須田国太郎と「動かざる色」
東 俊郎
一、 須田国太郎が昭和三十四年(一九五九)の第二十七回独立美術展に出品した『鉱山』は、須田の作風になじみはじめた人にかるい衝撃をあたえかねない作品である。作品へ感情としてはいってゆこうとしてもなかなか入口がみえない晦渋さ、すきのなさ、呼吸するための気孔がほとんどとじられていて画面とともに生きることがむずかしい得体のしれなさが常態の彼の絵のなかでは、これはすっかりひらいた気孔から彼の吐息がきこえてくるかと錯覚さえするのだ。未完成の作品だということはあるにしても。▼1 なんといっても彼の作品は、それを実際にみている数刻はともかく、あとになって思いだそうとすると、黒と赤(というより、にぷい闇と朱色といったほうが印象としてちかい)ときには緑青のような緑だけが記憶のなかに繁殖しでいて、そのほかの色彩が画面にけっしてなくはなかった「明るさ」もろともに消磁されつくして、どうしてもおもいだせないところに独自な点があるのだが、こういう傾向は晩年にいたるにつれてややよわまってはいる。たとえば『真名鶴』(一九五三年)は、鮮やかに澄んだ色彩によって、全体の印象が明るくかるいものとなっているのは確かだろう。須田自身ある機会に、『真名鶴』を解説し、 個々の明暗の色調は殆ど失われてきた。全体的に云って明暗の世界ということでなしに、少々以前の作品より明るくなってきたように思われる。▼2 と語ってはいたのだ。『鉱山』の・窒ニ緑と赤の絵の具をそのままこすりつけたような原色の山肌もその意味では晩年の傾向から予測できないことはないとはいえ、しかしその筆触にうきでている爪跡も生々しい荒ぶる感情の動きが、いくら色が明るくなっても遠心力より奥行きへのひっぱりこむ力が圧倒する須田作品にあって、唯一の例外といった具合に、こちらへむかってくる力の放射を感じさせるのだ。みせることを禁止していたなにかがそこにあるのじゃないかとその「意味」をさぐりたくならさせるほどのはげしい「表現」の世界。そしてこの作品だけが一個の例外ではないので、おそらく沈鬱な静けさに凝固したかに見える須田の画面のほとんどすべては、どんな時期のものにもせよ、この熱い溶岩のうえに展開されていて、みえる人にはみえる不透明でいりくんだ仕掛けになっているのだから。 また須田の作品は、その学究的な制作しかたや態度或は知的な構成にもかかわらず、めざす方向からはけっして古典的でないといつていい。たとえば、『写実主義の存在理由』のなかで造形藝術の二大潮流が古典主義と写実主義である(この区別にも須田の独自性があらわれているとみえるが)といったとき、「象徴的な理想化やまたは一の定型をもつ」▼3古典性でなくて、写実主義のほうを須田が志向していたことは文意に即してあきらかだということがその傍証になる。この諭考において彼はじつに屈折した論理で、「写実」という言葉を「表現」という言葉とむすびつけようとしている。すくなくとも、そうばくにはみえるのだ。これは『為にする藝術』(一九四一)で藝術の根本は「藝術的な表現力」以外にはないという発言に発展するのだし、Cubismに対立、並行する二十世紀初頭の前衛思想であるFauvismへむけた須田の好意的な姿勢の背景にもなっている。 これ(注 小林和作を評して、「赤裸の姿が出てくる」といい、また「無心の小児の画の天真さと似通っている」といった須田の批評を指す)を私は真のフォーヴの状態であると云いたい。フォーヴの運動は要するにこれを目ざしているのだ。意識してやっている。然しフォーヴの理想は、本当の画家ならば、その後年には自ずからあらわれてくるべき現象だ。レンブラント、ゴヤは云うに及ばず、近くはセザンヌ、ルノワール、我が鉄斎、フォーヴの宗たるマチスも、いよいよそのフォーヴに徹して来たかのようである。▼4 「フォーヴの理想は、本当の画家ならば、その後年には自ずからあらわれてくるべき現象」だと須田が信じていたことと、『鉱山』ただ、これはそれまでの須田になにかが付加されて須田が須田になった作品というより、むしろそれまであった緊張感や意欲の衰弱不在によってめだつのだが、それ)の印象とは、ばくの内部で同型となり、彼の世界が断片から全体へむかう最初の渦動に火が点じられ、そしてそのとき晦渋きわまりない存在である須田の厚い果肉の壁を依然へだてつつ、その複雑な世界の構造の理解というよりも、もうすこし彼の身体性にちかいなにかに触れはじめる予感につつまれる。 |
