キュビスムへの抵抗 一九一七年・一八年の萬鐵五郎
中谷 伸生
一、 一九一八年に萬鐵五郎が制作した「木の間から見下した町」(岩手県立博物館蔵)(図1)や、あるいはやはりこの時期に制作された「木の間よりの風景」(三重県立美術館蔵)(巻頭カラー図版)は、われわれに、重苦しさ、暗鬱なもの、恐いような雰囲気、静けさ、気味の悪さ、奥深いもの、そして寂しさ、といった印象を与えるであろう。作品を前にして印象づけられる、こうした観照的性格は、当時、苦悩の渦中に投げ込まれていたであろう萬の心の内部を説明しているかのようにも思われる。このことを実証するのは困難であるが、確かにこの絵画が、眺める人々を息苦しくさせるほどに、ある深刻な内容を露に表明していることは事実である。 実際、これらの作品が制作された一九一七年から一八年にかけての時期、萬鐵五郎は苦悩していたといわれる。この点に触れて、陰里鉄郎氏は 「土沢時代以来、キュービスムが彼の絵画思考の核をなして発展し、それは見事な結実を見せたが、後述するように、大正七年あるいは八年と推定される作品には、色濃く絵画思考の苦悩の影が落されている。西欧の科学的な論理性をもった造形表現に正面から対決を試み、それを超克せんとする苦悩であった。」▼1と述べている。 周知のように、この時期の萬は、西欧のキュビスムの様式を前にして、ずいぷん頭を痛めていたようである。そのために、ついに神経衰弱に陥るほどであった、ともいわれている。▼2 本稿では、こうした疑問をひとつづつ解きほぐしながら、一九一七年および一八年の時期に、萬がキュビスムの造形とどのように取り組んだか、また萬がなぜ西欧のキュビスムの様式と対峙して苦悩したのか、という興味深い問題に踏み込んでみたい。 |
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二、 萬とキュビスムの関係については、作品を的確に分析しながら、萬のキュビスム研究の展開を跡づけた陰里鐵郎氏の論考がある。▼3しかしそれ以後の研究においては、萬のキュビスムを説明するにあたって、多くの研究者たちが、〈内面の真実の造形化〉という大正時代に流行した芸術観を引き合いに出す場合がしばしばある。つまり、萬のキュビスムは、ヨーロッパのキュビスムとは一線を画していて、日本的かつ大正時代的な人格主義に基づく「内面にあるもの」の表現であって、萬がヨーロッパのキュビスムを理解しようとしたが、あるいは理解しようとしなかったか、という問いかけ自体はたいして重要ではなく、ピカソらと萬らのキュビスムとに相違が生じた条件を考える方が一層重要である、という主張である。▼4このような論理の展開では、大雑把な理解に陥りやすく、たとえば一九一〇年代と二〇年代の萬の作品の相違点を曖昧にしたまま議論が進められることが多いようである。要するに、こうした立場では、萬の作品群をざっと概観してみれば、結局は、内面の表出としての日本的な表現主義の特徴が見てとれる、という結論に落ち着いてしまう。その際に、しばしば萬の言葉、すなわち萬没後に『鉄人独語』としてまとめられた次の文章が引用されるのである。 僕によって野蕃人が歩行を始めた。吾々は全く無智でいい。見えるものを見、きこえるものを聞き、食えるものを食い、歩み眠り描けばいいのである。未来派立体派は正しく文明的産物と見ねばならぬ。文明というものに立脚する。だから浅・魔ネのである。原人は自然そのものである。吾々は自然を模倣する必要はない。自分の自然を表わせばよいのだ。円いものを描いたとすれば、それは円いものを描きたいからなので、他に深い意味もなにもない。▼5 ここでは、未来派及び立体派への批判がストレートに出ている。しかし、この主張を採り挙げて、萬のキュビスム全体が、ヨーロッパのそれとは異質のものであって、詰まるところ、彼のキュビスムの絵画は、日本的な内面の表現の作品であった、と考えるのは短絡的である。一九一五年から一七年という時期の萬にとつて、ヨーロッパのキュビスムを理解することは、やはり最大の関心事であったはずだ、と私は考えている。 そこで問題となるのは、この『鉄人独語』としてまとめられた文章が、何時書かれたのか、ということであろう。これらの言葉が記された時期については、研究者間で意見が分かれており、少なからず不明な点が多いようである。たとえば佐々木一成氏およぴ田中淳氏は、この『鉄人独語』が一九一四年(大正三)頃のスケッチ帖に記されていることを重視して、その時期の文章だと推測しているが▼6、陰里鐵郎氏は、内容からして、最晩年の言葉であろうと推定している。▼7 佐々木、田中両氏の説に従って、一九一四年頃だとすれば、注目すべきことに、この頃から萬は『鉄人独語』の言葉を裏切るかのように、キュビスムの様式を徹底して追求することになった、ということになる。つまり、画家自身の言葉というのはあまりあてにならない、という見本のような文章が『鉄人独語』だということになるであろう。 一方、陰里氏の推定を受け入れるなら、一九一〇年代にキュビスムの研究に没頭した萬が、晩年に至って、冷静な眼でキュビスムを分析し批判している、ということになる。この観点からすれば、「未来派立体派は正しく文明的産物と見ねばならぬ。文明というものに立脚する。だから浅薄なのである」という萬の言葉は、キュビスムに対する執拗な研究の後に行き着いた萬の芸術観を明らかにしている、と考えられるのである。 どちらの説が正しいかは、簡単に結論づけること困難である。けれども、あえて私が推測するところ、この『鉄人独語』にまとめられたキュビスム批判の言葉は、晩年に記された文章だという気がしてならない。少なくとも、一九一八年以降、すなわちキュビスムの実験に没頭した後の萬の境地を表明しているように思われる。この立場からいえば、これらの言葉は、土沢で描かれた一九一四年頃のスケッチ類の中に、一九一八年以降に書き込まれた、ということになる。なぜなら、萬がキュビスムを批判するようになったのは、少なくとも一九一八年以降と考えた方が素直だからである。 今ひとつ見逃せないのは、「円いものを描いたとすれば、それは円いものを描きたいからなので、他に深い意味もなにもない」という主張は、この『鉄人独語』の他の箇所に見出される次の文章と同様に、一九世紀後半のヨーロッパの芸術論、とりわけフィードラーやヴェルフリン、あるいはホードラーらの主張する、概念を排除したフォルム中心の造形芸術論、すなわち〈純粋視覚〉の立場を、そっくりそのまま書き記したもので、萬のオリジナルな芸術論とはいえないのである。 目を開いて、正直に見る丈にしなくてはいけない。そうでないと、色々な概念が飛込んでくる。樹木、室、人間、犬、土、自然等という概念がそれだ。僕は此れ等の概念を極力排斥する。外界が、眼を通じて神秘な我々の力を呼び覚ます。此れが即ち美と云って居る事だ。