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no.4 2005.3.31

マティスからモローへ − デッサンと色彩の永遠の葛藤、そしてサオシュヤントは来ない

3−2.完成と未完


もとより《入墨のサロメ》は、いうところの完成作ではあるまい。この作品の制作の経緯について喜多崎親は、以下のように記している;


「……モローの画業の中でこうした文様が描かれるのは、《アレクサンドロス大王の勝利》(モロー美術館)などが描かれる一八九〇年頃のことであり、そのことからも、この《踊るサロメ》は、まず一八七六年以前に《ヘロデ王の前で踊るサロメ》(図20)の習作として描かれ、その後一八八〇年代後半から九〇年代になって、新たに線描が施されたものと推測することが出来るのである。


「モロー美術館にはこうした線描と色彩の乖離が認められる油彩画が何点か存在する。モローは一八八〇年以降盛んに水彩画を描くようになるが、水彩画に見られる素描の線と賦彩の斑紋の効果が、油彩画にもこうした試みをもたらしたのかもしれない」(128)


それゆえとりあえず、この作品の現在の状態は、いったん手がけられた油彩が未完のまま放置され、十年前後の間をおいて再び手を加えられたが、結局未完に終わったことをしめすものと解することができる。その際、一点の作品の制作は着想に始まって、有機的に生成すべきであるという前提を仮に承認するのであれば、中断期間をおいての制作にそもそも無理があり、未完成はその必然的な帰結だったと考えることもできなくはない。ただ有機的な制作過程という理念が、ロマン主義的ないし近代的な芸術家神話と連携していることを念頭におく必要はあるだろう。近代以前の職人による工房制作を対置してみるなら、たとえば下描きの油絵具の乾燥を何年も待つのも、何ら不自然なことではあるまい。とはいえ他方、モローがロマン主義ないし近代の風土のただなかにいたことも事実だ。そのかぎりで、先にもふれた、これはミケランジェロ以来というべきか、到達しがたい理念と即物的な制作とのへだたりが作品を未完成にとどめるという事態を、モロー美術館におびただしい未完成作が残されている点からしても、モローにおいて制作に内在する矛盾の現われの一つと見なしておこう。


また、ある程度明暗による肉づけが定まった下層と、微細な文様を描きだす上層を見比べれば、文様の一つ一つに絵具が埋められていった完成状態を想定してみた時、それがきわめて重苦しいものになったであろうことは想像に難くない。もとより《ユピテルとセメレー》をはじめとして、モローが晩年に残した油彩の完成作の様式は、数えきれない装飾物が暗い色調の中から輝きだそうとする点を特徴としている。《ユピテルとセメレー》では、左右相称で正面性を強調した構図が装飾の過剰さをかろうじて支えるとはいえ、それらの画面は実際、重苦しい印象を与えるものだ。これは、同時期の油彩習作や水彩が(図18)、モロー自身には油彩完成作の準備段階にすぎないと、あるいは少なくとも同等のものではないとしか認識されなかったにせよ、時にモティーフが認知できないほどの絵具の扱いをしめしている点と比較すれば、いっそう強調されずにいない。そして、完成時の鈍重さといわないまでも、完成作とそれ以前の領域とのへだたりがモロー自身に多少とも認識されていたのではないかと、少なくとも想像してみることがまったく許されないわけでもなさそうなのは、他ならぬ未完成作のおびただしさを傍証とする時だ。とすれば、細部の充填と全体の掃射との、いいかえれば輪郭と賦彩、線と色とのまた一つの矛盾ゆえ、《入墨のサロメ》は現在の状態にとどまらざるをえなかったことになる。


もっとも、こうした事態をひきおこしたモローの制作過程は、基本的にはアカデミックな慣習の範疇から出るものではない。一方で全体の構図を探りつつ、片方でモデルからの写生に基づいて部分の習作が繰りかえされる。それぞれについて、形態の把握を主眼においたものや明暗を焦点にしたものが、素描で、また水彩や油彩で、まずは小さな寸法からスタートする。これらの累積が、最終的な完成作へと導くわけだ。


一八五六年十二月八日づけのフロマンタンに宛てた手紙の中で、モローが次のように述べているのも、そうした過程のある段階をしめすのだろう;


「グリザイユの使用に関しては、あなたの意見にまったく同意しますと言っておきましょう。ただ、仕事をした果てに疲れるのがいやなので、私はいちばん難しいことから始めます。すなわち、線と内側の肉づけです。これらにとても力強くアクセントを施しておいて、それから、流動的な色の自由さを大いに活かして覆ってしまうのです。気兼ねなくすべてを掃き、事物をエスキスとして扱います。下層の仕事が少しなりと現われてこないとしたら、不思議というものでしょう。