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二、 須田の作品についてその影響関係と系列をかたるとすれば、スペイン留学という特異な経験をふまえて、まずエル・グレコなどのスペインや油絵発祥のフランドルの画家、そしてティツィアーノ、ティントレットをはじめとするヴェネチア派を中核とした、要するに「バロック」的な性格を濃く帯びた作品ということになるだろうが、ここで隠し味的な存在としてのセザンヌをおとすわけにはいかない。このセザンヌが終生さまざまな「問題」で須田を触発しつづけたことは、もっと注目していい。 具体例でいえば、一九三五年作の『水浴』。これは絶対セザンヌの同名作品なしにはありえない、ただ色彩が須田である(暗い堂内の夜になると動きだす五百羅漢を想起させる底の)作品であり、またそれほど端的でないけれど、須田の作品系列のなかでもたったひとつ他からはなれて自足する一九三八年作『修理師』も多分そうだとぼくは推測する。なぜなら、この『修理師』の構図はその肩の、というよりさらに正確には等号でむすぶべき、その肩である弓形一箇のために統合され、この湾曲がまっさきに無地のキャンヴァスに描かれ、残余はすべて、この弓形とのたえざる有機的連関において、位置と運動を定義づけられたという印象がながくのこるのだが、これは、 本源的な個体が一つの頂点の下に統一される事は、セザンヌの個体への、またその構成への面や、面と面との境界への見方にあらわれる視覚的傾向が顕著となってくるのは止むを得ないところである。彼の表現にあらわれる変形、ことに垂直が左上から右下への傾斜をもつ傾き、弧線の立つことなど著しい例であって・・・▼5 という文章と遠く、そして「弧線の立つこと」とは直接的に照応する、と強引にいいきりたい誘惑をおぼえるのだ。また、この『セザンヌの美学』とほとんど同時(一九三九年)にもうひとつのセザンヌ論、『セザンヌと自然』がかかれたということは、この時期の須田がいつになくセザンヌに傾倒していたことを窺わせる傍証とならないだろうか。ついでにいえば、前景と後景とが、それをづなぐものなしに断続しつつ、同一画面を構成するいくつかの須田作品(たとえば、『蔬菜』『戸外静物』や『鵜』など)も、セザンヌの静物画とか『ギュスターヴ・ジュフロワの肖像』にしめされる複数の視点と、その統一という課題に触発され、そのおなじ問題を解いてみようとした試みでないだろうか。あくまで推測の域をでないけれども、そうおもわせる一種の手掛かりが、須田の書いたものに散見していることに、気づかないわけにいかない。 須田の書いた文章のなかで、セザンヌの名に触れているものは数多く、▼6それを列挙してゆけば、彼のセザンヌ理解が、きわめて整然と展開していったその絵画理論の、たどりつくべき到達点としてとらえる人がいてもおかしくはないし、勿論この視点から、須田におけるセザンヌの重要性は結果的に疑いなく証明されるかとおもうが、須田のセザンヌへの傾斜は生涯の後半生にかたよるわけではなく、たとえばここに須田の画家志望の真の出発点となったともいうべき記念的な論文、京都大学美学科の卒業論文である『写実主義』があり、そこにセザンヌの書簡からの引用があることは、夙に始まっていたセザンヌへの関心のたしかな物的証拠となるだろう。 一九一六年の須田によって、「自然の外見に止らず、そのエッセンスに突入」▼7して自然に対する新しい見方を提示したとされるセザンヌは、一九三九年になっても、依然、 彼らは自然から彼の見る自然を実現することに一生をかけました。それは彼の創見を造り上げ、自然の見方に一つの新しき分野を開拓したものでありました。▼8 といわれるばかりでなく、さらに「セザンヌの偉業が自然に対してなされたことは、藝術が自然と何等かの交渉を断たない限り不朽であります。」▼9といっそう称揚されるにいたる。 もっともこれだけでは、セザンヌを手のとどかない半神のごとき巨匠としてではなくて、絵画の世界をきりひらく同行者の身近さで須田が感じていた、その側面がみえにくくなるおそれがある。そうはいってもこれは不逞な自信、自己の技量と頭脳に対する過信というものではもちろんない。すぐれた仕事に対して学ぶに躊躇すべきでないし、それをけっして摸倣に終わらせないすべを知っている人の謙虚な「独立」▼10心というべきだろう。 セザンヌ以上に発展せしめるということは、このセザンヌに満足せぬものがなければならないのである。そういったものは単なる模倣者の持ち合わせてはいないところだ。セザンヌに満足しないということは、セザンヌがやってもなお、十分でないところを見出すからである。この十分でないというのが、セザンヌのやってきた道を知らなければ能わぬのである。▼11 かんでふくめるように語っている相手は誰よりまず当の自分なのであり、このときセザンヌでありつつセザンヌは消える。そうであれば、ひらかれた展望が可能な普遍の場所へとぼくらもまた須田とともにでてゆけよう。それはどこか。「セザンヌの諧調は色彩によって物象の個体的構成を、光りの作用に依り、その調子の度に従って表現するものなのである。」▼12と語られるときに合意されている「明暗と色彩の関係」▼13の追求であると、ひとまずいっておくことにする。 |
