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美術館 > 刊行物 > 研究論集 > 創刊号(1983年3月発行) > 大正八年における村上華岳 中谷伸生 研究論集1

no.1(1983.3)
[論考]

大正八年における村上華岳

中谷伸生

華岳の「日高河清姫図」(以下「日高河」と略す)は、悲恋の女清姫の哀感を描いた作品ではない。実際この作品は、彼の芸術観や実人生をも含めて、華岳という画家の活動を総体として把握したときに初めて理解することのできる一種の象徴的作品なのである。


紀伊国牟婁郡の伝説上の狂女清姫をモティーフにした「日高河」は、大正八年秋の第二回国画創作協会展(以下「国展」と略す)に出品され、多くの批評家たちの注目するところとなった。だが、華岳はこの作品を如何なる狙いで構想し、観者に如何なる見方を強いているのであろうか。これまでしばしば「日高河」は、女性崇拝家の華岳が女の哀感をその繊細巧緻な筆致によって見事に描出した作品であると解されてきた。しかし注意深く観察を進めるにつれて、この画面には通り一遍の見方を拒否する謎めいて不可解な要素が少なからず形象化されていることに気づかされるはずである。例えば画面中央の清姫は、まるで幽霊あるいは夢遊病者がふわりふわりと体を浮かしながら、極めて緩慢な動作で前方へ進んでいるかのように描かれている。そのためにこの場面は、物語の上で清姫が演じる此岸の世界とは次元の異なる、ある種の神秘的一領域を表現しているように思われるほどである。また画面全体には陰鬱で不安定な印象が生じていることも見逃すことができないであろう。さらに一層興味をそそるのは、清姫は物語の筋書どおりに男を追いかけているというよりも、むしろ何物かに追いかけられているようにさえ見えることである。われわれは道成寺縁起の安珍と清姫の物語をあまりによく知りすぎているために、画面に描かれた形象からしばしば眼を逸らしがちになる。そうした先入観と、華岳の深く周到な構想とに惑わされ、誰もが「日高河」の解釈に際して、少なからず誤謬に陥りやすくなっているのではなかろうか。


華岳は大正八年の第二回国展に、当初「母と子」を出品する予定で制作を進めていたが、妻と幼い息子をモデルにしたと考えられるこの作品は。下絵の段階で放棄され、結局これに代わって、道成寺縁起に取材した「日高河」が制作されることになる。「日高河」をめぐる様々な疑問に対して、これまで批評家や研究者たちが深く密やかな興味を持ち続けてきたが、この作品に関しては華岳自身一言も述べていないために、その制作意図や動機などは全く曖昧となっている。そこで本稿では、華岳の『画論』を手掛かりにして、大正八年頃における彼の思考や内面の動き、そして彼が描いた絵画といった、華岳の芸術及び生活の全領域に共通して認められる志向、感覚あるいは性癖を明らかにし、若き日の問題作「日高河」が如何なる状況のもとで、如何にして描かれたか、また国展への出品がなぜ「母と子」の作品から「日高河」に変更されるに至ったかという疑問の一端に触れながら、この画面に視覚化されるに至ったかという疑問の一端にふれながら、この画面に視覚化されているものを、できる限り正確に読みとってみたい。


二、


大正八年、美術雑誌『中央美術』が第二回国展の特集号を組み、洋画家の石井柏亭、美術史家の森口多里、批評家の坂井犀水、日本画家の平福百穂、そして小説家、芥川龍之介などによる展覧会評を掲載した。それらの批評から、「日高河」に関する記述を抜萃して検討してみたい。


〈石井柏亭による批評〉




華岳 日高河 東京国立近代美術館蔵

村上華岳氏は今年は規模の小さい『日高川』と云ふものを出した。前に文展へ出した仏画などもさうであったが、村上氏は古画に擬した様な効果を出すことに勝れて居る。而して此画なども其例の一つに数へることが出来る(ママ)一寸見ると金だか黄土だか分らぬが、兎に角金の剥げたやうな感じの出て居る背景、緑青の焼けたやうな松樹、菱川風の人物の姿態、之等のものが集まって如何にも初期浮世絵を見るやうな感じをなして居る。さう云ふ点で村上氏は実に器用な技巧を持って居る(ママ)其技巧たるや気持ちのいゝ技法である。併し同じことなら其流暢ないゝ技法で、古画に似たものを作らずに、目前現代の事象を取り扱はれんことを望まざるを得ない。▼1


