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美術館 > 刊行物 > 研究論集 > 第3号(1991年3月発行) > 月僊の初期作風の多様性と様式形成-人物画を中心として 山口泰弘 研究論集3

no.3(1991.3)
[論考]・・・

月僊の初期作風の多様性と様式形成  人物画を中心として

山口泰弘

田能村竹田は『山中人餞舌』のなかで月僊(一七四一~一八〇九)を、谷文晁(一七六三~一八四〇)と比較するかたちで次のように評している。


ハツ墨惜しまざるは谷子文伍か。ソウ月仙は此れに反す。痩筆乾擦、後に淡墨を用ひ、少しく之を湊合す。蓋し谷子は大いに古法を存す。月仙に至りては、専ら新裁を出して、古法全く盡く。


・・・略・・・


今仙の畫を觀るに、人物簡にして疎朗、迫塞の虚無し。多作に因りて漸くセイ熟を致すと雖も、又是れ天趣あり。諸れを時輩に比すれば迥かに異なり。  (原漢文)▼1


竹田の慧眼と的確な論評は、月僊の作風の特質を文晁と相対することで鮮やかに浮き彫りにしている。「撥墨惜まざる」用筆遒勁な谷文晁に対して「痩筆乾擦、後淡墨を用」いてのちにそれを湊合(総合)したという草々とした筆墨に月僊の画風の特徴があるという指摘は、私たちが現在眼にする多くの遺存作の特徴と一致することからみても、月僊画の特徴を正確に衝いたものとみなして間違いない。


なかでも竹田は、月僊画においてとりわけ特徴あるジャンルとして人物画を例にとって評論を加えている。月僊も当時の画人の例にもれず、山水画、走獣画、花鳥画などあらゆるジャンルに手を染めていた。にもかかわらず、竹田に、人物画を特別に取り上げさせたのは、このジャンルに月僊の画風の特質がことに顕著に現れていたからにほかならない。「人物簡にして疎朗、迫塞の処無し」という短い評言はたしかに月僊の人物画の様式的特質をするどく衝いている。竹田はこのような特質を「多作に因る」と判断しているが、はたして多作を様式的特質の唯一の成因と言い切ってよいかどうかは別にしても、たしかに‘多作'を可能にする簡明な表現であることは誰の目にもあきらかであろう。


しかし、月僊の素描的といってもよい簡明な表現は、竹田の眼には、文晁の古法に拠った画風に比較してもっぱら‘新裁’つまり新意を盛り込んだものとして映ったようだ。


竹田は同じ『山中人饒舌』で、志なかばで夭折した馬孟熙こと北山寒厳の朋輩として文晁を再登場させているが、ここでは、「其意蓋し復古に在るなり」と、引用文で「大いに古法を存」したという文晁画面を一層明確なかたちで語っている。文晁は旺盛な雑食性で、狩野派、宋元明画、西洋画などあらゆるジャンルを猟渉し画嚢に納めていたが、文晁画のみせる古画学習の成果が、とりわけ竹田の眼を惹くことになったらしい。


ところで、月僊は安永九年(一七八〇)に『列仙図賛』(三巻)を刊行しているが、友人の僧大典(梅荘顕常・一七一九~一八○一)がこの著に寄せた序▼2に次のような一節がある。大典は臨済僧で、『列仙図賛』刊行に先立つ安永六年(一七七七)には第百十四世の住持として相国寺に住山していた。伊藤若沖の親しい知友であったことはよく知られる。月僊の住する伊勢山田の寂照寺を訪れ、新造なった経蔵に扁額を揮亳するなど月僊とも親しい交わりを重ねていた。


月僊上人、修道の暇、絵事を好み、興到れば則ち山水草木人を之れ物に与す。皆一毛端に之を発す。又詩を好み、毎に余の詩を説くを聞く也、則ち幽遠雅逸之思、典麗風流の致、詩の声なる所、以て諸を色に発せしめ、遺すこと無し。故に上人の画は、其れ人の画に異なり。間者、列仙の伝を読み、其の故図を換へ、出すに新意を以てし、二に其の状態を描し、且つ冠するに短言を以てす。亦た修道の遊戯と云ふ。 (原漢文)