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三、 明暗については論じられても、色彩そのもののできばえを語られることはまずない、それが須田の作品が批評されるときのいわば常套である。油絵だけがもつあの触覚的な、身体的な幸福をさそう色を、いやそもそも色そのものを須田からは感じないという極論もあるくらいだし、事実そういわれるのが妥当な作品はあることはある。須田がふつうの意味のコロリストでないことはいうまでもないとしても、たとえば『法観寺塔姿』(一九三二年)の画面中央、塔の四層五層あたりに斑点となっている朱色の(平安仏画でいうと、法華寺の阿弥陀三尊来迎図の、典雅ななまめかしさをもった阿弥陀の唇をおもいださせる)艶冶は、沈鬱な色調のなかから、しだい次第にうきだしてくるし、『卓上静物』(一九四〇年)や『戸外静物』(一九四一年)、そして『真名鶴』のコバルト青と燕脂、『窪八幡』(一九五五年)の赤、さらに『犬』(一九五〇年)のとか『蔬菜』(一九三二年)などには、反転された負として、しかし正(を仮定したとして)のそれとひとしい強度で現成する色彩をかんじないことは難しい。そこに、観念の度合がすすめばすすむほど逆に肉体性をおびて空中にかがやきだしてくる、ルドンの場合とよく似た現象をあるいは想定してよいのかもしれない。そうでなくても、画家の精神の運動をただちに追跡するには鈍重すぎるが、いったん底に沈め物質感と練りあわせたところに輝きだすところにうまれる、油絵特有の堅固な色彩は須田に十分ある。 そういう印象からいっても、須田作品にあるのは明暗であって色彩ではないというような結論にいたる意見は、じつは浅薄かつ不当だとぼくはかんがえている。明暗か色彩かではなくて、色が光を呑みこみ吐きだすときの干満の変化が明暗なので、さきに引用したことばをつかえば「明暗と色彩の関係」こそ須田が終生模索し、認識したかぎりのものは表現しようとした絵画の本質であるのだから。 てはじめに、須田の「バロッコ」愛好の理由をたずねてもよい。彼がルネサンス藝術をヨーロッパ美術史上の画期と、そして「バロッコ藝術が往々にしてルネサンス藝術のデカタンスに陥ったもの、形式固定の所謂マンネリズム藝術と見倣される」▼14ことをみとめながら、しかしバロックに親炙するのは、単に体質的な志向からだけではない。絵画探求の目的ともいえる写実のもんだいに深くかかわるからなのだ。 バロッコ藝術がレアリスムをその源流としていると云えば驚くものがあるかもしれない。然し、バロッコ藝術とレアリスムとは決して相背馳するものではない。▼15 レアリスムとしてのバロック藝術。就中、色彩の真実にかんしてルネサンスの絵画は、須田のみるところ、バロックのそれより不完全不十分なのであった。ルネサンス絵画の色彩が美しくないわけではないのだが、その美しさとは、幾何学的遠近法による空間概念がそうであったように、画面へ垂直にぶつかる無数箇の光源による、不変かつ均質な自然光とでもいった抽象的な仮設を基礎とした色彩によるので、▼16明暗の観点からみれば、依然、現実の「ある限定されたる光の下に放ける色を表そうとする態度」▼17からはとおい。明暗のしなやかに変化する諧調が欠け、したがってそれによる画面の統一がなされていないというわけなのだ。 いいかえれば、明暗表現をさまたげているルネサンス的色彩の特徴とは一般に、 ところに求められると語って、ローカル・カラー即ち固有色がルネサンスの明暗/レアリスム阻害のもっとも大きな要因として、須田はさらにこの問題をティツィアーノを例に展開している。それにふれる箇所のながさを厭わず引用すれば、 赤なら赤そのものを、色彩のあらゆる技法を以て絵具の最大限度の能力を発揮せしめたのであった。それには光線の色彩への関係は究わめ尽されている。彼の使用した重層法による透明色の活用などは、正にその成果である。聖母の なによりもここで大観しておきたいのは、外界を刻々にながれている時間とともに絵画へ〈写実〉する技法としての明暗が正の価値であるのに対して、固有色がそれと逆のもの、負の価値として位置づけられているという点だ。それは、絵具という物質に内在する輝きを画家たちによってひきだされ、或いはさらに、画家たちへの才能にしたがいつつ物質から蝉脱する、そういう色彩だとしても、外界との関係へとひらいてゆかずに、むしろ求心的に閉じようとする底の色彩なのだ。外界との対応をうしなうことが、かえって色彩の孤立につうずるといいたげな現代絵画の視点は須田にないので、彼にとって色彩はなにより外界の象徴としての光の関数であった。光から自由になった、物象化して固形となるプロセスの果ての色彩─それが須田の思考の極北の固有色だといってよい。いきいきした運動感にみちた世界をそこ、固有色のルネサンスに発見できないのが須田なのだ。 すくなくともバロッコ時代に入ってはじめて色を真の明暗の深き諧調のうちに表さんとしたのであって・・・▼20 全体の関連を考えない、細部のうつくしさに自足するのはバロックの写実精神ではない。ルネサンス絵画では、部分だけみればどこにもレアルがあるとしても、統一されたレアルでそれはなくて、それぞれ次元の異なるレアルが相互の「諧調」など無視して同一画面に混合しているというだけという意味で作品は有機体でないけれど、まさにその輪郭を区切って自足する色彩の美のために生に似た輝きがそこに幻像するので、その点、バロック絵画のほうが、全体の色彩上の有機性を、つまりレアリスムを一歩すすめたはずであるとかんがえてゆくのが須田だった。 