▼1 石井柏亭「国展を評す」、『中央美術』第五巻第十二号、大正八年十二月一日、十四~五頁。

柏亭は「日高河」には初期浮世絵、とりわけ菱川派の影響があると指摘しているが、確かにこの作品には、たとえば菱川師宣の浮世絵と酷似したモティーフ、例えば中世風の黒の塗り笠、あるいは細っそりとして殆んど一本の線に近い形態にされた杖、そして明瞭な輪郭線による人体描写などが見てとれる。明治の末期からと考えられる華岳の浮世絵熱は、彼を取り巻く友人連中のよく知るところであった。それについては大正八年に永峯梅渓が「華岳君は歌麿、豊国など徳川時代の古い版本や、浮世絵に深い造詣をもっていて、自分にも可成りいゝものを集めて、昔の都会芸術家が抱懐した主情的ないゝ芸術を観ることが君の嗜好の一である」▼2と語っている。これに関連する柏亭の批評文中で注目すべきは、彼が華岳の造形的力量を高く評価しながらも、その作品制作に対する姿勢が時代に逆行するものだと批判していることである。しかし今一歩突っ込んで述べるならば、華岳の浮世絵を中心とする過去の日本美術への傾倒は、単純な懐古趣味によるものとは考えられない。というのも。そうした彼の造形志向には、同時代に活躍した黒田重太郎の回顧文に記されているように▼3、明らかに田中喜作が力説したゴンクールの日本美術論などを濾過したやり方での浮世絵理解、すなわち西洋の美術思想を媒介としの日本美術に対する理解が看てとれるからである。


〈森口多里による批評〉


▼2 永峯梅渓「国画創作協会の人人」、『中央美術』第四巻第三号、大正七年三月、七八頁。


▼3 黒田重太郎『画房襍筆』、昭和十七年六月、湯川弘文社、二五二~三頁。

竹橋氏が同じ洋風の写実を行っても、ロマンティックな誇張に陥らずに別に新しい境地を開拓する事に対しては賞賛の言葉が与へられてもよい、氏によって日本の風景画は自然主義的態度を教はったからである。また村上華岳氏の『日高川』も此の意味で賞賛に価する。即ち、戯曲的な異常事件を、氏は、極めて平凡な現象として描いてゐるからである。「煩悩」や「嫉妬」の表白を誇張することもなく、また芝居がかった道具立てもなく、娘は単に、普通の人間に共通な感情で以て動いているのである。この様な事は此の種の題材を取扱った是れまでの日本画には望めなかったことであった。(中略)華岳氏の「日高川」に日本画としては珍らしくヒューメンな親しみを感ずるのは前述の意味によるのであるが、しかしそれが充分な芸術的効果に達するまでには未だなかなか距離がある。(中略)しかし写実的な川や丘の間に、菱川風の人物を置いたり、大和絵の松を一本点じたりしてうまく調和をとってゐるのには感心させられる。しかしそれもこれも即興味の範囲を出でない面白味にとどまってゐるのは遺感である。(中略)古画の線描や色調の誘惑よりも人間味の実感を先にするやうに氏に望んで置く▼4


森口多里は、華岳が〈日高河〉という古い戯曲的主題を独自の構想によって人間味をもつものに変貌させたことを称讃しているが、それは、当時の観点からして、「日高河」が主題の扱いにおいて、近代的な自然主義的態度を示しているためであるとされる。これに関連する「娘は単に、普通の人間に共通な感情を持って動いている」という指摘は、華岳の狙いが、道成寺縁起の清姫の物語を伝統的なイメージで挿図化することよりも、むしろ清姫の姿をモティーフにして、ありうべき女の感情と行為を描くことに力点を移しているということを意味するであろぅ。さらに森口は、この作品には人の胸を打つ内実があることを認めながらも、それが古画の様式を纏っているために充分な人間味の表現を達成するまでに至っていないと苛評している。


〈坂井犀水による批評)


▼4 森口多里「国画創作展覧会評」前掲書『中央美術』第五巻第十二号、十八~二十頁

勿論国派の中に於ても各人各様で、それぞれ特色がある。併し概して西欧芸術に対する憧憬は著しい。其極端なる外形の類似を有するは野長瀬晩花氏であり、小野武橋氏、榊原紫峰氏之に次ぎ、村上華岳氏、入江波光氏等はその精神を瞑想的に会得せんと欲し、土田麦僊氏は此精神を咀嚼しつゝ之を邦画の伝統の中に活かさんことを欲して居るかと思はれる。(中略)村上華岳氏の「日高河」には浪漫的な伝説気分を味ひ、入江波光氏の「臨海の村」は未成らしい。▼5