「こうすることで、少し和らげられた細かさが、最後に見出されることとなるのです」(129)


さらに、構図の試行錯誤の中から、同じ主題に対するヴァリエーションが分岐していくこともあれば、需要のある場合、たとえばサロン出品作の構図に対し、多少の変化を加えつつ、油彩なり水彩なりでのレプリカが制作されたりもした。たとえばスフィンクスやサロメの物語を連作の形で展開していく点をモローの制作原理の一つと見なし、ラグナル・フォン・ホルテンは<継起の原則>と呼んだ(130)。ただ需要に応じたレプリカの制作は、近代においても決して珍しいことではない(131)。それゆえレプリカや連作の成立を、ロマン主義的な内的必然性に帰するのは疑問なしとしない。にもかかわらず、一方で、<プレフィグラツィオーン>(完成作にいたる以前の、習作や下絵、あるいは未完成作などが属する領域を指すヨーゼフ・ガントナーの用語(132))の領域の膨張、その中でのデッサンと彩色の乖離、さらにレプリカやヴァリエーションといった完成作以後の領域の増殖は、歴史画家として大作を成就するという焦点を散逸させてしまい、結果として、おびただしい習作や下絵とともに、伝統的な意味では未完成と分類されざるをえない画面を、多く残せしめることになったといえよう(133)


ともあれ、制作過程における時系列上の順序をとりあえず棚上げして、様式上の特性からモローにおけるプレフィグラツィオーンの様相を図式化してみるなら、一方の極に、先に見た《アレクサンドロス大王の勝利》のための習作のような肥痩のない線による素描(図5)、もう片方の極には、素描であれば線を用いず明暗だけで組みたてたもの(図19)(134)、あるいは水彩や油彩による大まかな色彩の配置をさぐるための習作、とりわけ一見具象的なモティーフを読みとりがたい<エボーシュ>の類(図18)を配することができる。その間には、古典主義的ないしアカデミックな部分習作が積み重ねられていく。<入墨>における動勢の欠如は、それが制作過程の中で、かなり遅い段階に属することを物語っている。


アラベスクによる素描と抽象的なエボーシュとの間に開く振幅の大きさは、しかし、基本的にはやはり、アカデミックないし古典主義的な制作の手順の範疇の内に納まるものと考えておくべきなのだろう。完成作とプレフィグラツィオーンとがガントナーのいうように、イタリア・ルネサンス以来二本の平行線を描くようになったとして、十九世紀においてその懸隔がさらにひろがったとは、アルバート・ボイムの跡づけたところである(135)。その意味で、一時期表現主義的抽象の先駆と称されたこともある油彩エボーシュにしても、フォン・ホルテンやスーザン・フロイデンハイムが論じたように(136)、公けにしないという範囲内であれ、モロー自身にこれらの作品を完成作と見なす意図があったとは考えがたく、あくまで完成作にいたる準備段階に位置づけられるものでしかあるまい。


ただ、それらが準備段階に位置すると語ることは、<入墨>や現在の目から見て抽象的と映る画面が、どのようにして成立したかを説明することにはならない。抽象的なエボーシュの主題を同定することも同様だろう。そのかぎりで、一点一点の画面に対し、ボードレールがコローの風景画を語るに際して導入した<仕上げられた fini>状態と<できあがった fait>状態との区別を適用することもできるはずだ(137)。粗描き状の画面を評価する趣味が、ドナテッロやティツィアーノに対するヴァザーリの評以来の歴史をたどるとして(138)、もとよりボードレール式の判定をもちこむことは、「フォルマリストに典型的な芸術作品の『品質』(クオリティ)の擁護論」(139)の域を出ないのかもしれない(質ということばで何を指すかという点で異同はあるにせよ、品質判断自体は、中国の画論を見るまでもなく、近代に固有のものではない)。他方、作品が作者の意図に対応するという前提の上での解釈もまた、ロマン主義以来の近代のもう一つの産物にほかならない。ある意味でプレフィグラツィオーンや未完成は、作品が作者の意図からすり抜ける臨界であり、作者の意図が物質としての素材や見る側の目と接触する境域なのではないだろうか(といって、それらを特権視しうるわけでもない)。


こうした幾重もの制限の範囲内ではあるが、モローにおいて、完成作あるいはアラベスクによる素描と、流動的な水彩や抽象的なエボーシュとの振幅の大きさ自体が問題という以上に、ひろがった振幅を、モローが橋渡しできなかったことこそが問題なのだということはできるかもしれない。そしてはずれてしまった橋からこぼれ落ちた内のいくつかは、少なくとも事後的な目から見るかぎり、本人によって完成したものと見なされた作品以上に、<できあがった>ものとなったのだし、また<入墨>をしめす作品では、二つの極が、懸隔が開いたまま連続しない状態で二重映しに残されたのだろう。