バロッコ絵画には常に万華鏡的な絢爛さは不必要である。自然なる光の下にみるその儘があらわされる。それは今述べたように不断の変化である。静である情景も実は動である。バロッコ絵画は色彩を失ったという声をきく。しかしそれはローカル・カラーを失った事でありたいバロッコ絵画の色彩は単純だという。それも色彩の統一されてあることを意味さるべきである。 「ローカル・カラーを失った事でありたい。」と須田がかいているのをかるく文字どおりうけとっていい、となれば、須田のバロック理解も当時の日本人の水準はかるく抜くけれど、一面的でそう深さのない頭脳のみでの藝術解釈とさして次元がちがわないことになろう。彼の資質に即してルネサンスを否定しバロックをもちあげただけだ。 しかし、須田の本領が発揮されるのは、ほんとうはこれからなので、これまで引用してきた彼のことばと、たとえば、 只バロッコ絵画の暗部は、その統一を急いで光学的な、科学的な注意が払われるまでには到達していなかった。影は、明部に対してのみ意味をもつものとして取扱われただけである。一つの光線の下にローカル・カラーを統一せんとする傾向は、ル々、ローカル・カラーを軽視することにもなって、明暗の鋭き対比のみに走った。・・・略・・・、ルネサンス絵画の色彩美を失い、却って単純色に還元されて行った。▼22 という箇所の、固有色=ローカル・カラーのとりあつかいかたは微妙にねじれて、逆の基軸からの批評がそこにみえかくれするし、他に例をさがせば、 しかもそれがあらゆる特徴というものの本性上正のたかさにほぼみあって存在する負のふかさに眼をむけ強調するかにみせつつ、そのことでかえってその長所をつよく印象づけるといった口調でもないとするならば。 そのためにはなによりも、バロックの極端すぎる明暗のあつかいかたによって、というより以前にはなかった色の混和という技術の洗練につれて色彩のうつくしさがうしなわれて、極端なものでは黒─白の非彩色の二極構造に画面が支配されていったバロック絵画に対し色彩の復権を実行した十九世紀印象主義についての須田の意見をとりあげるべきだろう。色の混和をやめて原色を並列する印象主義によってたしかに色彩は絵画にもどってきたので、だからここに色はあるのだけれど、それは揺れ動いてやまない瞬間の色で、世界の表層をなでつづけるにとどまって世界の深さとか構造にとどかない致命的な欠陥があると、須田はみる。いいかえれば固有色という思想に対する反応にかけてバロックも印象派もちがいはないといっているわけでこういった印象派の固有色についての思考の基本図形を、須田はターナーの擁護でもしられる十九世紀イギリスの批評家ラスキンのことばにかぎつけている。 ラスキンは云う、「物の形は光線の明暗の為めに明晰に掴むことができるが、色即ち固有色はそれ自体変化的で不確実なものであるから、色は光にあうと再び変相し、或は陰の灰色で姿をかくすのである」と。また「何物にも正確な不変の色を認めるわけにはゆかない。」▼26 このいっけん現象学的な思考に類似した、「正確な不変の色」などどらえられないしあるべくもないとするラスキンのかんがえを、須田は、橙に光を当てたときの色の変化を例につぎのように反駁しつつむしろ「固有色」という概念の支持にむかっているかにみえる。 ここでよく考えなければならぬことは、いかに強い光線の為め暗い影を宿しても、橙の橙色が橙から抜け出したとは思われないのである。橙色が光線の為め変相しているのである。橙色は変らず、その光線的条件による変化が橙色の上に行われているのである。この暗い橙色の陰の色は橙色でなくてもたしかに橙色の陰の色なのである。陰の色は橙色を予想せずにはあらわれ得ない色なのである。その明部でも同様である。だから橙の橙色は少しも失われていないので、光線的に変相するだけである。変相とは、あるものが変るのであって、変らぬものがあってこそ変わったと云えるのである。ラスキンが、物の色が時に変り不確なものであるといっているのは、この変化面だけをみているのである。▼27 さらに断定的にこういってもいる。モネの有名な「積藁」連作の、まったく別々にみえる時間による変化の妙の背後にひとつの「積藁」があるはずだとして、 その積藁こそ、それの固有色をもっているのである。故に固有色は変化なき定住のものである。ラスキンの云うが如き、不確実のものではあり得ない。固有色は常に全体的である。現象的な色彩は固有色の部分変化であり、その変相である。印象派者は固有色を認めぬというが、実は認めないわけにはゆかぬのである。これを認めずして、変化はあり得ないからである。固有色は、物の色のイデーとして、永劫に健在するものといわねばならない。▼28 須田のラスキン解釈が当をえているかどうかはここでとわない。ラスキンという名によって想定したひとつの仮説を否定しつつ須田が展開しようとする論理を追うことのほうを優先したいからだ。