朝した黒田君が、其後美術学校に新設された洋画部の主任となった時、私も同君の抜躍で助教授といふことになる筈だったが、岡倉君が私と合はないので、といふよりも私を好かなかった為にとうとう私は就任しなかった。というのは、それより前に、私が岡倉君と共に全国の社寺巡りに廻った時、一寸したことで同君に楯突いたことなんかがあったからだろう。」(アトリエ第三巻第9号・“私の画学生時代”長原孝太郎談・大正15年)

 

(9)「これまで私が一寸知て居た、外国人中には、随分日本通もありましたが、私の最も驚かされたのは、ビゲロウ氏でした。(中略。)当時私の幼稚な眼には大低の邦人よりは、一層よく日本趣味を了解して居たかの如くに見えたのです。或時私は此人等の一行と共に、法隆寺の綱封蔵とか言ふ、蔵を見せて貰ったが、氏はその蔵品の一二に就て説明してくれたことなどもありました。その言った所は、皆立派な説であった。(中略。)

 

又その日本美術品に対する鑑賞眼は、或点に於て、彼の有名なるフェノロサ氏以上であったやうに思ふ。」(美術新報第4巻第2号・“バアナアド・リーチ氏”長原止水・大正5年)

 九鬼隆一(1852〜1931)は、佐野常民と並ぶ、明治の美術行政の大立者として知られ洋画排斥の先頭に立ち、この調査ののち帝国博物館長となって美術界に君臨する。九鬼は明治13年(1880)に文部少輔になっているが、この職の前任者が前回述へた神田孝平であり、九鬼と神田とはその後も交友があったと想像される。神田が晩年に古美術に関心を寄せ、長原にその写生をさせていたことは前に記したが、この明治21年(1888)の古美術調査に長原が参加したのは、こうした九鬼と神田との関係によるものであろう。

 

 (1)の引用文で、長原は、岡倉天心から翌明治22年(1889)に開校される予定の東京美術学校に招聘されたがこれを“思うところあって”拒絶したと語っている。東京美術学校の設立は、その前年の10月4日、勅令第51号で公布されているが、その内容については浜尾新・岡倉天心らの欧州事情視察を待って決定することになった。その結果は「我が国為んぞ独り外国芸術にのみ心酔して甘んずるを得んや」という周知のものであった。明治21年は翌年2月開校のための準備期間であった。

 

 天心が、この洋画教育を排斥し日本固有の美術の保存振興のために設立する東京美術学校に長原を招聘したのが事実とすれば、天心は長原にどのような役割を期待したのであろうか。長原の「思うところがあって」という言葉は自明のことであろう。それまで洋画教育を受けてきた者として天心らの美術学校案は許容しうるはずもない。また古美術に関心を寄せるとは云え、その考えは天心らの国粋思想からくるものとは一線を画したものであったろう。

 

 (2)の引用文の「同君(天心)に楯突いた」という言葉が具体的にどのようなことをさすものであるかは不明であるが、上記のような意見の隔りが基本にあってのことであろう。

 

 ところでこの(2)の談話は、東京美術学校に西洋画科が設立されるにあたっての興味深い裏面を明らかにしているので、時代は少し降るが、天心との関係ということで少し触れておきたい。

 雑誌「美術評論」第15号(明治31年)時事欄に「理科大学助手白馬会会員長原孝太郎氏は、去る十月四日東京美術学校助教授に兼任せられ、久米氏の木炭画教室の授業を助くることとなれり。」と報ぜられている。この年の三月天心は美術学校騒動で美術学校長の職をおわれている。長原が天心の去るのと交代するかのように美術学校に迎えられていることは、(2)の長原の談話を裏書きしている。

 

 明治29年(1896)に黒田浦輝が東京美術学校に新設される西洋画科を出発させるにあたり、黒田が当初構想した布陣がどのようなものであったかを次に考えてみたい。

 

 黒田清輝は「拝啓御書中之趣敬承仕候陳者兼而得貴意候通当校課程中西洋画科増設之儀決定候上は四月一日より教室之設計及授業上等に関し夫々準備致度候に付其以前に於て得御面晤度存候間御都合も可有之候得共御繰合御帰京相叶候はば大幸に御座候 敬具」という岡倉天心からの書状を京都にあって明治29年(1896)3月17日に受領し、21日には東京美術学校で岡倉と会談、西洋画科の機構などについて話し合い、その後も数回の会議をもったことが知られている。(隈元謙次郎「黒田清輝中期の業績と作品」美術研究113・115・118参照)。

 