“新意”と用語こそ変わるが、竹田のいう“新意”がかならずしも竹田ひとりの個人的見解ではなかったことをこの一節は証明している。


月僊自身はこの冊子を“修道の遊戯”の産物として刊行したと称していたようだが、大典の見るところでは、そこにあらわされた神仙の図様は故図にない特異なもので、もっぱら“新意”によって描かれ、月僊の独創溢れるものであったという。


『列仙図賛』は、三巻三冊にわたって一丁毎に神仙を描く。ここでも“新意”という評言が、神仙という人物画の領域に対して与えられていることは留意しておかなければならないだろう。


では、この“新意”と呼ばれる独創的表現とはいかなるものであろうか。


『列仙図賛』のなかの一丁(図1)を例にとると、大典も記すように、一丁に神仙を描きその上部に賛文を加えたものが一具となっているが、図は抑揚のない鉄線風の刻線で非常に卑俗化された像容を示している。一方、月僊通有の人物表現(図2「寒山拾得図」)と比較すると、像容の素描的把握など共通点を指摘することは易しい。


像容におけるこのような共通点は、大典のいう「人の画に異な」って“新意”をもって描いた『列仙図賛』の画風と竹田の指摘する“新裁”による人物画の画風とが、メディアの枠を越えて共有する月僊固有の指摘する“新裁”による人物画の画風とが、メディアの枠を越えて共有する月僊固有の様式である、ということをあきらかにしてくれる。


『列仙図賛』が刊行されたのは前述のように安永九年(一七八〇)のことで、安永四年(一七七五)三十四歳の年に京都から伊勢に転任して五年目のことであった。『列仙図賛』に大典が月僊の固有様式の誕生を認めているとしたら、竹田のいう“新裁”画風の形成時期もその前後に置かなければならない。安永九年(一七八〇)前後は、だから、月僊にとって、画風展開における様式形成のひとつの劃期として重要な意味をもっているのである。


ところで、三重県立美術館には松阪市の旧家小津茂右衛門家から寄贈を受けた六十三点に上る月僊の作品が収められている。小津家の収集した月僊コレクションの存在は、昭和二年(一九二七)に恩賜京都博物館で展観が行なわれるなどして、早くから知られていた。年紀をもつ月僊の作品はきわめて少なく、それが作品の編年や画風変遷を試みる際に大きな障壁となっているが、同コレクションには年紀の明確な作品が四点ほど含まれ、主題も豊富なヴァリエーションをもつなど、月僊の画跡の多様性と系統性をあきらかにするうえで、示唆に富む内容をもっている。


それらの大部分は様式の点で月僊固有の様式の範疇に虫さまるものであるが、なかに何点かそうしたに埓内におさまらない、月僊の作品としては特異な画風をもつものが含まれていることが注意を引く。それらはいずれも、様式形成期後の画域の振幅と見るより、多様な先行作品を摂取し消化しつつある様式形成期における座標とみたほうが適切であるように思われる。その理由については、諭中で次第に明らかになっていくと思うが、コレクションに収められたものを中心に、様式的基準の埓外におかれる特異な画風の人物画を取り上げることによって、月僊の画人としての素養の幅、あるいはそれらが画風形成とどのように関わったか、といった問題を考察するのが本稿の課題である。


▼1 日本古典文学大系『近世随想集』所収本を使用。


▼2 『北禅文草』巻一に「列仙図序」として再収。『北禅文草』には、このほか、月僊にかかわるものとして、「寂照寺新造栖神堂雲嶂楼記」(第三)の二篇が収められている。



(図1)月僊 列仙図賛



(図2)月僊 寒山拾得図



月僊は伊勢山田の寂照寺の住持を務め文化六年(一八〇九)入寂したが、その翌年に顕彰碑が建立された。弟子の定仙によって撰された銘文『寂照寺八世月仙上人碑銘』は月僊の履歴に関する基礎資料を提供している。そこでまず、この銘文を中心とし、その他の資料によって補完しっつ、月僊の履歴のアウトラインを描いておくことにしたい。 月僊は一七四一年(寛保元年)に名古屋に生まれた。俗姓は丹家氏、商家で、一説には父は味噌商を営んでいたという。▼3七歳の年に得度し、玄瑞の名を与えられる。十代で江戸の芝増上寺に入り、▼4定月大僧正から月僊の号を賜った。修行のかたわら、桜井雪館(山興)に就いて画技を学んだといわれる。▼5