▼8 しかもこの『鉄人独語』において、文明を浅薄だと批判している箇所などは、一九一二年(明治四十五)発刊の『白樺』第三巻第一号に、柳宗悦が寄稿した論文『革命の畫家』で紹介されたゴーギャンの言葉「御身の文明は御身の疾病なり。余の野蛮は健康の回復なり」という文章を想起させる。 おそらく萬は、こうした造形思考を、当時流布されていた種々の芸術理論書を介して学んだのであろう。いずれにせよ、『鉄人独語』としてまとめられた文章は、それが書かれた時期が不明であるのみならず、あちこちに種々さまぎまな主張が記されているため、これらの文章から、萬が依って立つ芸術観を云々するのは、はなはだ困難だといえよう。加えて、画家自身の言葉を手がかりにして、その絵画作品を単純に解説することが、如何に危険であるかを忘れてはならない。まして、キュビスムを否定する萬の言葉を鵜呑みにすれば、はなはだしい誤謬に陥ることになろう。というのも、晩年の「枯れた花の静物」にも指摘できることだが、萬は生涯にわたって、キュビスムの様式を完全には放棄せず、一九一八年以降においても、着きつ離れつの態度をとりながら、底流としてキュビスムの造形思考を保持し続けたからである。ただし、一九一八年以前と以後とでは、キュビスムに対する態度が、大きく変化したことを見逃してはならないであろう。 一説によれば、萬はすでに一九一五年の時点で、キュビスムに関心を失っていたとも考えられる言葉を記しているようだが、▼9おそらくそうではないであろう。繰り返して述べるが、一九一五年から一七年にかけて、萬はピカソらのヨーロッパのキュビスムの様式をまず素直に理解しようと努力したにちがいない。すなわち、キュビスムの様式を利用して、独自の絵画を確立させようとする前に、彼はまずピカソやブラック、またメッツァンジェらのキュビスムの本質の内部へ、あらゆる先入観を拭ぐい去って、沈潜しようとしたように思われてならないのである。 この時期の萬の、いわゆるキュビスム風の絵画を眺めてみて、すぐさま気づかされるのは、いくつかの限られた主題やモティーフが、繰り返し認められることであろう。〈自画像〉、〈裸婦〉、〈静物〉、〈風景〉(とりわけ樹木の間から見える村)がそれである。しかも、見逃せないことに、これらの主題やモティーフの扱い方は、大雑把にいって、ピカソやブラックらのキュビスムの画面構成に似て、対象の省略化と歪曲化という諸形態の分析と構成に、主たる関心が向けられているのである。いうまでもなく、これらの絵画においては、たとえば、黒田清輝の「昔語り」(一八九八年)や青木繁の「わだつみのいろこの宮」(一九〇七年)、あるいは藤島武二の「天平の面影」(一九〇二年)など、明治の歴史画や神話画に見られる文学的な意味内容は、すっかり排除されていて、萬の主たる関心が、色と形による画面構成の問題に向けられていることが理解できるであろう。 |
▼3 前掲「萬鐵五郎(三)―生涯と芸術―」、『美術研究』二六二号、二二〇―二二一頁。 |
三、 |
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さて、一九一八年(大正七)に制作されたと考えられている「裸婦」(神奈川県立近代美術館蔵)(図2)は、前年の一九一七年(大正六)制作の「もたれて立つ人」(東京国立近代美術館蔵)(図3)と同様のモティーフを扱った油彩画である。椅子に座った女の身体は、骨太い輪郭線によって、丸みを帯びた量塊の組み合わせとなっており、単純化された形態は、浮彫り風に背景からくっきりと浮かび出る。右上に見えるカーテンに、うっすらと紫色が施されているとはいえ、画面全体は、暗い茶褐色で覆われている。一見して、キュビスム風の絵画との印象を受けるが、こうした特質は、ピカソの「二人の女」(一九〇六年)(図4)や「女の肖像」(一九〇七年)など、いわゆるニグロ時代のプリミティブな作品を想起させる。顔の輪郭や杏仁形の目、また直線で形作られた鼻、それに丸みを強調された肩の表現などは、そうした印象を強く与えるにちがいない。 さらに画面全体を眺めてみれば、手前の裸婦や椅子と、背後のカーテンとの間に、一定の距離を感じさせる〈奥行きのある空間〉が描かれているのに気づかされるであろう。腕や大腿部の描写では、丸みのある立体感が生じるように陰影が施されており、力強くデフォルメされた立体的な量感をもつ身体は、あくまで三次元的な空間の中に配置されて、確かに、土方定一や陰里鉄郎氏が指摘するように、未開民族の彫像を想起させるニグロ時代のピカソの作品によく似ているのである。▼10こうした作風は、その習作である二点の水彩画「裸婦」(一九一八年頃)(図5・図6)においても同様に見てとれる。 一方、この「裸婦」の前年に制作された、萬のキュビスムの代表作と目される「もたれて立つ人」(一九一七年)は、その様式から見て、一九一〇年代初頭にピカソ、ブラックらが展開させた分析的キュビスムの様式に近い作風を示している。もっとも厳密にいって、萬の場合には、ピカソらの分析的キュビスムの段階には未だ到達していない段階である。すなわち、描かれる対象が、両分割によって、切子細工のように細かく分解され、全体として凹凸を感じさせる二次元的な平面に還元された画面構成には至っておらず、むしろピカソのニグロ時代から分析的キュビスムへと向かう転換期の作品、たとえばエルミタージュ美術館所蔵の「三人の女」(一九〇八年)に近い様式をのぞかせている。同時代の批評家、森口多里は、この作品が「黒人偶像の原始的造形力」を持っていると解説した。▼11「もたれて立つ人」との関連でいえば、やはり同年に描かれたと推定されている「もたれて立つ人習作」があり、さらにその前段階の構想を示すと思われる「裸婦(椅子による)」(一九一六年頃)が残されている。要するに、萬はこの〈椅子にもたれる裸婦〉という主題に並々ならぬ執着を見せ、ゆっくりと時間をかけて、緻密に構想を練ったようである。 興味深いことに、この「もたれて立つ人」は、形態モティーフや構図、それに様式の上で、フランス・キュビスムの画家アルベール・グレーズの「バルコニーの男」(一九一二年)(図7)と類似した絵画であることを見逃してはならない。グレーズのこの作品は、はやくも一九一年(大正二)の十二月に、東京の日本洋畫協会出版部より刊行された美術雑誌『現代の洋畫』第二十一号に単色図版で掲載されている。さらに、一九一六年(大正五)初版の久米正雄翻訳によるエッディ著『立體派と後期印象派』(東京、向陵社)の巻頭にも、やはり単色図版で掲載されるとともに、この時期に、他の美術書や雑誌などにも見出されることから、有川幾夫氏は萬の脳裏にグレーズの「バルコニーの男」が浮かんでいた可能性がある、と注意を促している。▼12もっとも、椅子などに〈もたれて立つ裸婦〉というモティーフは、ピカソの「座る裸婦」(一九〇八年)やロシアの画家コンチャロフスキーの「暖炉のそばの裸婦」(一九一七年)(図8)とも共通するもので、キュビスムの絵画において、しばしば用いられた重要なモティーフのひとつである。