「モローの方法が、その初期の制作以来、色彩言語の体系と、線的言語の体系を明確に区別し、事実、その両者をいわばモンタージュすることによってひとつの作品を成立せしめた」と、中山公男は述べる(140)。ジョゼ・ピエールもまた、「主題は、時に純粋にグラフィックな手段によって、時に純粋に色彩的な手段によって、別々に探求されるのだ。そして構図が最終的に決定した時にのみ、あれこれの準備素描を画布に移す(この段階にあるのが、《キマイラたち》だ)。その後、色彩を介入させる」と記している(141)。ここにマティスの、「こうして習作をやる場合、私はある時は色彩だけである種の均衡と表現的なリズムを得ようとし、またある時はただアラベスクだけの力を確かめようと努めてきました」(142)ということばを並べてみることができるだろうか。そして中山は続けて、「初期の作品では、ひとつのものとして合成されていた線の体系と色斑の体系が、今や分離し始めるのである」(143)と述べ、その例を《入墨のサロメ》に見てとった。さらに;


「晩年のモローの作品では、刺青はしだいに消え去っていった。自由になった色彩は、大胆な筆触によって、線の呪縛から解き放たれた活力を展開し始める。このことはすでに《踊るサロメ》のヴァリアントで、刺青のモンタージュのずれが生じたときに予見されたことである。分解が始まるや否や、それは不可避的に進行する。最終的にモローは、線か色彩かのどちらかをとらざるをえないのである」(144)


と記し、モローが色彩を選んだのだという。現在の研究による編年からすると、線と色彩のモンタージュ、分解、そして色彩の解放を時系列上一直線に並べることは認めがたいようだが、これは中山の論旨を否定するものではなく、むしろ、生涯にわたって中山のいうようなプロセスが、意識されたか否かは別にして、そのつど起こっていたと考えることもできるだろう。ただ晩年の作品については、線はますます細かな装飾を刻もうとし、色については明度を落としつつ彩度は高めることで、線と色の緊張がいっそう強められたということはできるかもしれない。


他方喜多崎親は、《聖なる象》(一八八五頃、国立西洋美術館、PLM.325/PLM'98.365)に引用されたイメージの典拠を調査して、「モローの試みは、現実のオリエントから有機的なつながりのない断片を、それらが本来機能していたコンテクストとは関係なく採集し、場合によっては寸法を変えるなどの操作を行って、一つの画面の中に並置し、その隣接性によって換喩的関係を作りながら、総体としてはオリエントという全体を幻想的に想起させる提喩として機能させるものといえよう。そしてモローの場合、デッサン=線描がその変換作業を具体化した」と述べた後(145)、そこでの<入墨>について次のように記す;


「一八八〇年代のモロー作品では、《一角獣》(MGM.213、パリ、ギュスターヴ・モロー美術館)(図29)に見られるようにしばしば画面上に於ける線と色彩の乖離が認められるが、その二重化していく画面の構造と、彼のイメージの集積/引用に於けるデッサンの線的な性格は無関係ではないだろう。何らかの具体的な根拠を失った断片は、輪郭という線自体として画面を覆い始め、色彩とそれが再現する陰影に支えられた三次元的具体性から、常に逃れようとしているのではないか。モローのこの傾向は実際には水彩という、線と色彩が乖離した技法によって培われたものであろうが、その乖離を手法として強調することで、モローの作品は現実性を離れた、一層の幻想性を獲得した。《聖なる象》の各所に認められる、線による輪郭と色彩による形象の不一致が、そのことを最も如実に伝えていよう。線描はその形のみを表し、質感を無機化する」(146)


<入墨>にまつわる形式の問題からさらに一歩踏みこんだ分析だが、中山が色彩に最終的な覇権を与えたのに対し、喜多崎は線の機能を重視しているようだ。澤渡麻里もまた、「色彩よりもむしろ線描が生み出す多義性による喚起力」が重要だったと述べる(147)。中山やピエールの議論は、アンフォルメルないし抽象表現主義を経由した視点からモローを再評価しようとする立場を背景としていたが(148)、いささか附会するなら、喜多崎や澤渡の背景には、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルによって主導された、実証的なデータの蓄積、とりわけモティーフの典拠探しがあると考えることもできなくはない(149)。典拠を求められるべきモティーフとは多く形態であり、形態は線に・謔チて規定されるというわけだ。ともあれ「色彩言語の体系と、線的言語の体系」との各展開はおそらく、単線的な時系列上で前後しているのではなく、二本の、あるいは複数の時間線で生じた事態と考えた方がいいのかもしれない。こうした線と色の分裂は、先に見た造形性の要請とことばによる説明の自動運動との矛盾とも平行している。




128. 『ギュスターヴ・モロー』展図録、国立西洋美術館、1995、pp.156-158/cat.no.55。また、喜多崎親、「ギュスターヴ・モローの《出現》に就いて」、『美術史』、no.133、1993.2、p.26 註9. cf. Gustave Moreau 1826-1898, op.cit., pp.144-147/cat.no.61.