いま順に引用した三つの文から推測できるもっとも重要なことといえば、「橙の橙色」或は積藁の積藁色、いっそう端的には「物の色のイデー」が存在するということにほゞ並行的にある「固有色」の価値の肯定、復権、すくなくともそれへの強い指向性ではないだろうか。 モネの積藁のカテドラルの睡蓮のその現象的な色彩を正面きって否定することはないけれど、その現象性のつよい現前のちからを褒めながら「モネは眼にすぎない」とづぶやいたセザンヌのように、絵画の平面性の「奥」に現象的な色彩に対する無意識の領域としての不変の色を想定すること。そして、それをいうための須田の論理の軸はといえば「変らぬものがあってこそ変ったと云える」という、須田を知らぬ人からみればくるしまぎれの詭弁に似ても、よく注意して須田の書いたものをよめば、しばしばでくわす彼の思考のパターンのひとつである。▼29ものを認識するときにはどうしても二つの「面」を見なければならず、そのどちらが地でどちらが図か判然しないあいまいを、潔癖にせっかちに分別しないでむしろ同時に同等にみようとする、或は認識された結果でなくて認識することの構造をみる須田の眼の働きがよく感じられるからだ。一段深い真理へいたる孔をうがつに必要なするどい逆説に似て、知性の冴えをぼくらにつたえる。 それをふまえて「固有色は、物の色のイデーとして、永劫に健在する」という確信にいたった、とは、明暗と色彩との構造的な連関についての須田なりの構えがさだまったということなのだろうか。もっともそれ以前の『セザンヌの美学』のなかで、印象主義の「変化的な自然の外的現象の描写」▼30をのりこえるべく、セザンヌが「不動の物体色の把握を求め」▼31たとかたったときすでに、構えだけならみせてはいるのだけれど。 それはそれとして、初期須田がローカル・カラーをかたって、 |
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四、 この秘密を解く鍵はどこかにあるのか。じつは一九三六年に須田がかいた『色彩と明暗』のなかにある、とぼくはかんがえている。その核心をなす部分は諭の結尾に集約されているが、これも煩をいとわず引用しよう。 ここで我々の反省すべきことは、このような科学的な、明暗レアリスムの発展が、もののもつ、所謂、動かざる色を失わないかの懸念である。この動かざる色というのはローカル.カラーではない。雪を灰色に表わしたことが、その場合、いよいよ雪の白さを感ぜしめるならば、そのいよいよ白いという、その白さが、雪のもつ動かぬ色である。ここでローカル・カラーは、灰色でなく白色である。このような動かぬ色は明暗の変化をうけても厳然として見られていなければならない。この動かぬ色が如何に変化するかを表わさずして、変化された外相を真実の色とみるとき色は失われたのである。若しバロッコ絵画がいかに明暗の変化を極めても、この色を忘れるならば、この色をローカル・カラーと混同したルネサンスと同罪なるを免れぬであろう。▼33 何度かよみかえして、ここにかかれていることに気がつけば須田はこのときすでに、ローカル・カラーと似而非なる「動かざる色」という重要な鍵をぼくらにさしだしていた。「固有色」じたいが本質的にはかなりやっかいな概念だとぼくはおもっているが、それに輪をかけて、ここでいう「動かざる色」は理解するのに骨がおれる。須田はそれを、 雪を灰色に表したことが、その場合、いよいよ雪の白さを感じせしめるならば、そのいよいよ白いという、その白さが、雪のもつ動かぬ色である。 とかたってみせるのだが、これだけで十分といえない。漠然と、それが実体性より機能に重点をおいて想像しなければならないので、極度に想像がむずかしい、─そして機能がすべてでもなくてその実体を捨象してはそれもまた消去せざるをえない、そういう「あるもの」をかろうじておもい描かせるにすぎない。 ではローカル・カラー或は固有色は。それは、ふだんなにげなく「雪は白い」というときの須田にならえば、「頗る無反省な態度」▼34のなかでかんがえられている思考の始動点、または思考の停止の結果である「色感の原始状態」▼35だということができて、しかしそれだけではすまない、他方では、「雪は白い」という観念そのものの、色彩上に翻訳した表現であり、極限的には白は白いという自同律が自己表現しはじめる地点に生まれるはずの、きわめてつよい抽象性を帯びた色のような気がする。それは、「物自体のもっている色」▼36という須田の言葉からも追認できる、色自体という観念をおもわせるのだが。▼37 つまりそういった、無自覚にとらえても反省的にかんがえても、自己同一化の外皮がかたい固有色へ、明暗という概念がはいりこむ余地はほとんどないし、逆にこの明暗の概念によって固有色のアイデンティティは傷つけられるのではないか。固有色と明暗は両立せず、相補もしない。ところで、「動かざる色」という集合概念は、明暗をその要素とすることができるばかりか、さらに、機能的にもっとも重要な要素であるとさえみなしうる、という点で、固有色と決定的な差異をぼくらに示している。この差異こそ、須田が「動かざる色」という耳なれない生硬なことばにたくしてぼくらに伝えようとした「明暗と色彩の関係」に関する微妙な地点なのだ。 