▼13コンチャロフスキーの「暖炉のそばの裸婦」においては、人物の頭部、右肩の部分が、輪郭線を消されて、背後の空間と融合する、いわゆる〈パッサージュ〉の効果を示しているが、萬の場合には、そうした表現は見られず、キュビスムの様式展開からいえば、分析的キュビスムの前段階に留まっている。 また、エッディの書物には、貧弱な単色図版によるものとはいえ、ピカソの「マンドリンを持てる女」(一九一〇年)メッツァンジェの「味ふ人」(一九一一年)、デュシャンの「将棋をさす人々」などのキュビスムあるいは未来派の作品の写真図版が綴じ込まれており、この時期の萬が、当時の美術書や雑誌を介して、ヨーロッパの芸術運動の動向を、かなり精細に把握していたことが推測される。▼14ピカソのキュビスムの紹介は、早くも一九一三年(大正二年)発刊の『フュウザン』三月号でなされており、「静物」などいくつかの作品写真が掲載されている。 こうした萬のキュビスムに対する実験は、すでに一九一五年(大正四)頃から着手されており、一九一六年制作の「自画像」(岩手県立博物館蔵)(図9)において一応の成果を認めることができよう。その画面では、濃い茶褐色で覆われた暗い色彩による萬の自画像が、浅浮彫り風に描かれている。目や鼻、顔の輪郭などは、幾何学的な直線によって造形化され、あたかも画面の表面に、浮彫り風の立体的な凹凸が存在するかのような印象を与える作品である。一九一六年に同様のモティーフで制作された数点の「自画像」(図10、11)と比較して、この一九一六年の「自画像」(図9)は、鋭い形態を随所に配していて、画面の隅々までよく整理されており、緊張感に溢れる密度の高い絵画だといってよいであろう。これら萬の「自画像」は、ピカソの「自画像」(一九〇七年・図12)と幾分似かよったところがある。 これらの自画像シリーズで試みられたキュビスムの様式は、「もたれて立つ人」に凝縮された感がある。ここでは、たとえ肩や乳房といった人体の部分に応じて曲線が使用されているにしても、四肢や背後の椅子に見られるように、基本的には、シャープな直線による幾何学的構成が中心になっている。この人物が、萬が描いた他の人物とは異なって、人間臭さを感じさせないのは、幾何学的な人体の構成のためであるとともに、単純化された顔の表現のためでもある。目と鼻を暗示させるT字型の形態を用いた顔面の描写は、匿名的であって、いわば人物の温もりを切り捨てた表現となっており、無機的な形態を強調しているかに見える。狙いは分析的キュビスム風の形態を描くことであったにちがいないが、見方によっては、幾分あまい表現になったというべきかも知れない。しかし、そのシャープな表現は、萬の数多い作品群の中にあっても、とりわけ垢抜けのした絵画となっている。色彩の観点からいえば、彩度を落とした朱色と茶褐色による構成が、渋い緑色を頭髪の部分に添えることによって、ピカソ、ブラックらのキュビスムの絵画の基本にある色彩理論に呼応している。つまり、灰色系統のモノクロームの色調で覆われたキュビスムの絵画は、画面を混乱させ、形態の力強さを弱める有彩色を排除するが、ピカソにしても、ブラックにしても、緑色に関しては、頻繁にこれを用いているというわけなのだ。このことは、萬のみならず、フランス以外のさまぎまな地域においても、鋭い感性をもって、真剣にキュビスムの様式を模索した画家たちにあっては、やはり同様の色彩配置が認められる。たとえば、チェコスロバキアの代表的なキュビスムの画家で、ブラックの影響を受けたボフミル・クビシュタ(Bohumil kubista 一八八四~一九一八)の「水浴する婦人たち(春)」(一九一一年)や、ロシアのコンチャロフスキーの「竜舌蘭」(一九一六年)、さらに、アメリカで活躍した国吉康雄(一八八九~一九五三)の、キュビスムの成果を採り入れたプリミティヴな様式の作品「アダムとイヴ(人間の堕落)」(一九二二年)(図13)においても、茶褐色と緑色と朱色あるいは深紅色とが、効果的な対照を示しながらも、全体としてうまく調和するように構成されているのである。▼15萬の場合、この赤系統の色と緑色との対照は、美校の卒業制作「草上の裸婦」(一九一二年)以来見られた特徴であるが、一九一〇年代中頃以降のキュビスムの時期の色彩配置は、萬の好みということを越えて、もしろキュビスムに特徴的な色彩の組合せ、と考えた方が適切であろう。 図式的に考えれば、一九一七年の「もたれて立つ人」から一九一八年の「裸婦」へと至る萬の展開は、ピカソの歩んだ道順と比較すれば、いささか逆行しているようにも見える。というのも、萬の場合には、分析的キュビスムに近い様式からニグロ時代の様式へと逆戻りしているようにも見えるからである。そのために、まるでこの「裸婦」は「もたれて立つ人」よりも以前に制作されたかのように思われる。「裸婦」の制作年に関しては、陰里鐵郎氏が述べているように、一九一九年の第六回二科展に出品された現在所在不明の「女の像」の習作と考えられ、一九一八年作となっている。▼16ニグロ時代のピカソの作品に似た一九一五年の「自画像」(図10)から、一九一六年の、より分析的な作風の「自画像」(図9)へと進み、そしてキュビスムの実験の成果である「もたれて立つ人」へと到達した萬が、なぜ翌年の「裸婦」において、再びニグロ時代の様式に近似する作風へ立ち帰ったのであろうか。また、「もたれて立つ人」へと一九一八年の「裸婦」との制作年をめぐる前後関係はともかく脇に置くとしても、「もたれて立つ人」において、もう一歩でピカソ、ブラックらの分析的キュビスムへと至る地点にまで突き進んだ萬が、なぜキュビスムの様式を徹底し深化させるのを回避したのであろうか。 |
▼10 前掲「萬鐵五郎(三)―生涯と芸術―」、『美術研究』二六二号、二二〇頁。土方定一「萬鐵五郎―強靱な論理の孤独な人間」、『土方定一著作集7 近代日本の画家論Ⅱ』、平凡社、一九七六年、二一一頁。 |
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四、 萬の「私の履歴書」によると、「七年には院展の方へ『静物』を出し」▼17という記述が見られるが、陰里鐵郎氏は、当時活躍していた洋画家の山脇信徳の批評から推測して、萬の記述に該当する静物画が「薬罐と茶道具のある静物」(岩手県立博物館蔵)(図14)であると指摘した。▼18この静物画は、「大正七年」の年記をもち、一九一八年(大正七)に院展に出品され、『中央美術』誌上において、次のような批評文で、山脇に称賛された作品である。 茶碗が皆、摘まんだ様に横にのめっていて、徳利?の口が飴のように滑かに歪んで畸形な飄箪形にねじれていたり、又正面図の薬缶に平面の蓋がのっかって今にも辷り落ち相なのも頗る真面目なおかしみである。素朴な感じが見ていてよい気持ちになる。下隅にある朱色の円形の正体は何んであるか知らないが、色調の上から見て茶褐色の暗中紅一点で画面の緊縮には重大な役目を果している。