図18 モロー、《エボーシュ》
油彩・キャンヴァス、27×22cm
ギュスターヴ・モロー美術館、パリ
MGM.1151/PLM peint.301


129. Barbara Wright et Pierre Moisy, Gustave Moreau et Eugène Fromentin. Documents inédits, La Rochelle, 1972, p.87.


130. Von Holten, Gustave Moreau. Symbolist, op.cit., pp.123-124.


131. cf.‘Éditorial. Copies, répliques, faux’, Revue de l'art, no.21, 1973, pp.23-31. K.E.Maison,‘Daumier's painted replicas’, Gazette des Beaux-Arts, 1961.



132. ヨーゼフ・ガントナー、「近世美術における未完成の諸形式」、中村二柄訳、J.A.シュモル編、『芸術における未完成』、岩崎出版社、1971、等参照。


133. cf. M.Luisa Frongia,‘《Finito》 e 《non finito》 nell'opera di Gustave Moreau’, Commentari, no.23, 1972.



図19 モロー、《ヘロデ王の前で踊るサロメ》
c.1875、黒チョーク、擦筆・紙、23.2×16.1cm
ギュスターヴ・モロー美術館、パリ
MGMd.2407


134. cf. 池上忠治、「デッサンにおける線と明暗 − アングルとドラクロアからスーラへ−」、『美学』、no.82、1970秋.


135. Albert Boime, The Academy and French Painting in the Nineteenth Century, London, 1971, esp. chapter W-X. cf. id., p.105, 160/fig.68-69, 141-142では、モローの<習作>がとりあげられている。


136. Von Holten, Gustave Moreau. Symbolist, op.cit., pp.170-173. Susan Freudenheim,‘Gustave Moreau and the question of abstraction’, Marsyas, no.20, 1979-80.


137. Baudelaire,‘Salon de 1845’, op.cit., p.61
[『ボードレール全集W』、op.cit., p.372].


138. cf. E.H.
ゴンブリッチ、『芸術と幻影』、瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979、pp.267-276[E.H.Gombrich, Art and illusion, London, 1968, pp.162-168]. Leo Steinberg,‘Deliberate speed’, Art News, 1967.4. 岡田、op.cit., pp.143-147. Philip Sohm, Pittoresco. Marco Boschini, his Critics, and their Critiques of Painterly Brushwork in Seventeenth-and Eighteenth-Century Italy, Cambridge, 1991.


139. 岡田、op.cit., p.125. またロベルト・ロンギ、『芸術論叢U』、岡田温司監訳、中央公論美術出版、1999、pp.409-410 訳註[9]. 拙稿、「余談は時間の余った時に 愛と憎しみのアートキャバレー第五回(予兆篇)」、Lady's Slipper、no.4、1995.11、pp.25-26. 拙稿、「軽く明るく気持ちよく、再び − セザンヌの一枚の絵に捧げるラスト・ソング 愛と憎しみのアートキャバレー第十回(大団円篇)」、Lady's Slipper、no.9、1998.9、p.23 註2.


140. 中山公男、『モローの竪琴』、小沢書店、、p.43.


141. Pierre, op.cit., p.161.《キマイラたち》:MGM.39/PLM peint.224.


142. 『マティス 画家のノート』、op.cit., p.228[Fourcade ed., op.cit., p.195].


143. 中山、op.cit., p.53.


144. ibid., pp.54-55.



145. 喜多崎親、「断片としてのオリエント ギュスターヴ・モローの《聖なる象》にみる引用の構造」、『国立西洋美術館研究紀要』、no.1、1997、p.62.


146. ibid., p.63.


147. 澤渡、op.cit.

148. Paul Jenkins,‘Gustave Moreau: Moot grandfather of abstraction’, Art News, vol.60-8, 1961.12. Dore Ashton,‘Gustave Moreau’, Catalogue of the exhibition Odilon Redon|Gustave Moreau|Rodolphe Bresdin, The Museum of Modern Art, New York, 1962.また Von Holten, Gustave Moreau. Symbolist, op.cit., pp.170-173. Freudenheim, op.cit., pp.71-73, 76.


149. ex. Gustave Moreau 1826-1898, op.cit. とりわけ巻頭論文の内 Larry J.Feinberg,‘Gustave Moreau et la Renaissance italienne’, Geneviève Lacambre,‘Gustave Morreau et l'exotisme’, Marie-Laure de Contenson,‘Le Moyen-Âge recrée par Gustave Moreau’.

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