この微妙さは「動かざる色」がきわめて機能的な概念だというところからきている。もういちど引用する、 雪を灰色に表わしたことが、その場合、いよいよ雪の白さを感じせしめるならば、そのいよいよ白いという、その白さが、雪のもつ動かぬ色である。 を仔細に点検すれば、「灰色」ということばのかわりに、[何]色をいれても構造的に不変だ、というのがこの命題の骨格であることがわかる。要するに、 雪を[青、緑・・・X]に表したことがその場合、いよいよ雪の白さを感ぜしめるならば、そのいよいよ白いという、その白さが、雪のもつ動かぬ色である。 という文に等価なのだ。現実の顔料の色の変換によってけっして変換しない、しかしある「関数」(「変わらぬものがあってこそ変ったと云える」の逆である、「変化である以上変化されざるもの」が予想されるとする─。)▼38をたもつ「動かざる色」。 その機能性のおおきさとつなげて、色彩を否定する色彩或は自己の色を蝉脱、透体脱落させる色という、ものの実体性とするどく対立する性質を示すことばが、この「動かざる色」をめぐってぼくにうかんでくる。明暗=光という契機によって、どちらかといえば消滅の方向にむかう固有色にくらべ、むしろその属性をはっきりとみせて、明暗=光に相補しつつ、場所よりも運動として姿をあらわす・・・。 しかしこの「動かざる色」ということばは、これ以後その足跡をたどることがむずかしい、というところも、わかりにくさの原因のひとつである。「不動の物体色」▼39とか「物色」▼40、そしてもちろん「固有色」ということばならでてくるのに、管見のかぎり、「動かざる色」或はそれに類似したことばは、それ以後の須田の文章にあらわれてこない。それなら、このぼくらの思考をつよく刺戟することばがなんらかの理由ですてられたのかといえば、そうではたい。 『色彩と明暗』(一九三六年)の「動かざる色」と『固有色』(一九四二年)の「固有色」とは、ほば同一の概念であって、前者の発展が後者となり、内容的には「固有色」が「動かざる色」へ解体吸収されて、ただその全体を象徴することばとして(ひとが理解しやすいということからか、そこは不明だが、)古い革袋の「固有色」がのこった、とぼくは推測する。もともと固有色は、「動かざる色」の対立項としておかれたのではなく、大同小異のその微妙な小異を拡大して論じようとしたとき、針小を棒大にみるしかなかったわけで、それをもとにかえす際に混乱さえなければ、「固有色」ということばでかたるのに不都合をかんじないと須田自身かんがえたのだろう。たしかに、意味のふかい構造において、どちらも一種の「理念型」であるという地点までおりてゆけば、両者はほとんど合同にちかづくと、ぼくにもみえるからだが、とりあえず、ことばはおなじでも、それが合意する意味の領域はより緻密に、より広大になった、という点が重要なのだ。「動かざる色」から「固有色」へことばが変化しても、そこに固有色ということばで象徴的にさししめすほかない、変化しないXがある。 それで、再びセザンヌについての文章をおもいだしてもよい。 セザンヌは自然を色彩に於いて感受するが、変化的な光沢現象の下にも不動の物体色の把握を求めようとしたのである。この個体が光沢の下に於いて、如何に夫々の面をあらわしてくるか、結局セザンヌはかくの如き自然を表現せんとしたのである。彼はこの自然の表現を色彩の諧調modulationによろうとしたのである。▼41 セザンヌをかたった須田のことばは、彼自身の「動かざる色」のかんがえと、ここでみごとに協和音をひびかせている。べつの解釈の余地はまだあるかもしれないが、ぼくとしては以上のように推測してはじめて、前章でとりあげた、「固有色」をめぐる須田の評価の外見上の変化の理由が屈折しながらもとぎれないひとつの理路によって了解されるし、細部での変更をつうじて、全体はさらに全体となり、彼の思考の徹底ぶりばかりがわきだつ結果となる。 |
▼33 須田国太郎『色彩と明暗』全文集、五九頁 |
五、 さて、「動かざる色」というひとつのことばから触発されて、須田国太郎の色彩と明暗についての思考を跡づけようとしてきたが、須田は画家であって、表現しようとする意欲の最大の手段は作品の制作にあるはずだから、作品について「動かざる色」の実践を点検すべきだろうが、これはいうに易くおこなうのは至難だ。須田のように緻密にことばをつかって論点をするどくえぐりだすよりも、こちらからの想像力をはじめから期待している底の感覚的、といえばきこえはいいがその実文として態をなしていない、しかし画家としてはすぐれた知性をもつひとの書くもののほうが、かえって、「作品」ではないことばと「作品」以外のなにでもない藝術品のあいだの、直接の交流がみられるともいえる。それにくらべると、須田の文章は、文と文のつながりや表現そのものにやや親切を欠く箇所があっても、全体を一枚の絵のようにくりかえしみつめていれば、骨の太い構造がいつかはみえてきて、意味不明の場所もそれに関連づけて、ほば了解することができるとき、同時に、ばくらにとってそれは、文学となんら遜色のない「作品」となる。