ここに新しい静物画の種が生まれた事をよろこぶ。▼19 山脇の「新しい静物画の一種」という主張は、この「薬罐と茶道具のある静物」が、従来の静物画よりも抜きん出た、質の高い独創的な絵画であることを意味する、と解釈して間違いなかろう。また、「真面目なおかしみ」という言葉は、この静物画のみならず、萬の主要な作品の大半にあてはまる特質であって、たとえばオットー・ディックスらのドイツの新即物主義絵画に似て、真摯であるとともにユーモラスな基本的性格の核心を、ずばりと言い当てたものであり、山脇の批評眼の鋭さを端的に物語る文章となっている。 さて、山脇の批評文を手がかりにしながら、「薬罐と茶道具のある静物」を観察してみると、この作品は、一九一七年(大正六)までに萬が制作した静物画とは異なって、軽快な運動感の表現を本領としている。湯呑や茶筒などの種々の容器は、山脇の指摘するように、「今にも辷り落ち相な」動きのある形態描写となっており、まるで、生き物のごとく、いわば体をよじり、あちこちへと転がってゆきそうな気配を感じさせる。しかも、テーブルが、薬罐や壺を見る角度よりも高い位置から俯瞰するやり方で描かれているため、画面の下方に近づくほど、事物を真上から見下ろした格好になって、テーブルの面は、あたかも巌頭から流れ落ちる滝の水に似て、凸面鏡さながらに、手前に迫り出すように湾曲した印象を生み出すことになった。この印象は、画面の左下に、真上から描かれた朱色のとっくりのような瓶によって、いっそう強調されている。そのために、お盆とその上の急須や湯呑が、手前に滑り落ちそうな格好になっている。これは多視点を用いて、空間を歪めながらも、いまだ西洋の伝統的な遠近法的空間を、かろうじて保持しつづける描き方である。こうした描写法は、ピカソの一九〇九年頃の静物画にも見られるが、それよりも、むしろセザンヌの静物画を想起させる性格を示すものだといえよう。 そのユーモラスな運動感は、それぞれのモティーフが、「摘まんだ様に横にのめっていて、(中略)飴のように滑かに歪んで畸形な瓢箪形にねじれ」いるために生じているのだが、その印象をより効果的に強調するため、萬は薬罐と茶筒と瓢箪形の壺の上部周辺に、輪郭線に沿って並行に走る影のような、濃い灰色の線描を幾本も描き加えた。こうした陰影の描写は、アクセントとしての調子を画面に与えるための一要素、とも考えられるかも知れないが、見方を変えれば、これらの線描は、時間の連続的な経過を視覚的に表す、未来派の運動表現に似たものだといえるかも知れないし、また、日本の絵画にしばしば見られる、一種の諧謔趣味とも考えられる。いずれにしても、この動的な形態は、ピカソ、ブラックらの、静止した描写を基本とするキュビスムの様式とは異質のものである。 ところが、前年の一九一七年(大正六)に制作された「大正六年」の年記をもつ「筆立てのある静物」(図15)では、動きのある要素はまったく見られない。この画面では、鳥瞰的に見られたテーブルの上には、奥の方に、木製の正方形の敷物に載せられた急須と細くて丈のある壺その右側に筆立が、テーブルの手前の場所には、黒っぽい布の上に湯呑とマッチ箱と灰皿、それに小さな杯を載せたお盆が描かれている。画面のほば中央に置かれた湯呑と、テーブル・クロスだけが、灰色に近い深緑色で、他のほとんどは、濃淡さまぎまな茶褐色で描かれている。緑色と茶褐色の組合せは、ピカソの「テーブルの上のパンと果物入れ」(一九〇八年)(図16)などの静物画の色彩を想起させる。モティーフの配置を検討してみると、有川幾夫氏が指摘するように、ファン・レースの静物画を想起させる萬の「パイプのある静物」(一九一四~一五年)(図17)や「手袋のある静物」(一九一五年)(図18)とは異なって、「筆立てのある静物」では、湯呑など個々のモティーフは、半ば孤立するように、それぞれ他の事物と離れた場所に置かれている。モティーフの周囲の空間は、確実に把握されており、その点では、ピカソ、ブラックらの一九〇八年頃の静物画ともよく似ているが、空間全体の表現は、むしろセザンヌの作風に近いといえるだろう。 さて、以上に考察してきた「筆立てのある静物」から「薬罐と茶道具のある静物」への転回は、一体何を意味しているのであろうか。図式的に孝えれば、萬は、「パイプのある静物」(一九一四~五年)や「手袋のある静物」(一九一五年)から出発して、徐々にキュビスムの様式を採り入れるとともに、セザンヌの影響を受けたようにも思われる空間把握に到達した。そして、いまだ不徹底であるとはいえ、あるていどはキュビスムの様式を咀嚼している「筆立のある静物」を制作した翌年、つまり一九一八年に、萬はキュビスムの様式を用いながらも、反面、それを否定するかのように、ユーモラスな運動感を際だたせる「薬罐と茶道具のある静物」を制作する。要するに、作品を観察する限り、一九一七年から一八年にかけて、萬の造形思考が急転回したと考えられるのである。 |
▼17 萬鉄五郎「私の履歴書」、『中央美術』大正一四年十一月号。萬鉄五郎『鉄人画論』(増補改訂)、中央公論美術出版、一九八五年、一五頁。 |
五、 画面右下に「1918」の年記をもつ岩手県立博物館所蔵の「木の間より見下した町」(図1)は、萬の数多い作品群の中でも屈指の代表作であって、とりわけ、重苦しさ、あるいは暗欝という印象を与える絵画である。画面を覆う暗褐色の色調は、あたかもこの画家の重苦しくて欝陶しい心境の表明のようにも思われる。知合いの洋画家、小林徳三郎は、萬の遺作展に際して、この絵画について、次のように記している。 大正四年頃から萬君の作品がだんだん暗くなって来たのだが、この「木の間から見下ろした町」に至って暗い極度に達したのだと彼自身云つてゐた。此繪は殆ど灰色だけの濃淡である。描いてあるものも木なら木、家なら家の精霊のやうに見えるものだ。然しこうなつては萬君も苦しい事であつたらふ。▼20 この「萬君も苦しい事であつたらふ」という文章の意味は、素朴に受け取れば、萬が深刻な思考の世界に踏み込んで、気持ちの上でも暗澹としたうっとうしい心境に陥り、そうとうに苦悩していた、ということであろうか。小林徳三郎が引用しているように、この作品について萬は、後年の一九二四年(大正十三)に、美術雑誌『みづゑ』に発表したエッセイ「自分の出品画雑感」において、自らこう語っている。 一体自分の制作は色の點から言えば始めは非常に明るい鮮明なところから段々少しずづ暗くなり、丁度「木の間から見下した町」の時に至って極端に暗くなったのであるが、それから又少しずづ明るくなって現在ではかなり明るい処に出て居るのである。▼21 要するに、この風景画において、彼の絵画は、もっとも暗い色調になったということであるが、いうまでもなく、このことから直ちに、萬が精神的に苦悩していた、と短絡的に断定することはできない。というのも、こうした作風の傾向は、萬のみならず、当時の美術界の流行でもあったからである。