桜井雪館は水戸の出身で、祖父および父とともに絵師で藩主徳川光國が長門雲谷寺から招いた雲谷派の画人甫雪等禅について学んだという。▼6雪館の直接の師は等禅ではなかったが、雪舟様の画を巧みに描き、江戸に出て雪舟十二代画裔を自称したという。▼7雪舟を慕いさらに宋元明画の筆意筆法を遵法する、伝統回帰を強く志向した画家で、そのもとには二百人を越える門弟が集まるという盛況をみせた。▼8雪館と月僊の師弟閑係については諸書にみられるが、『無名翁随筆』『近世逸人画史』『古今諸家人物志』などは、月僊を僧鷺山らとともに有力な高弟のひとりに挙げている。また、『古画備考』(十一、釈門 四〇二僧月僊)は「(月僊は)其此(明和から安永にかけて雪館が盛行していた当時)は専ら随身して、画を学ばれし時也し、」という谷文晁の目撃談を掲げている。▼9「専ら随身」するという如才ない態度に文晁は決して好意的ではないが、月僊の思い入れの強さと師風を掴み取ろうする熱意は汲み取らなければならない。


月僊の雪館との関係を作品の上であきらかに示すのは、雪館の『画則』(五巻)である。この画論は、雪館が安永元年(一七七二)に著わし、娘で父を継いだ雪保が筆録して安永五年(一七七六)に刊行されたが、その末巻にあたる第五巻に、二百人に及ぶ門弟のなかから「其人ノ意ニ応ジ己ガ画才ヲ発シ其気象ヲアラハシ風骨オノオノ異ナ」▼10る高弟や娘雪保の画三十六点を選んで付載している。その中に月僊の作も「西王母」「錘離権」の二図が採録されている。


また、雪館は月僊の『列仙図賛』に序を寄せた大典と交友が厚く、▼11雪館の墓碑銘『山興居士墓銘』もほかならぬ大典の撰である。月僊と大典との親しい交わりも、発端はおそらく雪館に遡るのであろう。


江戸で徐々に名声が上がりつつあったにもかかわらず、やがて月僊は江戸を離れ京都に転住する。『寂照寺八世月仙上人碑銘』は「師(月僊)喜任性自適、子以為意、遂去遊京師」と記すのみで、諸書にもその間の事情を明らかにするものはない。


転住の年次もあきらかではないが、『古今諸家人物志』▼12は、「東都芝山」すなわち増上寺に住する雪館の門人として月僊の名を挙げていて、おそくとも同書が刊行された明和六年(一七六九)までは江戸にいたとみて間違いない。


『寂照寺八世月仙上人碑銘』によると、京都では小松谷にしばらく居を構え、ここから知恩院の壇誉貞現大僧正のもとにしばしば通っていたらしい。その後同院の役僧となり、安永三年(一七七四)三十四歳の年に壇誉の命で知恩院末の伊勢山田寂照寺に第八世の住持として遣わされることになった。


寂照寺は古市という歓楽街に近く、そのため破戒僧がつづき、当時衰微を極めていたという。月僊派遣の目的は同寺の再興にあったといわれるが、月僊もそれに応え、画料を寂照寺の復興や貧民救済に費やすなどした。


ところで、『続諸家人物志』や『続近世叢語』などの諸書は、京都時代、月僊が円山応挙に師事したという説を掲げている。この説に対しては、月僊自身はなにも語らないし、積極的に支援する同時代資料にも欠けるが、すでに指摘されているように実作品たとえば「狗子図」(神宮徴古館蔵が応挙風であること、また月僊の描く樹木にかなり晩年までしばしば応挙様式に則った作品が存在することなど、なんらかの影響関係をうかがわせる材料は存在する。