しかし、それがかえって仇となって、これも立派に「作品」として自立する須田の油絵とのあいだに、「作品」相互のあいだに不可避にうまれる断絶を感じぎるをえなくなる。そういう力学が言語と美術のあいだにはたらいているのだ。だから、もし比較するということになれば、方法は、あるレベルを設定したうえでの「全体」と「全体」との対応関係の考察以外にはないような気がする。ことばと造形相互の「部分」をいくら正確に対照して、一方によって他方を説明したつもりになっても無効だろう、というか、そのとき正確ということはありえない。そこに正確をみとめるとき、とは、かならず結果的に「全体」と「全体」との対応関係についてかんがえたことになる。 と、そう一応断ったうえで、ぼくの仮説の応用例のひとつとして、須田の作品の明暗についてすこしかいてみる。 すでに述べたことからも、そして作品にふれた経験からも、須田の所謂明暗調に色、さらに光が関与しないわけはない。ただ、その関与のしかたがきわめて特珠だったので、その理由はもちろん個人の幻想の質に属するといえるなら、おなじ程度、社会の問題として、すなわち第二次世界大戦前の、というよりつい最近までの日本のくらさの反映だともいえる。ぼくらの油絵の歴史の大部分はすがれてうすらさみしい色彩を超えた、絵具の色から独立した輝きでえがけなかった画家たちでおおわれている。そうでなければ、現実とはなんの関連ももたない、架空の土地のうえにきずかれた、それゆえ厚さも重さもないデザインでしかない絵となる。端的にいって、有機体をつくることのなかった混合体である社会の貧しさと、それならそれを認識しようとする反省の力をいつもどこかへ迂回させてしまう、前者にみあった精神の貧しさから、それは発する。そして、社会の現実について画家たちは無知だったし、かえってその無知は藝術家の証だとして、みづからも社会もゆるしたのであった。するどい意識の画家だけがこのことにきづいてきた。たとえば、小出楢重であり、坂本繁二郎である。渡米した坂本はこの印象をこう記している。 それは[注 フランスにもの足りない感じをもった、理由はなにかといえば]事毎に神秘性の欠けてゐることで、土質にも立樹にも草花の如きものでも其等の自然に魅力がかわいてゐます、美しさがすべて菓子か友染[禅]式かです、・・・略・・・全くここでの美の展開は実に合理的で事によっては其道筋が余り見え透いて微笑されることがあります。▼42 幕藩体制下の武士階級の末裔としての誇りと義務感を終生もちつづけた坂本の意志が、祖国の物心両面のまずしさを、かろうじて神秘性といいかえて耐えている風情がある。しかし、彼はこの一種の欺瞞を作品のなかでよく昇華して、貧しさを逆手にとった世界をきずき、普遍の一端にふれることができたのだ。たとえば坂本の絵画に特有の、モンスーン地帯の濛々たる水蒸気によって枠づけられた色彩、或は無色彩。その神秘の色を、独学者の片意地をうわまわる一なる藝術世界の信仰によって風土の色に還元したとき、彼の作品は、現在にも通用する「写実」を獲得たので、いつか天草半島から対岸の阿蘇方面をのぞんだとき、まさにそこに坂本の画面である風景を認めたぼくに、この確信はさらにつよまっても弱まることはない。 では須田は。阿蘇といえば須田にも描いた作品がある(『阿蘇』一九五六年)。ここに『修理師』の肩のような、画面全体をひきしめる「頂点」▼43をみいだすことはぼくにはできないが、須田がセザンヌに発見して、さらに自己にみあった形式へすすめようとした色彩の諧調の▼44の成果のほうは、とびきりの逸品でもないこの絵からじゅうぶんに感じられる。づまり「画面全体の隅から隅までの連関」▼45をうけとるわけで、さかのぼってかんがえるまでもなく、その統一感はmodulationの正確、いいかえれば、よく練られた色彩=形の均衡からきている。須田のいいかたにならうと、「粉末の、或は泥状の物質に外ならない」絵具のかわりに、画家によってはじめてあたえられた「意味」▼46を浮べた色が発現しているということでもあろうか。 しかしこの 「意味」が『阿蘇』の場合、坂本のそれより社会を「写実」しているわけではない。須円の作品でそれをなしえているものに、たとえば『犬』(一九五〇年)がある。戦後しばらく続く沈滞期を脱する糸口となったこの『犬』は、画面下半分をおおう夜の化身も同様の黒犬の、とりわけその赤く燃える眼が印象的だ。しかしこの前景と、いかにも須田らしい、空間関係をいったんたちきったうえで繋ぎあわせるともなく繋いだ後景の、人通りのたえた町並みの深夜の気配がかさなって、なにかしら異常な世界をかんじさぜる。この場面づくりに、犬眼の赤さとともにおおきな役割を演じている緑色の屋根─そこには、全体の夜の雰囲気にもかかわらず光が垂直におちている。逆にこの光が滞留しているかのような屋根によって、闇の気配はますますつよまるといってもいい。