たとえば、批評家の森口多里が注意を促しているように、「木の間より見下した町」が制作された一九一八年、東京朝日の投書欄に次の感想が寄せられたという。 此間から美術院と二科会へ集つて來る油繪を見てゐると、どれもこれも眞ツ暗なのに驚いた。 つまるところ、森口多里は、時代の証言者として、こうした作風を印象派などの外光の明るさをもつ写実的観照に対する反動と見た。づまり、外向に背を向けて、好んで陰暗な苦渋の世界へ没入する、深刻ぶった復古的趣味だと指摘した。中川一政、硲伊之助、片多徳郎、小出楢重、そして岸田劉生らをはじめ、多くの画家たちが、この時期、陰欝な暗い絵ばかりを描いていたのである。 それ故に、萬の暗い画面を指して、すぐさま苦悩云々と説明するのは、勇足となりかねない。萬もまた時代の強い影響下にあったことはいうまでもない。そこで、この絵についても、やはり作品に描かれているものを、まず正確に読みとっていくべきであろう。 さて、「木の間より見下した町」は、下方に密集する十数軒の家並の稜線に引かれた鮮やかな朱色を除けば、全体としては、暗褐色のモノトーンに近い絵画でああ。林の中に家並を配置する構図などは、ブラックの「レスタックの家」(一九〇八年)(図19)や「レスタックの木々」(一九〇八年)(図20)あるいはメッツァンジェの「キュビスム的風景」(一九一一年)を想起させる。類似する作品としては、一九一六年(大正五年)に出版された木下杢太郎著『印象派以後』(日本美術学院)の巻末に綴じられたブラックの「レスタックの掛橋」(一九〇八年)(図21)の写真図版を挙げることができよう。萬の絵画では、浅浮彫り風に描かれた家々の屋根は、積木を寄せ集めたように、短くて鋭い直線を強調している。こうした形態は、確かに、一九〇八年前後のピカソ、ブラックらの、立方体に還元された建物の表現と瓜二つである。けれども、両側から伸びている樹木や枝や幹を形づくる力強い線描の束は、神秘的で不気味な運動感を示しており、ピカソ、ブラックらのニグロ時代、あるいは分析的キュビスムの時代の様式とは、かなり相違する表現になっている。小林徳三郎は、これらのモティーフを指して、「木なら木、家なら家の精霊」のようだと形容したが、確かに、この風景画には、われわれを不安に陥れるほどの〈薄気味悪さ〉が見てとれる。実に小林徳三郎は慧眼である。また土方定一は、多くの研究者たちによって、しばしば引用される次の文章において、この画面に、キュビスムの理知的でクールな様式とは正反対の、ある深い精神的な内容を読みとろうとした。 この 「木の間から見下した町」は、土沢の山にさしかかったところから展望した家並、そこに繁っているくるみの樹かなんかの立木─そういった郷里、土沢の回想であることは、萬の郷里へのかなしい何想を思わせる。回想のなかで郷里のこの風景は、いつの間にか浪漫主義的に美化され造形的に純化され、萬鐵五郎の「自己の中心のなかに自然は置かれて」神秘をたたえた靜謐な画面になっている。▼23 要するに、この画面には、キュビスムの理詰めで合理的な幾何学的形態を打ち消そうとする、一種の情念とでもいうべき、生々しい感情が表現されていることに気づかされる。それはまた、この風景が、初期の萬の、いわば写生的な風景画とは違って、実際の風景をほとんど無視したやり方で、純粋に造形的な観点から構成されている、ということを明らかにするであろう。萬に直接師事した洋画家、原精一は、小倉忠夫氏と対談したときに、この「木の間から見下した町」の制作に関わる興味深い発言を行っている。 僕は土沢の方のモチーフだと思いますね。それで、あれをもって東京へ来られて、東京で描いているうちにだんだんあそこまで行ったのだと思うのです。 その項は簡単に言うと神経衰弱の症状ですね。家が亡霊みたいな非常に細い線で描いてある。ここまで行って、それから茅ヶ崎へ転居なさったと思うのです。そうして茅ヶ崎へいらっしゃってからしばらくの間は絵を描いていないのですけれどもね。▼24 原精一の回想を手がかりにして、「木の間から見下した町」の制作過程を推測してみると、この風景画は、一九一五年(大正四)に描かれた写生風の「土沢風景」(図22)などとはまったく異なる作風を示している。つまり、萬がとりわけ好んだ郷里土沢の一景観を出発点にしながらも、土沢を離れて上京した後に、頭の中で、繰り返しイメージを練り直し、単純化して、最終的には〈樹木の間から見える町〉という、一種の〈象徴〉にまで形態を抽象、省略、凝縮させた絵画だといえよう。こうしたモティーフは、土沢で描かれたと推定されるスケッチブック(図23)にも見出されることから、萬の構想は一九一四年から一六年の土沢時代に遡るものと考えられる。このモティーフを展開させるにあたって、萬は、年を経るごとに写生的な風景画から離れていき、純粋に造形的な心象の風景へと向かったようである。このことに触れて、陰里鐵郎氏は、「郷里の自然風景と萬の内的風景とが一つとなって、いわば萬における原風景」ができあがったのだと語っている。▼25 さて、一九一八年(大正七)は、萬にとって、とりわけ重要な実験模索の年だったとみえて、「一九一八」の年記のある「かなきり声の風景」(図24)という「木の間から見下した町」とはかなり作風の異なる作品をも描いている。この絵画は、朱色、緑色、黄系統の色というふうに、鮮やかで、強烈な色彩を用いて、太く力強い筆触で、ぐいぐいと絵筆を動かして描いた感じのする作品であり、画面から受ける印象は、まさに耳をつんざくような鋭い〈叫び〉の視覚化といってよい。原色に近い絵の具を使うことによって、「木の間から見下した町」とは対照的に見える作例であるが、やはり全体的には、そしてまた形態の観点からいえば、運動感に溢れる絵画であって、その点に限るなら、両作品は部分的に共通の特徴をもつ、といってよいのかも知れない。 また、一九一八年作と推定されている「丘の道」と題する油彩画がある。この作品は、茶褐色と緑色との組合せによる、やはり陰欝な色調の絵画であるが、半ば抽象化された山や道の表現などに、うねるような運動感が付与されており、キュビスム風の色彩構成を示しているとはいえ、キュビスムの様式とは大きな隔たりを感じさせる風景画である。 さらにもう一点、一九一八年作と考えられている新潟県美術博物館所蔵(元長岡現代美術館所蔵)の「木の間風景」(図25)を挙げねばならない。この作品は、「木の間から見下した町」とほぼ同様の構図による風景画だと考えてよいが、この場合は、渋い朱色あるいは明るい褐色と深緑色との組合せによる、キュビスム風の鋭い形態を誇る作品である。樹木や家屋と思われるモティーフは、簡潔に整理されていて、細部描写には運動感がないわけではないが、前二作品と比較すれば、むしろ動きの少ない絵画だというべきであろう。有川幾夫氏は、この作品がカンディンスキーの「小さな喜び」(一九一三年)を連想させる、と注意を促している。▼26確かに、画面中央に描かれた穴ぼこのある不定型の形態や構図の印象などは、そうした関連を強く感じさせるにちがいない。