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美術館 > 刊行物 > その他 > その他(報告書など) > 閑話休題 20世紀後半のスペイン美術とバレンシアの作家たちをめぐる覚書 石崎勝基


しかし両者が互いの存在を認識し、闇が光を見た時、
闇は、よりよきものへの欲望にかられ光に惹かれて、
光と混じりあい、関わりあうことを希った。
バシレイデスが伝える異人の説より
Hegemonius, Acta Archelai, 67-8

閑話休題

スサナ・ソラーノ(1946- )の『非常階段を使わないで』(fig.1) -それはまず四角い鉄のかたまりのように見えるとして、しかし、かたまりということばのもつ語感は、実際目の前にあるそれが与える印象には必ずしもそぐうまい。確かに、鉄という金属からできた無愛想な四角であるにしても、重量感だの存在感だのを発するとはいいがたくはないだろうか。むしろぺらぺらした、薄い板でたまたま囲ってみたといったところだろう。これは下半分が金網になっているため、上の方も中はからっぽであることをいやおうなく感じさせるわけだし、各面の真ん中に施された補強用の柱も、四角だけでは頼りないからつけざるをえなかったと想像させることによる。

そもそもが、彫刻だか、あるいはそれらしく立体造形などとは、美術館なり画廊におかれていなければ気づきもしないかもしれない。調和のとれた、それゆえ完結し自足した力強さにはほど遠いのだ。工事現場に仮設された作業場といったところだろうか。しかしだからこそそこには、形として、かたまりとしてのありかたにおさまらない、何やら雰囲気だか、いってよければ観念性を読みとらせることになるはずだ。たとえば、本来何の区切りもないはずの空間を囲うということ、あるいは閉じこめること、檻への連想 ……。その点からすれば、四角の無愛想さは、形としての興味に目をそらさせないためなのかもしれないし、それなりの魅力はあるにしても高級そう堅牢そうとはいいがたい薄っぺらな鉄の質感も、囲うという機能の方を強調している。

といって、それ以上の手がかりは与えられていない。だから目は、特定の具体的な観念にいきつくこともできず、前にある物と不定の観念への方向づけとの間に、放りだされたままでいるほかはない。手がかりを求めて再び物の方に目を向けたとして、やはりそれは厳然たる存在感を発するはずもなく、ぺらぺらした薄さは、ある意味でエロティックといえなくもない柔らかさを帯びている。すなわち物は、それを見、感じる主体と何ら関わりのない自足した客体ではなく、主体との関わりの内にたち現われているのだ。

fig.1 ソラーノ『非常階段を使わないで』1989


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