『画乗要略』は、京都時代の月僊が応挙に師事する一方で、与謝蕪村に私淑することがあったと記している。これも応挙師事説とともに信頼すべき同時代資料を欠く。しかし、山水画の分野に、応挙から借用したモチーフを与謝蕪村風のやわらかい淡彩山水で包みこんだような、写生と南画の折衷のうえに立脚する固有の様式を造ったことや、人物画においても蕪村に紛うような疎荒な表現がみられることから判断して、蕪村画学習の形跡は認めてよい。


▼3 『名古屋市史』学芸編 名古屋市役所 大正四年


▼4 『寂照寺八世月仙上人碑銘』には、‘十有余歳'とある。


▼5 『古画備考』所載の「谷文晁の談」および『古今諸家人物志』(明和六年)参照。


▼6 桜井雪館の墓銘『山興居土墓銘』


▼7 同右


▼8 『古画備考』および『画則』参照。


▼9 中島亮一「了義寺と桜井雪保」『美術史』七七・七八昭和四十五年参照。


▼10 『両則』第五巻小引


▼11 小畠文鼎『大典禅師』・昭和二年同朋舎刊、中島亮一「了義寺と桜井雪保」『美術史』七七・七八参照。


▼12 「桜井山興先生門人、門人(割注)釈月仙/尾州人居東都芝山」



月僊が伊勢に定住する以前-とくに江戸、京都で過ごした期間は、資料的裏付けも乏しく、伊勢転住の年を隙いて明確に劃期を定めることはできないが、十代から三十代の前半を包接する、意欲のある画家なら誰しも習画と画風形成に全精力を注ぐ柔軟で許容量の大きな年代を、月僊はこの二都で過ごしたわけである。雪館あるいは応挙や蕪村やそれだけでなく、遺された作品のうえからみると、さらに広範な先行様式をきわめて柔軟に摂取し、着々と画嚢に採り入れて画風形成の糧としたことがわかる。


寂照寺に移った三十四歳から示寂する六十九歳まで、結果的には三十数年という、それ以前に較べて圧倒的に長い画家生活を伊勢という一地方都市で送ることになったわけであるが、この間、月僊は人物画・山水画を中心に駄作であれ小品であれ描きまくった。特に晩年のものと思われる作品はいたずらに疎荒で、堂宇再建や貧民救済という宗教的名目ゆえの多作と、いくらかに欲目にみても美術的評価をためらわせるようなものが多く、多作が作品の質に深刻な弊害を及ばしていたことは否定できない。


現在知られている月僊の作品の多くは、「寂照主人」(白文方印)に代表される「寂照云々」という寂照寺にかかわる印文をもつ印章を頻繁に使用していることから、この長い時代に亙って濫作されたと考えられる。竹田の月僊評や、月僊様式として定着しているイメージも、この時代の作品によって形成されている。三十数年に及ぶ伊勢時代の作品は、年紀や印章の状態比較などによってある程度の編年が可能となるが、画風からみると、その展開の様子は著しく平坦で、決定的な変転はない。つまり、簡疎な筆墨表現を特徴とする月僊様式は、一旦打ち出されるとその進捗あるいは展開の加速度を急速に落とし、ほぼ固定化された様式が月僊固有の様式として定着したのである。晩年に至るとより一層簡疎さが増すが、これは制作能力・意欲の衰えや竹田の指摘する多作と無縁ではなかろう。おそらく画風上の変化は青年期から壮年期にかけてのある時期に急転回をおこなったのではないかと想像されるが、そうした意味で『列仙図賛』の新奇な画風に対して大典の指摘した“新意”は三十歳代後半における月僊の劇的な画風転換を象徴す言葉として重要な価値をもっている。


では、この劇的変換によって様式を成立させる以前の画風とはいったいどのようなものであったのだろうか。


前述のように、月僊の作品には年紀を有するものが非常に少ない。そうしたなかで、明確な年紀をもつもっと早い年次の作品は、岡崎市昌光律寺の所蔵する「寒山図」(図3)▼13と三重県立美術館小津茂右衛門コレクションに収められている「西王母図」(図4)の二点で、ともに明和七年(一七七〇)の款記をもつ。この年月僊は三十歳で、江戸から京都に転住する前後に制作の時期を充てることができる。