そこでばくらは赤外線の使用でしかみられない不思議な光景の目撃者となるわけだが、それを異常な世界とかんじる感覚とひとしく、どこか懐かしいものに再びであったようにおもう、もうひとつの感覚がはたらくのは、ほば同時なのだ。 この懐かしさは、その環境をぼくらもいきたという記憶による。いつ、どのようにして形成されたのか説明できないが、たしかにぼくのものであり、というか、ぼくのもっとも遠い外縁である古い記憶。集合意識のなかの日本の色。この「日本」を寒気の厳しい冬をもち、深くくいこんだ山襞におおきな影のかたまりをかかえこんだ、千年王城の地である京都などと空間的に限定することはない。坂本の「日本」を九州に限定するいわれがないのとおなじく。どちらも、物理的な条件に人間のうみだすエネルギーをくわえた総合を藝術的に変形したときにうまれざるをえない、それゆえぼくらの心に源流をもった必然の色なので、いづれ誰かによって描かれるはずだと信じつつ、こういう形で表現化されるとはおもわなかった驚きを低く底鳴らせる作品となっている。そしてこの感情をかたちづくる中心のちからは、須田の光の処理、或は強度も数もおさえられた色のそれによること、もっとも大きい。 ところで、この作品には須田の自作解説がある。 西伯利亜犬を主体に背景には京都の渋谷の民家を配した。それ以外なんの企てもなく、犬そのものを一杯に押し出した・・・▼47 彼に企てがなくても、ぼくらのところに確実にとどく「意味」─それは微妙な明暗による色または色のなさ、さらにいうなら、色の均衡による統一された無色感によるといえばいえる。須田のことばのつづきには、 色彩も単純な効果を得ることにつとめた。然しそれは絵具の種類を僅かしか使わないということではない。この効果を得るには、むしろ普通より以上の絵具数を使わなければならないのが自分の経験である。 というのもある。須田国太郎の、この諭攷で追ってきた色彩論を信じるにたるものとおもわせるのは、こういうことばであり、それと作品からくる直接の印象とに感じられる交差なのだ。眼だけでは発見できなかった細部のおおくの色が、そのときみえはじめる。だがそれがすべてではない。そういった数多い色によって解体せず、いっそうつよく、ぼくらの想像のなかで、他のすべての色を凌駕してうまれる色があることに眼をむけたい。画面のどこにもなくて、しかもすべてを支配する色。すでに「動かざる色」について縷々かたってきたぼくとしては、この存在しないことによって存在する色を「動かざる色」とは別のものとしてあつかうことがむずかしい。 またもっとも初期の作品『蔬菜』をもってきてもよい。『発掘』にづづいて、遠近法を意識的に歪めたことより、いっそう奇異なおもいに誘うのはその古色がついた、とでもいいたい沈んだ赤系統の色で、あったはずの輝く色彩が無惨に掻きおとされた趣がある。けれどはじめの奇妙な味は、その画面のまえにたつことをくりかえすうちに、滋味へかわらないことはない。絵から離れていたあいだに、ぼくらの無意識が記憶の原像そのもののように、その色を育んでいるかのようだ。ぼくらの意識する視線に乗って画面へおくる感情が、たとえなんの反応もかえされないときでも、えたいはしれないが統一されてはいる或る感情に頭から爪先までそめられてしまう。ここにもまた、「動かざる色」へむかう動きを想定するのははたして牽強付会だろうか。 さて今回はこの辺でしめくくりたいが、これで須田を論じつくしたわけではなくて、たとえば「模写」との緊張関係において展開すべきなのに、それ自身にかすかに触れたにとどまった「写実」のもんだいは、さらにおおきな「自然」のそれに縁とられて、須田の作品理解のためには、そしてそれを超えた藝術自体の存在の了解のために避けてとおることができないだろう。『画で立つまで』のなかで彼は、 アリストテレスの解釈がどうであろうと、模倣の考えは不死身となって、いつかは現れてくる。▼48 とかたっている。これだけでは須田の主旨がぼやけているが、それは卒業論文『写実主義』において、細部の修正以外、終生そのてなおしを本人自身まったく必要ないと信じていたとおもわれるほど徹底的に展開された、自然の模倣、それが写実であるとする結論にむすびついているので、ひとつだけ引用する。 芸術家の示すべき模倣の対象は「斯あるべきものとしての自然(必然の自然)を模倣する」に在り。模倣(ミメーシス)の意義あるところ又彼[注 アリストテレスのこと]の眼目となすところなり。前述の如く模倣作用には既に自己の価値的判断を予想せるものなるを説けり。これ即sollenの世界をあらはすなり。彼の有名なるモットーとして「詩は史より真なり」と。彼は歴史を事実(sein)をあらはすものとみ、詩はsollenなり、起こるべき事物に関係す。普遍的なる要素を表はすものにて、単なる事実をあらはすにあらず。即自然の理想たる形相(Form)を質料(Stoff)に見出すものなり。これ彼がなほりリアリストたるを得るところなり。▼49 これについてはまた別の機会に考えてみたい。 |
▼42 坂本繁二郎「巴里通信」、東京朝日新聞、一九二二年十二月、増補改訂版「坂本繁二郎文集」、中央公論社、一九七〇年、一七一頁 |