要するに、この作品は、一方で、浅浮彫り風の鋭く端正な形態モティーフに見られるように、ピカソらの分析的キュビスムに近い特徴をそなえるとともに、もう一方では、カンディンスキーらの表現主義的絵画と共通する形態モティーフを配置している、といえるはずである。 さて、年記がわからず、一九一八年頃の制作と考えられている作品の中、「木の間から見下した町」および「木の間見景」と類似したモティーフを、同様のやり方で構成した作品がある。すなわち、「木蔭の村」(図26)、そして三重県立美術館所蔵の「木の間よりの風景」がそれである。後者の「木の間よりの風景」は、萬特有の濃くて深い茶褐色が作品の基調となっており、「木の間から見下した町」と構図がよく似ているということで、一九一八年あるいは一八年頃と推定されたようである。萬亡き後の一九三一年(昭和六)に、未亡人の淑子夫人が編者となって発刊された『萬鐵五郎畫集』(平凡社)において、「木陰の村」は一九一八年作と記載されている。一方、三重県立美術館所蔵の「木の間よりの風景」は、キャンバスを張った木枠の裏面には、朱色の絵具で、「本・四・萬鉄五郎」と書かれており、「本」の字は「大」と読めないこともなく、この書き込みは興味を惹くが、文字が萬の手になるものかどうかを含めて、不明な点が多く、制作年の確定は依然として困難である。ともかく、もっとも早い時期に制作されたとしても、大正四年、すなわち一九一五年以前に遡らないことだけは確かである。色彩、モティーフなどから考えて、やはり一九一八年頃の制作と推定される。けれども、この一九一八年という制作年に関しては、もう少し丁寧に考えてみる必要がある。というのは、この作品と「木陰の村」の二点の風景画は、その形態把握に関していえば、一九一八年の年記をもつ「木の間から見下した町」、「かなきり声の風景」などのそれと比ぺて、かなり粗く描かれていて、諸形態が充分に整理されているとはいえないからなのだ。つまり、推測するところ、これら二点の絵画は、「木の間から見下した町」や「かなきり声の風景」を制作する以前に、いまだ〈樹木の間から見える町〉というイメージが、萬の内部で半ば混沌としていて、明確に抽象化あるいは象徴化されていない前段階を示しているように思われるのである。 これまで開催された、いくつかの「萬鐵五郎展」の展覧会図録を見ると、制作年不明の風景画は、その多くが、一九一八年頃と記されている。その理由のひとつは、制作年が確定している「木の間から見下した町」を基準に、モティーフがこれと類似、関連する作品を、便宜的に一九一八年頃として纏めたからであろう。一九一七年制作と考えられている風景画が、数点を除いてほとんどないというのも、少々不自然である。もちろん推測の域を出ないのだが、私は、三重県立美術館所蔵の「木の間よりの息景」を、作風からいって、一九一七年作、あるいは一九一八年作、ただしその場合、岩手県立博物館所蔵の「木の間から見下した町」より以前の時期の一九一八年作、と推定したい。そのように仮定することで、一九一五年(大正四)頃から、「木の間から見下した町」へと至る、萬の風景画の展開を、段階的に跡づけることができるように思えるのである。 すなわち、一九一五年の「土沢風景」や一九一五年頃の墨頑「木の間風景」(図27)から、一九一六年頃の「立木風景」(図28)へ、そして一九一七年あるいは一八年頃の「木の間よりの風景」(三重県立美術館蔵)や「木陰の村」から、一九一八年の「木の間風景」(新潟県美術博物館蔵)や「木の間から見下した町」(岩手県立博物館蔵)へと至る展開である。もっとも、一般に画家というのは、しばしば行きつ戻りつの複雑な歩み方をする場合が多く、萬が、今述べたように、整然と様式を展開させたかどうかは疑問である。しかしともかくも、彼は、数年間にわたって、〈樹木の間から見える町〉というモティーフに執着した。これら一連の風景画が、郷里土沢の一景観を象徴化した〈心象風景〉であると考えれば、その着想は、まったく萬独自のものであるということになる。しかし、見逃せないのは、萬独自の造形思考によって生み出されたと考えられるこの風景画が、ブラックやメッツァンジェ、あるいはセザンヌのそれと、構図、モティーフ、形態など、多くの箇所で類似しているということであろう。推測するところ萬は、〈樹木の間から見える町〉というモティーフを、独自に単純化、象徴化していく段階で、ブラックやメッツァンジェの風景画を、美術書や美術雑誌の図版で見る機会があって、それを参考にしながら、独自の構想を押し進めたのではなかろうか。そうした着想の展開は、やはりブラックの風景画の影響を受けたと推定されるデュフィの「レスタックの工場」(一九〇八年)やコンチャロフスキーの風景画「シエナ」(一九一三年)の場合と酷似している、といってよいかも知れない。 さて、以上に述べてきたように、萬は、一九一七年までは表現主義的な作風をも随時試みながらも、大きく見れば、ピカソ、ブラックらのキュビスムの様式による風景画を研究し続けた。そして、一九一八年の「木の間から見下した町」や「かなきり声の風景」に至って、キュビスムの様式を乗り越えようとする、内面の感情の噴出とでもいうべき、運動感に溢れる、一種の表現主義的な作品へと向かったのである。 |
▼20 小林徳三郎「萬鐵五郎君の遺作記録(製作とその時代)」、萬淑子編『萬鐵五郎画集』、一九三一年、平凡社、四頁。 |
六、 ところで、このようにキュビスムの研究に没頭していた萬が、なぜ一九一八年を境にして、キュビスムの様式といったん袂を分かつようになったのであろうか。もちろん、先にも述べたように、萬はキュビスムの造形思考を完全には放棄せず、後半においてもまた、キュビスムの手法を違ったやり方で繰り返し試みているが、ともかく、一九一八年以降、徹底した追及を行わなくなったことは事実である。 この疑問に関して、しばしば言及されるのは、萬における南画の問題であろう。一九二〇年前後の時期には、南画に関する著作が多く出版されており、一例を挙げれば、新井洞厳『南畫の描き方』(日本美術学院、一九二〇年)、梅澤和軒「表現主義と文人畫の復興」(『早稲田文学』第一八六号、一九二一年)、大村西崖『文人畫と表現主義」(『国華』三九〇号、一九二二年)、同じく瀧精一『文人畫概論』(改造社、一九二一年)、梅澤和軒「文人畫と表現主義」(『書畫骨董雑誌』一六六号、一九二二年)、橋本関雪『南画への道程』(中央美術社、一九二四年)と枚挙にいとまがないほどであった。▼27こうした時代状況を背景にして、萬が南画に心酔するようになったのは、次に引用する「私の履歴書」(『中央美術』大正十四年十一月号)によれば、一九二一年(大正一〇)頃からである。 十年頃から日本畫特に南畫に興味を持つ様になりそれにその方の便宜もあったので色々なものを見るようになり自分の好きな人としては大雅堂の外浦上玉堂、仲山高陽、彭百川、岡野右圃、桑山玉洲などのある事を知る様になった。