「西王母図」は、昭和二年(一九二七)の恩賜京都博物館の展観に出品されており、同展をもとに纏められた図録『月僊画譜』にも掲載されたので、その存在ははやくから知られていた。「明和庚寅夏月仙写」、「玄瑞字玉成」(白文方印)という落款および印章が認められる。


ここに月僊が示した画風が、いわゆる月僊様式とは大幅に異なることは一見してあきらかであろう。


西王母は、擦筆見の乾いた墨でやわらかく皴の捌かれた岩に寄り掛かった姿で描かれている。左手には象徴物である仙桃をもつ。衣紋線や桃の葉脈などには比較的打ち込みの強い墨線が用いられている。いくぶん掠れた、決して流麗とはいえない朴訥な線は、後年の作品にも通じる月僊独特の筆癖である。


しかし、細部にのぞく筆癖を別にすると、後年の月僊様式の作品とは異なる表現が目立つ。まず、比較的強い色彩表現。後年の月僊は、作品を手早く仕上げる必要に迫られたためか、色彩を惜しむ傾向が強くなるが、この作品では唇に朱を点じ、衣の胴部に絞り風の文様を赤で描き、衿飾りと衣裾には胡粉で装飾を加えるなど、賦彩に細かく神経を配っている。


色彩表現だけでなく、モチーフにおける相違も大きい。月僊の人物画は、疎荒な、固有化の著しく進んだ特異な像容をもっていた。それに対してこの「西王母図」では、そうした固有様式化がまだ現われていない。おそらく淵源は明画など中国から輸入された宮廷女性図いわゆる仕女図になどに遡ることができるのではないかとおもわれるが、瓜実顔に秀でた額、離れた細い眉、細いつり上がった目、小さな口などでかたち造られる特異な顔貌はたしかに明画の美人図の典型に通じる。


師桜井雪館の『画則』に月僊も選ばれて二点の画を寄せていることはすでに触れたが、そのうちの一点は西王母を描いたもの(図5)で、主題だけではなく像容もこの「西王母図」に通じるものがある。


肉筆と版本というようにメディアに決定的な相違があるので安易な画風比較は控えるべきだが、雪館自身も『画則』の第二巻において同じような中国美人図を載録しているところをみると、このような明画風美人図は雪館およびその門下の扱う重要な題材のひとつになっていたようである。


『増補日本南画史』(梅沢和軒)には、豊後竹田の画人で田能村竹田の師であった渡辺蓬島(一七五三~一八三五)が「蘇門鸞粛図」なる画を手に入れ、明画と思いこんで江戸に送って鑑定を依頼したところ、実は恢応という江戸の画人の作品であった、という逸話が採録されている。恢応は江戸仏心院(増上寺の別院)の僧で雪館の高弟のひとりである。月僊とも知友であったが、このように、明画とみまがい誤らせるほどの中国趣味が雪館一門を覆っていたことをこの逸話はものがたる。月僊もおそらく例に漏れなかったはずである。「西王母図」は、月僊を取り巻くこうした絵画環境のなかから生まれた作品だったのである。


ところで、月僊は、この「西王母図」の落款には″月僊″ではなく、″月仙"という号を用いている。月僊はこの″月仙″のほかに、増上寺で法主より与えられた″月●"、″月●"そして″月僊″と、″セン″に四種の文字を使っている。このうち、″月●″は主として印文に用いられているが、落款に頻用された″月●″をはじめとする他の三種は制作年代の区分に対応するものとしてはやくから注目されていた。江戸在住時代の作品に″月仙″あるいは″月●"が、京都時代には″月僊″が、伊勢に移ってからは″月●″が使用されたという対応関係があるというのである。▼14有年紀作品が極端に少ないため編年の難しい月僊作品の場合、このような便宜的な年次区分が鵜呑みにされてきたことはある意味では致し方のないことかもしれない。しかし年次が落款によってこれほど截然と図式的に区分されるわけではないことは、たとえば「東方朔図」(図6)の落款印章(図7)を検討すればたちどころにあきらかになる。落款には京都時代に使用したといわれる「月僊」を使用しているにもかかわらず、印章に伊勢寂照寺に移ってはじめて使用したはずの「寂照主人」を併用する、という食い違いが生じているからである。