 この時に教授陣についても話しあいがおこなわれたであろう。久米桂一郎 は、この前年の京都で開かれた第四回内国勧業博覧会の期間中に文部大臣西園寺公望から西洋画科設置につき委嘱をうけ、これを了承しているから(前掲書参照)、黒田も同時期に西園寺から話を受けていたであろう。黒田と久米はそれ以来相談しながら西洋画科の青写真を作ったと想像される。黒田が天心と面談したこの期には従って人事に関しても黒田には腹案が既にあり、それを天心に示して了解を得るという段階であったと思われる。そして了解が得られると速座に行動をおこしたもののようである。藤島武二の場合には、黒田が推薦し、それを受けて天心が要請し、転任を承諮しない三重県尋常中学校の回答に対し三重県知事宛に二度にわたって照会状を出し、7月末になって“来八月よりは転任差支えなき”旨の回答を引き出すといった具合に、黒田の意をうけた天心は熱心に動いているのである。

 

 長原孝太郎はこの前年に黒田の画塾天真道場に入り、年下の黒田の指導を受けているが、黒田はそこで長原の技量を知り黒田の腹案に長原が入ったのであろう。          

 

 黒田清輝日記の明治29年5月2日(土)の条に次のようにある。「初音町に行て岡倉氏を訪ひ外国へ注文する一件や長原の事など話し団子坂に行き一寸長田へ寄り又小山へ寄った。どっちも亭主ハ留守で妻君二逢った。それから長原を尋ねて今日岡倉氏との談判の結果を知らせ、一緒二出て伊豫紋で晩めし。食後二人でぼつぼつ散歩し神保町の辺へ一緒二来た。」

 

 黒田の長原助教授案を天心は拒絶した。それは単に長原が後日談じた「全国の社寺巡りに廻った時、一寸したことで同君に楯突いたからだろう。」という理由ばかりでなく、それを遠因としながらも、もっと直接的なことに起因すると思われる。後に詳しくふれてみようと思うが、明治26年(1893)から28年(1895)にかけて「とはゑ」と題する漫画による諷刺雑誌を独りで発行している。この雑誌は小冊子ながらも斯界の話題となり、「早稲田文学」「日本人」「東洋学芸雑誌」等に好意的な書評が出ている。この「とはゑ」の第3号(明治28年11月発行)に、京都での第4回内国勧業博覧会に出品された橋本雅邦の『龍虎図』を揶揄する諷刺画が掲載きれている。(挿図1参照)。雅邦と天心との、終生行動を共にしたその交友はここに述べるまでもないであろう。天心は橋本雅邦の芸術について次のように書いている。「然れども、橋本雅邦は現世の名家として、現在の情況を以て論ぜんよりは、寧ろ古名家として鑑賞し得べき人なり。是れ氏が技倆絶倫遠く儕輩を出づるの故のみにあらず、又氏が修業に練磨の時期明治以前に属し、其心相常に過去の天地に逍遥するの故のみにあらず。徳川時代に在りても、或種の大家は吾人今日の問題を抱き、鋭意其解釈に従事せしことなきに非ざるなり。藤氏中世の筆墨も、往々にして十九世紀末を動かすの涙を含むものなきに非ず。氏は梁楷雪村一流の人と共に、其時勢に超越するの天資を有する人なり。宋元に生ると足利に生るとを問はず、その画裏の境界は能く塵俗を抜いて、互に黙契するものあり。」(「橋本雅邦翁」・『日本美術』第7号・明治32年)。

 

 長原は、この天心の眼りなく尊崇した東京美術学校日本画教授の作品を揶揄したのである。しかも雪村の龍虎図と対照させるという形で。天心はおそらくこの諷刺・謔見たと想像される。天心がどのような反応を示したかは想像に難くないであろう。

 

 長原はこのほかにも、この年1月12日の二六新報に、天心の提唱で美校生が著するようになった古代風の制服を嘲笑する諷刺画を載せている。(挿図2参照)。

 

 天心が黒田の案を拒絶したのは天心としては当然であった。さらに推理を進めると、黒田が長原のかわりに助教授に推薦したのが和田英作ではなかったか。和田も原田直次郎の鍾美館から明治27年(1894)天真道場に移り黒田の最初の弟子となり、翌年の内国勧業博覧会に出品した『海辺早春』で妙技二等賞を得ているが、助教授に任命されたこの年にはまだ22歳の青年であった。和田はこの任命に対し辞退する旨を岡倉校長に申し入れ翌年あらためて西洋画科選科第4年級として入学している。このことは、任命前に和田に対しては何らの下交渉もなされなかったのではないかという考えをおこさせる。和田は、黒田が最も愛した弟子で、その後も和田より相当年長の藤島や長原を追い越して美術学校長の椅子に座ることになるが、それにしてもこの一連の不可解な和田の動きは、和田が突如、長原のピンチヒッターに指名されて動揺したのではないかという想像を誘う。

続く

 

(まきの・けんいちろう 学芸員)

 

長原孝太郎についての記事一覧

挿図1 「とはゑ」第三号所収

挿図1 「とはゑ」第三号所収

 

挿図2 二六新報原画|明治25年|本館蔵

挿図2 二六新報原画|明治25年|本館蔵

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