其の項『純正美術』という雑誌に玉堂に就いての研究を発表した。▼28 そして、翌一九二二年(大正十一)に、萬は、当時活躍していた南画家の菅原白龍(一八三三~一八九八)作品をめぐって、文芸評論家の本間久雄と大論争を戦わすことになる。▼29本間は、評論「近代南画の革命家菅原白龍」(『中央美術』一九二二年二月号)の中で、「大和魂を以て専ら本邦の山水を寫し、その美景を海外に輝かさんと欲す」と語る南画家、白龍の〈写実主義〉を賞賛した。それに対する萬の反論は、『中央美術』誌上の「本間氏の白龍論及び南畫に就いて」によって、次のように展開された。 南畫は東洋に於いてかなり古くより、条理ある書論を背景として、理論と作畫と相俟って發達して来た唯一のもので東洋畫の本流をなすものと観察すべきであるが、其の著しき特色として挙ぐべきは、寫實を卑しむ事の甚だしい點である。此の點は白龍とは反対の立場にあるものと思われる。▼30 この萬の批判を迎え撃つ本間の「再び南畫革命家白龍について」(『中央美術』一九二二年六月号)に対し、萬は『純正美術』誌において、もう一度、「本間氏に申す─氏の白龍再論に就いて」という批評文で強烈に応酬した。 よいものは、直ちによいものとなり、つまらぬものは単につまらないとなるのです。自龍のものなども時の雰囲気や理窟でその價値を判断するよりも、絵そのもので價値を極める方が早い事になります。 自分は今まで単に南畫と言うて來ましたが、それは南畫の理想を充分に具体化したものをとって、そう言うたのです。例えば百川、大雅、石圃、高陽、紀玉堂などよき例です。かくの如きものと比較する時白龍のものなど問題でなくなります。如何に革命せられなければならないかという事は大なる天才にまたなければなりません。▼31 萬はすでに一九一五年(大正四)頃から、玉堂や大雅らの南画に興味を抱いていた節もあるが、いずれにせよ、本格的に南画について批評を開始したのは、一九二二年のことである。中村義一氏は、『文人画とキュビスム―万鉄五郎の南画論』において、「飄逸・奇矯と称された大雅や玉堂らの奔放自在な南画に惹かれて、表現主義的な深い内容と構成主義的な強靱なフォルムを蘇生した新しい日本の洋画創造を志向する彼が、日本産文人画=南画の中にキュビスムの視覚の存在論的本性を、直観的に見ようとしていたのは確かである」▼32と述べつつ、萬における南画とキュビスムの接点を見出そうとしているが、この見解が、萬の一九一五年から一七年の時期においても妥当するかどうかは、明確に論じられてはいない。 さて、先にも触れたように、萬のキュビスムといわれるものは、西洋のキュビスムを忠実に移したものではなく、一種の日本的な表現主義の志向を示すものである、という解釈がしばしばなされている。こうした解釈は、おおむね的を射ているのかも知れないが、実のところ、あまりに大雑把にすぎる。しかも、この論法で話を進めると、萬の個々の作品の特質が平均化されすぎて、キュビスム風の絵画自体にも、時期によっては、かなりの差異が認められることを見逃してしまいがちになる。少なくとも作品を見る限り、後年の「男」(一九二五年)(図29)や「枯れた花のある静物」(一九二六年)(図30)などのキュビスムの様式を部分的に採り入れた絵画とは異なって、先の作品分析からも明かなように、一九一五年頃から一九一七年までの萬のキュビスム風の作品は、モティーフ、構図、形態、色彩のいずれの角度から見ても、彼の生涯にわたる作品群の中では、きわだってピカソやブラック、そしてメッツァンジェやコンチャロフスキーらのそれに接近している、という事実をまず認めなければならない。すなわち、一九一五年頃から、萬はピカソらのキュビスムの様式に深い興味を抱き、さまざまに実験模索を行って、ついに「もたれて立つ人」(一九一七年)の地点に到達した。ところが、キュビスムの様式を深めていくにつれ、萬の内面には、この様式に対する、いわくいい難い〈違和感〉が増大していったように思われる。というのも、同時代の多くの画家たちと同様に、彼もまた〈自我〉を中心に置く、次のような〈人格主義〉の芸術を唱道する画家だったからである。 僕は誰でもの藝術に、藝術よりも先ず人間を求めて居る。人間を出すのがほんとの表現主義である。人間を求めると同時に、より高き人間を求めるから、人格主義と言ってもよい。即ち人格表現の主義である。一番高い價いするものは、人格表現の主義をおいて他にないと思う。▼33 ここで主張されている「人格主義」という思想は、おそらく文芸誌『白樺』をはじめとする出版物、さらにいえば、当時の時代思潮の影響によるものであろう。例えば、少し時期は遡るが、『白樺』の明治四四年一二月号において、武者小路実篤は『手紙四つ(感想)』と題したエッセイの中で、こう述べている。 最近の藝術は自分の心を赤裸々に紙の上にぶちあけるものゝ氣がする。(中略)自分は最近の繒を見るとそれをかいた人の心が自分の心にふれることを覚える。さうして深い力と法悦を感ずる。かゝる藝術の價値は舊い物指ではかることは出來ない。又新しい物指でも計ることは出來ない。價値以上なものである。人間の心(人格)そのものである。▼34 こうした人格主義という立場は、萬が南画に傾倒していく一九二一年頃から明瞭に主張されるようになったが、この事実を敷衍して、「自画像」(一九一五年)や「筆立のある静物」(一九一七年)、そして「もたれて立つ人」(一九一七年)などの作品までをも、南画とキュビスムの混交した絵画と解釈するのは勇足であろう。少なくとも、それを作品に即して実証することは困難である。またこれらの絵画を、ピカソやブラックらのキュビスムとはまったく性格の異なる〈日本の表現主義〉、すなわち「内面の真実の造形化」の作品と説明するのも、あまりにも言葉が足りない。この時期、萬は間違いなくヨーロッパのキュビスムに傾倒していた。主要な作品を見る限り、そうとしか考えられない。つまり、一九一五年から制作が始まる「自画像」の連作や「手袋のある静物」(一九一五年)、そして「立木風景」(一九一六年頃)などの制作に着手することによって、萬は急速にヨーロッパのキュビスムへと接近し、その様式から自己の血となり肉となるものを奪い取ろうとしたように思われる。事実、作品を見る限り、萬はかなり忠実にピカソやブラックらのキュビスムの様式を研究していることが分かるであろう。また、この時期の「風景」や「自画像」などから推測すると、彼がピカソらの手法や表現法を採り入れて、独自の絵画を描こうと苦闘していることも明白である。その努力の結果が「もたれて立つ人」に結実した、と考えられる。 ところが、そうした実験の成果を、その翌年、つまり一九一八年には投げうって、「薬罐のある静物」や「木の間から見下した町」を制作することになる。このとき萬の内面には、一体どのような変化が引き起こされたのであろうか。そして、この変化を一層押し進めるかのように、数年後の萬は、一種の表現主義としての南画への関心を一挙に深めてゆくことになったのである。 |