だが、この説もまったくの憶説というわけではない。たとえば伊勢時代に使用したという″月●″の落款は、その説を裏付けるように、三十年におよぶこの時代、絵画作品に限ればほとんどの作品に使用されている。▼15


書や書簡に関していうと晩年にいたるまで″月仙″を使用しているが、絵画作品の場合、様式形成が終ってから後の作品に使用したことを示す現存例はいまのところみあたらない。一方、有年紀作品としては現存する最若年の制作になる「西王母図」(明和七年・一七七〇年)は、江戸から京都に移る前後の若年期に″月仙″を使用していた例証として貴重な指標になる。また伊勢に転住してから制作した「唐人遊戯図」(安永五年・一七七六、神宮徴古館蔵)は伊勢時代に″月仙″落款を使用したことがあきらかな作品としては唯一の現存例である。このふたつの作品を指標にとると、″月仙″が、すくなくとも巷間いわれているより若干広く、若年期、おそらくは江戸在住のころから伊勢に移ってまもなくのころまでは使用された可能性を認めても、妥当性を欠くことはない。


″月仙″ の落款をもつ作品同様、″月僊″落款をもつ作品も遺例は多くはない。小津茂右衛門コレクションの「東方朔図」(図6)は、稀な遺例のひとつである。巷説では「月僊」落款は京都在住時代に使用されたものとされていたが、前述のように、「寂照主人」(白文方印)と併用されていることからみて、もちろんこの説は退けられるべきだろう。「寂照主人」(白文方印)は「月僊」(朱文方印)としばしば併用される印章で、伊勢に移ってから新刻されたものと思われる。伊勢時代、ほとんど晩年まで長期間に亙って使用したことが確認できる印章であるが、よほど頻繁に使用したのであろう、経年変化の著しい印章で、晩年になると磨耗が激しくなりやがて郭線も欠失した。だから、この二顆の状態の比較検討は、伊勢時代の作品の編年に有効な手段となる。では、「東方朔図」の場合はどうであろうか。この作品にも「寂照主人」(白文方印)と「月僊」(朱文方印)も二顆が捺されている(図7)が、ともに欠失のきわめて少ない完好な状態にある。したがって、真新しい二顆の捺された「東方朔図」は、月僊の伊勢時代の作品のなかでもとりわけ早期に描かれたものということになる。


この作品の制作年次を推定するうえで、月僊が安永九年(一七八〇)に刊行した『列仙図賛』の奥書に版刻された二顆の同印(図8)は参考になる。二顆はどちらも欠損がいくらか現れはじめた段階を示しているが、これは「東方朔図」と『列仙図賛』とのあいだの年次的な前後関係を暗示しているとみなしてよいだろう。すなわち、「東方朔図」は、月僊の様式形成にある劃期をもたらしたと思われる『列仙図賛』に先だって、伊勢において描かれた作品と結論づけられる。とすれば、制作年はおのずと安永四年から九年のあいだに設定することが可能となろう。


この図の主題は、西王母の仙桃を盗んで食い齢八百歳を得たという東方朔である。東方朔は、いままさに桃を盗み取ろうと忍び足で歩み寄り、翼々とした眼付きで周辺を窺っている。東方朔の面貌一面には対赭色に塗布し、同系の濃色を重ねて陰影表現らしきものが試みられている。月僊が摂取した先行絵画を問題にするとき洋風画との関係があげられることがあるが、こうした作例の存在は、この問題について考慮を促す材料に加えることがてきるかもしれない。


様式成立後の素描的な人物表現と異なって、この時期の月僊が人物画における写実表現そのものにもすくなからぬ関心を抱いていたことをこの作品は示している。しかし、写実表現に対する関心は、人物だけに限られるものではなかったらしい。東方朔が懐中に匿そうとしている桃の実や桃の折枝はあきらかに南蘋派の影響が看取されるからである。それらはすでに南蘋様式を月僊流に斟酌した粗い表現に変じられているが、それでも若い月僊が南蘋派の写実表現にも無閑心ではなかったことを知るには十分である。


