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no.4 2005.3.31

マティスからモローへ − デッサンと色彩の永遠の葛藤、そしてサオシュヤントは来ない

1−3.デッサンと彩画の矛盾、一九〇五


ところで、四〇年のボナール宛ての手紙の掲載箇所にフルカドは、以下の註を付した;


「すでに一九〇五年にマティスはポール・シニャック宛てにこう書いている、 − 『あなたは私の水浴の女たちの絵[豪奢、静穏、逸楽](図3)にデッサンの特性と彩画の特性の完全な調和を見出されたのでしょうか。私の考えではそれらは互いに全く異質で、完全に矛盾しあうものとさえ思えるのです。一方のデッサンは線的もしくは彫刻的な造形に依存し、他方、彩画は彩色の造形に依存しています』。また、同じ年にマティスはコリウールで次のように記している、『物体相互による表現を指示するためにデッサンを用いること……物体を規定するために色彩を使うのではなく、色のさまざまな組合わせや調和のなかにある輝きの強度のために色彩を用いること』」(12)


《豪奢、静謐、逸楽》をめぐってはさらに、一九二九年、マティスは次のように語った;


「新印象主義(ネオ・アンプレッシオニスム)というよりむしろ分割主義と呼ばれたこの部分は印象主義の方法の最初のだったのですが、ただ純粋に身体的(フィジック)な体系化であって、その方法は往々にして身体的感動にしか対応しないメカニックなものです。そこでは、色彩の細分化が形体と輪郭の細分化を招いたのです。その結果は支離滅裂な画面です。そこにあるのは網膜上の感覚だけですが、しかし、それは画面と輪郭の落着きを壊してしまいます。対象はそれらに付与される光度によってしか区別されないわけです。…(中略)…私はこの道にとどまることをやめ、平塗りをやって、あらゆる平らな色面の調和を通して絵の特質を得ようとしたのです」(13)


シニャック宛ての一節をピエール・シュネデールは、「『デッサンと色彩の永遠の葛藤』についての、最初にしてすでに決定的な定式化」と呼んでおり(14)、この問題はしてみると、《豪奢、静謐、逸楽》の時点で強く意識されていたことになる。マティスの意識と完全に重なりあうかどうかはさておき、一九〇八年のサロン・ドートンヌ内でのマティスの小回顧展に際してシャルル・モリスも、次のように指摘していた;


「共感とともに私は、形態の誇張、線の唐突な切断がどんな意味をもつのか探る。それらの代価として私たちは、彼の力強く豪奢な彩色や、何点かの彫刻の魅力がもたらす喜びを犠牲にしなければならないのだ。…(中略)…素描家と色彩家は、分裂してしまっているのだが、とても興味深いものだ;両者が統合される時、一方は他方に負かされる。それは、素描家、構成家の方である:さもなくばいかにして、この画家のもとにあって、色調のアルファベットがかくも調和にみちて明晰でありながら、線のアルファベットがかくも晦渋な点を、説明することができるだろう?」(15)


「しかしいうまでもなく、一九〇五年のマチスが直面していた問題は、三十五年後のそれと同一であるといい切ることはできない」(16)。そう述べた大久保恭子によれば、「マチスは《豪奢・静寂・逸楽》において色彩を自然主義的な模倣から解放しえたが、そこでの輪郭線はいまだ説明的な表現を残した、歯切れの悪いものにとどまっていた…(中略)…そしてその難題に解決の糸口を与えたのが、自己主張する線をもつマチス独自の線描であった」(17)。「《生きる喜び》の習作においては、アカデミーの伝統的な制作の手順、つまりまず素描をして次に彩色をするという手順が逆転していた。このことはマチスが慣習的な素描と色彩の対立的な価値づけを解体し、形態を色彩の量に還元して捉えることにより両者に互換性をもたせ、双方の総合に向けての一歩を踏みだそうとしていたことを示していると考えられる」(18)。とするととりあえず、一九四〇年前後には素描が色彩より先行していたのに対し、一九〇五年前後では色彩が素描に先行していたことになる。また後者においては、自然主義からの離脱が要請されていたのに対し、前者においては、いわゆるニース時代をはさむとはいえ、むしろそれ以前の様式への回帰という形が選ばれた。


またボワは、《豪奢、静謐、逸楽》がさしだした課題にとり組む中から、木版画《腰掛けた裸婦》(一九〇六)等を起点に、一九〇六年から一七年まで、および三一年以降の彼の最良の作品に通底する<マティス・システム>が発見されたと論じた(19)。ボワのいう<マティス・システム>とは、デッサンと色の対立に先立ち、かつ両者を生みだす<原ドゥローイング>の発見にほかならず、これは、全体としての画面を念頭に、サイズならぬスケールを斟酌するかぎりで、− 別の場所でボワが要約したことばを借りれば −「ある色の質(その飽和と色価)は、それが覆う表面の量に依存する − 色とデッサンの対立を廃棄する発見」を意味する(20)。そしてその量の限界を画定するのが<原ドゥローイング>であって、つまるところ平塗り、ただ区切りによって規定されるのではなく、区切りを事後的に生ぜしめるようなクロワゾニスムのことなのだとまとめてしまうと、しかし、あまりに乱暴との謗りを免れまい。さらにこの発見から導きだされる帰結と見なしてよいのだろう、マティスの画面の特質として<膨張、循環、緊張>の三点を、ボワはまた別の場所であげた(21)


他方エルダーフィールドによれば、ボワのあげる木版画以前に、フォーヴィスム自体が「絵具による素描という形式」であって、「マティスがフォーヴィスムにおいてなし遂げようとしたのは、これら二つのアプローチを綜合すること:実のところ、素描と色との昔ながらの葛藤を解決することだった」という(22)。そして《生きる喜び》ではむしろ、いったん統合された素描と色を分離し、その上で、分離したまま調和させることになる。その際参照されたのは、ゴーギャン、そしてピュヴィス・ド・シャヴァンヌの例だったとされる(23)





図3 マティス、《豪奢・静謐・逸楽》
1904-05、油彩・キャンヴァス、98.5×118cm
オルセー美術館、パリ


12. 『マティス 画家のノート』、op.cit., p.224 註34[Fourcade ed., op.cit., p.182]. ボナール宛ての手紙は、ibid., p.211[Fourcade ed., op.cit., p.182].


13. ibid., p.105[Fourcade ed., ibid., p.93].


14. Pierre Schneider, Matisse, Paris, 1992, p.252.


15. Henri Matisse 1904-1917, op.cit., p.451
より引用。 cf. Elderfield,‘Describing Matisse’, op.cit., p.18.


16. 大久保恭子、『アンリ・マチスの「誕生」 画家と美術評論の関係の解明』、晃洋書房、2001、p.43. またcf. ibid., pp.67-68. Labrusse, op.cit., pp.33-36.


17. 大久保、op.cit., p.69.


18. ibid.


19. Yve-Alain Bois,‘Matisse and“Arche-drawing”’, Painting as model, London, 1990, pp.16-29. cf.
林道郎、「イヴ=アラン・ボア モデルとしての絵画 美術史を読む・第五回」、『美術手帖』、no.724、1996.5、pp.157-164. ボア、op.cit., pp.28-29[Bois, Matisse and Picasso, op.cit., pp.28-29]. Labrusse, op.cit., pp.41-44.


20. Bois,‘L'aveuglement’, op.cit., p.32.


21. ibid., pp.12-15, 26-27, 35-38, 45, 49-50.


22. Elderfield, The drawings of Henri Matisse, op.cit., pp.38-39.


23. ibid., p.51. cf. 大久保、op.cit., pp.43-52.

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