▼27 前掲書『生誕百年記念・・萬鉄五郎展』図録、一九八五年、年譜参照。 |
七、 本稿の冒頭で取り上げた「木の間から見下した町」(岩手県立博物館蔵)や「木の間よりの風景」(三重県立美術館蔵)は、萬のキュビスムを考える上で、鍵となる絵画である。画面中央に描かれた家並みの形態は、ブラックの「レスタック風景」や「レスタックの掛橋」の家並によく似ている。その簡潔な線と面との構成、加えて、画面全体を覆う濃い深緑色と渋い赤茶色との組み合わせ、あるいは濃い茶褐色のモノクロームの画面などは、やはりキュビスム研究の成果の一端というべきであろう。不可解に思われるのは、両作品のどちらにも見られる、周囲の樹木や手前の叢の描写である。このむしろ表現主義的、あるいはフォーヴィスムとでも説明すべき荒々しい描写法は、クールで理知的なキュビスムの整理された様式とは対照的であって、キュビスムの研究を続ける萬の前に立ちはだかった障害が、いかに大きかったかを推測させる。すなわち、これらの絵画の制作年が一九一七年から一八年にかけての時期であるとすれば、作品を見る限り、萬は「自画像」(一九一六年)(図14)などで、あるていど自己のものとしたキュビスム風の様式を、半ば否定しようとしているようにも思えるのである。両作品共に、中央の家並の表現において、画家が好んだキュビスムの様式は、形態描写の観点からすれば、周囲の粗い筆触による樹木や叢によって弱められているかに見える。そのために、樹木などは、ある情念あるいは感情を、画面にぶちまけたかのような描写になっている。 推測するところ、視覚的なセンスの良さと頭脳明晰な知性とを併せもつ萬は、ヨーロッパのキュビスムに接近しつつも、この様式は、あまりに理知的かつ美的(萬はそう感じていた)すぎて、内面の情念を直截に表現するには、いささか物足りない、あるいは不向きな様式だと考えるにいたったのではなかろうか。このことに関連して、陰里鐵郎氏は、次のような萬の言葉を引用しながら、萬にとって「絵画は生きることそのものであった」と結論づけつつ、〈美〉という概念を嫌う萬の芸術観を浮彫りにしている。 美、美術など言う言葉はあまい気がして好かない。定義のし様でどんな意味にもなるにはなるが言葉そのものから来る感じは僕の口に合わない。(中略)人間が美を作る考えで出発するなら、つまりそれはセンチメンタルな遊戯だ。▼35 こうした思考は、その頃に出版されていた種々の美術書の内容と基本的に一致することから、萬の造形思想のバックボーンとなっていた時代思潮の骨格がはっきりと理解できる。一例を挙げると、一九一六年(大正五)発刊の吉野作造編『新藝術』(民友社)の第五節「後期象主義」の中に、次の一文が記されている。 物象の外面を描寫する者は、美の再現に努むれども、内面の意義を求むる者は、美をも想はず醜をも想はず。何となれば、其拠はもはや美醜を超越したる境地なればなり。彼等は、人格の表現を唯一の目的となす。彼等にとりては、藝術の極致は「表現」にして、「美」にあらず。▼36 このような芸術観は、萬の思考の根底に存在し続けたものであって、彼がキュビスムの実験を繰り返していた一九一五年から一七年にかけても、常に頭をもたげてきた思考であったにちがいない。いわば内面の表出としての〈人格主義〉と理知的で構成的な〈キュビスム〉との板挟みの窮地。萬の苦悩は、実にこの点にあったと思われる。そのジレンマは、彼の精神を耐え難いほどに鋭く痛め続けたにちがいない。一九一四年頃から一九一七年にかけての萬は、フランス、あるいはヨーロッパ各国のキュビストたちが追求したように、「自画像」、「裸婦」、「静物」、「風景」というキュビスムに特有のモティーフや構図、あるいは茶褐色や赤系統の色と深緑とによるキュビスムの色彩配置を採り入れて、魅力あるキュビスムの様式に傾倒し、それを徐々に深化させていったようである。しかし、彼の脳裏を占めていた〈人格主義〉なる思想が、キュビスムの様式に対する〈違和感〉、〈懐疑〉、あるいは〈抵抗〉の気持ちを徐々に増大させていったのではなかろうか。要するに、ピカソ、ブラックらのキュビスムは、美的興味、あるいは単なる造形上の面白さに終始するだけではないか、という懐疑を、萬は払拭することができなかったのではなかろうか。その点では、ドイツ表現派のブリュッケの画家たちが、マチスやブラックなど二十世紀初頭のフランスの前衛的作品に、詰まるところ、「装飾化」の危険性を見てとったのとよく似ている。 近代日本の洋画家たちの中にあっても、珍しいほどに知的な造形思考を身につけていて、西洋のキュビスムの運動と歩調を合わせて、ほば同時期にキュビスムの様式を採り入れた質の高い作品を制作した萬、そしてまた、キュビスムの造形の、強靱で、しかもカミソリのように切れる圧倒的な魅力に、誰よりも深くのめり込んだ萬にとっては、この〈板挟み〉あるいは〈分裂〉の苦しみは、なおさら深刻なものであったにちがいない。そうした〈キュビスムへの抵抗〉が、いよいよ大きく膨らんだときに、萬は、自己の内部に欝積する気持ちを、思い切って外部に絞り出すかの悲壮な決断をし、キュビスムをかなぐり捨てる迫力をもって、あの運動感あふれる「薬罐のある静物」や「木の間から見下した町」の制作に踏み切ったのではなかろうか。こうした苦しい状況は、一般に神経衰弱といわれている萬の心身の衰弱とも深い閑係があるように思われる。なお、この病気に関しては、陰里鐵郎氏が、神経衰弱ではなく結核だったのではないか、と推定している。というのも、萬が死亡する前年に亡くなつた長女登美の病が結核であり、二人の病には、因果関係があったかも知れないからである。▼37 さて、以上のような萬の造形思考の苦しさを反映している一例として、「木の間よりの風景」(三重県立美術館蔵)を挙げることができよう。おそらく、「木の間から見下した町」より以前に制作されたであろうこの絵画は、重苦しいほどの暗鬱さ、恐ろしい静けさ、気味の悪い奥深さ、そして、いうにいわれぬ寂しさ、という印象を醸し出しているが、ここには、キュビスムに惹かれつつも、それに抵抗する画家の内なる懐疑と闘いが、もっとも典型的に表明されている、と感じられるであろう。 こうした状況の中で、追いつめられた萬が、ドイツ表現主義の絵画などにもヒントを得ながら、いったんキュビスムの様式から離れて、人格の表現、あるいは内面の表出にふさわしいと思われた江戸の文人画=南画の世界に、ひとつの活路を見い出そうとしたのも、むしろ当然の帰結であった。その際に、萬は、文人画を一種の表現主義だと考えた。後年の一九二六年に萬は、江戸の文人画家を論じた『文晁』(アルス美術叢書)を出版して、その序文に「東洋畫を按ずるに、その内容は或る種類の表現主義、其手段としては構成主義である」▼38と主張したのである。 |
▼35 萬鉄五郎「雑感―美、美術」、『マロニエ』一―二、一九二五年、七月。前掲書『鉄人画論』、中央公論美術出版、一九八五年、三七五頁。 |