この作品を描くにあたって月僊が人物や花卉におこなった稠密な表現は、月僊の伊勢時代の多数の作品のなかでもきわだって特異な画風といわなければならない。伊勢時代のごく初期に登場したこの作品のみがこうした特徴をそなえ、しかものちの作品からは失われていくという事実は、月僊の画域の振幅とみなすよりも、様式形成が進む過程で月僊が結局は捨て去った一過的な画風であったと考えるほうが、もちろん適切であろう。


一方、「松蔭読書図」(図9・小津茂右衛門コレクション)と題された作品の主人物にも「東方朔図」同様、月僊様式特有の簡疎な素描的人物表現とははっきり異なった写実的顔貌描写が認められる。


肌の地色を塗彩した上に目の周囲には濃い同系色で隈取りを重ね、鼻の側面には同様に濃い同系色を重ね塗る。おそらく立体感の表出を狙ったものであろう。髪や髭は、淡墨をべた塗りしたあと濃墨の細線で毛描く。眉は濃墨の細かい線で毛描きがおこなわれ、頭髪も淡墨を塗布したうえに腰の強い細かい墨線で毛描きがおこなわれる。こうした非常に丁寧な質感表現はのちの典型的月僊様式の人物からは痕跡らしいものさえもうかがえなくなる。


このように主人物は面貌の徹細な表現に顕著な特徴を与えられているわけであるが、もうひとつ看過できない特徴が、この作品には認められる。それは、人物を観賞者と正対するように正面向きの像として描いている点である。陰影法や短縮法の発達しなかった東洋画の場合、正画像表現は技術的に困難がともなうこともあるため、対看して礼拝することが要求される仏像など宗教的礼拝像を除くと、肖像画などを含めた人物画の分野に適用されることは伝統のなかでは希であった。


しかし、江戸時代になって日本に持ち渡らされた中国の明代末期の肖像画や黄檗宗の頂相(黄檗画像)などは、陰影法など西洋画の表現技術を採り入れ、対看写照による顔貌表現の可能性を一気に拡大した。そうして描き出されたこれら中国の人物画を他と分ける特異性が、この正面性であった。明画に鋭敏なアンテナを張っていた雪館門下の画家であってみれば、月僊がこのような新来の様式に飛びついたとしても不思議はない。


「柳陰仙子図」(図10)は同じように正面性を特徴とする作品であるが、この、様式形成後に制作されたに違いない作品と顔貌表現と比較してみると、「松蔭読書図」に施した月僊の正面表現の入念さが一層あきらかになるだろう。「柳陰仙子図」には、「東方朔図」や『列仙図賛』にも使用し、伊勢時代に月僊が頻用した二顆の印章が捺されているが、その磨耗状況から推定して『列仙図賛』よりも後、つまり様式形成があるていど進行したころに描かれたものと推定できる。「松蔭読書図」より数年あるいはそれ以上経過したころと思われる。「松蔭読書図」にあった写実性は損なわれ、腰のある謹直な筆致に替わって月僊独特の当りの柔らかい筆致が支配的になっている。しかしそれにともなって、受ける印象ははるかに簡疎で平板なものになってしまっていることは否めない。この落差はそのまま、画風形成の前と後の月僊画の本質そのものの変異をものがたる指標でもある。


「松蔭読書図」では、主人物は渓間の辺景で憩い侍童がその傍らでまどろむ。滝を背後にして松の樹の下で読書する文人とその侍童、という主題は南画そのものであるが、この風景を構成するいくつかのモチーフのうち、たとえば松の樹幹の表現などには応挙の写生的な樹様表現の典型を当りの柔らかい筆遣いで変容した形跡がみられ、師風を月僊なりに咀嚼しつつある過程が示される。一方ではこの作品はいまだ過渡的な姿を留めてはいるが、他方、南画と写生画を渾然と溶き合わせていった結果成立する月僊様式の、初発的な姿もこの作品にはすでに示されていることは指摘しておかなければならない。



月僊が江戸で画技を学んだのは、すでに記したように、宝暦年間から明和末永初年頃までであったと考えられるが、上方に較べて絵画活動で後発地に甘んじていた江戸でも、このころからようやく江戸独自の絵画環境を整えようとするさまざまな活動が開始されはじめた。土佐出身の中山高陽(一七一七~八○)が南画の芽を植え、長崎で南蘋派を会得した宋紫石(一七一五~一七八六)がこの最新の写生画風を移植しはじめたのもこのころである。月僊の師桜井雪館の活動もこの新しい動向に時宜をあわせる一生面であった。


十八世紀半ばから江戸に現われた多様な様式は文晁によって統合がはかられ、上方にはみられない江戸画壇固有の特質となった。それは多分に、精力的で多才な、文晁自身の豊かな個人的資質に負っていたが、このような異種統合の方向性を理論の上で最初に示唆したのは中山高陽であった。高陽の著わした画論『画譚鶏肋』の「大人、至士は一家に拘らず、広く諸名家の長ぜる所を合せ見て集めて、自ら家を成せり。一家のみ守り学びては、縦え其の師の画に似ても皆病なりと云へり」という箇所はしばしば引用される一部であるが、ここで高陽は、一家の法を墨守する狩野派への批判を行いつつ、在野の画家に狩野派に括抗するための方途を示している。それは「広く諸名家の長ぜる所を合せて集め」る、諸派折衷の姿勢である。狩野派の純粋培養に対するには雑種性の強靱さを涵養することが必要だというのが高陽の主張であるが、高陽が在野画人に求めたこうした姿勢をもっともあざやかに具現したのが、文晁であった。


しかし、様式形成以前の月僊作品を具さにみると、さまざまな先行絵画に鋭敏に感応し、それを貪欲に自分の画嚢に取り込もうとする意欲的な画人の姿が浮かんでくる。人物をはじめ花卉の形態に対する関心とその写実的表現、中国あるいは西洋から移入された最新の絵画に対する関心とそれを積極的に摂取する姿勢である。京都に転住した月僊は、応挙や蕪村を学び、江戸で蓄積した画嚢をさらに豊かで多彩なものに膨らませた。月僊の関心は、しかし、それらを個々に取り扱うだけにとどまらなかった。さまざまな由来を持つ様式を折衷し、月僊なりに画面内に総合していこうとする姿勢とその成果を、作品は示している。こうした諸派折衷の姿勢は月僊においてははやくも明和から安永年間にかけて現われた。後の谷文晁の統合的な絵画制作に対する前派的様相がここにみられるのである。





(図3)月僊 寒山図


▼13 『新編岡崎市史』美術工芸十七・昭和五十九年参照。なお、この作品と宋紫石の同画題の作品(左図あるいは『宋紫石画集』宋紫石顕彰会昭和六十一年 図二五)は、象容に著しい類似が認められる。この図は明和七年に宋紫石が刊行した『古今画藪』にも載せられている。月僊は、この画譜を粉本として参照したのか、あるいは共通の原典が求められるのか、現在のところ明らかにされない。



(図4)月僊 西王母図



(図5)月僊 西王母図(『画則』所載)



(図6)月僊 東方朔図



(図7)月僊 「東方朔図」落款印章


▼14 浅野松洞『三重先賢伝』昭和六年


▼15 小津茂右衛門コレクションには最晩年の一八〇八年(文化三年)の年紀のある作品「蘭亭曲水図」が収められているが、「月僊」という印文をもつ印章が併用されている。この「月僊」印は、伊勢時代のある時期から月僊が愛用した印章とみられ、多用と経年によって劣化の激しかった印章で、「蘭亭曲水図」のころには郭線が欠損するほど摩滅が進行していた。印章に関しては先の三種の号とはまた異なる「月僊」が生涯にわたって使われているが、「月僊」の印章の併用は伊勢時代を通しておこなわれ、その使用例は、この多作時代のおおくの作品にみとめることができる。ちなみに「月僊」の印章は現在も寂照寺に遺存している。



(図8)月僊 『列仙図賛』落款印章



(図9)月僊 松蔭読書図



(図10)月僊 柳蔭仙子図



(参考図)宋紫石 東方朔図


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