▼5 坂井犀水(「国展所感」、『中央美術』第五巻第十二号、二十三~四頁

坂井犀水は、国展の画家たちに共通して見られる西洋美術への強い関心を指摘しながら、しかも彼らが新しい時代の幕開けを告げる個性的な作風を保持していることに注目している。このことは明治四十三年『スバル』四月号に発表された高村光太郎の評論「緑色の太陽」による個性尊重の精神を起爆済として、明治から大正時代、さらに昭和初期にかけては、『白樺』、『中央美術』『アトリエ』『美術新報』などの各種の文芸雑誌が古代から近代に至る西洋美術の紹介を陸続と行った背景を顧みることで納得がゆくであろう。また、この時期には東京の洛陽堂編集による『泰西の絵画及び彫刻』(全七巻、別巻一)をはじめとして、相当数の美術啓蒙書が出版された。さらに華岳にあっては、とりわけ明治四十三年結成の日本画団体「桃花会」への入会と相前後する時期から、中井宗太郎やパリのアカデミー・ジュリアンに学んだ洋画家の田中喜作らによって、西洋の様々な美術思潮を吹き込まれていたことが判明している。▼6また「日高河」には浪慢的な伝説的気分が漂っているという見解は、対象の写実的描写を打ち捨てて、現実から遊離した神話や物語の世界に題材を求めるという意味で、この作品の浪慢的特質を正確に捉えている言葉である。


(芥川龍之介による批評)


▼6 前掲書、黒田重太郎『画方●筆』、二五二~三頁。

村上華岳氏の「日高川」を面白いと思ふ。いかにも清姫が安珍に惚れて追ひかけて来たやうな心持が出てゐると思ふ。壁土のやうな色をした山も、牛乳色の川の水も、甚効果を強めてゐて、大へんいゝと思ふ。只あれを見たとき、清姫は盲目になったのかなと思って、めくらになってゐたのが本当かなと思った。「日高川」を松岡映丘氏の「目しひ」に比べると遥かにいゝ、全く映丘氏などと同日の談ではない。▼7


芥川龍之介は「日高河」に対して最も好意的な批評を載せた。見逃せないのは、彼がこの作品は何よりも清姫の心理を表現するために描かれたものだと考えている点であろう。そして興味深いことに、松岡映丘の第一回帝展出品作「目しひ」(関東大震災で焼失)と比較して、「日高河」の方が段然卓れた作品だと述べているが、芥川は、清姫の目が盲人のように閉じられている様子に、おそらくこの絵の核となる性格を読みとろうとしていたに違いない。


〈平福百穂による批評)


▼7 芥川龍之介「〈日高川〉〈赤松〉など」、『中央美術』、第五巻第十二号、二六頁。

(華岳氏は)昨年は「聖者の死」今年は「日高川」を出品されたのである。私が氏の作品を見たのは、以上に記した数点の外には、他に一二の小展覧会に出品されたもの二三に止ってゐるが、其僅少な作品中、どの作品を通じて考へても、氏が慌しい現実の世界から極静な悠りした気分に没入してゐられる事が分り、しみじみ鑑賞して飽くことを知らない何物かを持ってゐられるやうに思はれるのである。(中略)今年の作の如きも、やゝもすれば卑俗に、物語りに堕す危険の多いものであるに拘らず、何等それらの嫌味なく、これ迄の作に至らしめてゐるのは、やはり其人の「ものを観る力」に因るものでなければ、ならないのである。▼8


平福百穂の見解は、「日高河」が物語を扱った単なる風俗画に陥っていないこと、そして華岳の作品は時流に追従しない独自の性格を持ち、そうしたものは彼の生来の感覚的豊饒さとその人間性に基づくものだということになる。ここには、あらゆる公的発表機関から身を隠すことになる後年の華岳の芸術と思想及び生活態度を予言するかのような鋭い観察が含まれている。


▼8 平福百穂「しんみりした作家」、『中央美術』第五巻第十二号、七八~九頁。

さて以上の大正八年における批評の特質を検討してみると、それぞれの批評は簡単に共通項を見せないほどに異なる解釈を示していると理解できるが、敢えて重要な主張のみを取り出して列挙、要約してみれば、「日高河」はいわゆる風俗画の域を越えた作品で、華岳は伝説上の女である清姫をより近代的かつ卑近に解釈し直し、悲恋の女の姿と、そして何よりもその心を抽出した、ということになる。浮世絵や大和絵の技法を駆使した作風が時代錯誤であると批判されているが、この点に関しては、その頃の華岳が浄瑠璃や都踊りに関心を示していたこと、また大正五年に京都高台寺付近に移り住んだ竹久夢二の影響なども指摘されている。▼9しかし私は「日高河」の様式に見られる遡及的とも見なされる造形志向には、後に述べるように、それまでの約五年ほどの間に彼が描いた京あるいは江戸情緒溢れる舞妓や浮世絵風の作品とは本質的に異なる、より制作態度としては積極的な、そして当時としては最先端を行く新しい芸術理念の視覚化を認めることができると考えている。


三、


〈日高河清姫図〉という作品名は箱書に記されているが、この作品はまず華岳生存中の大正八年第二回国展の図録『国画創作協会第二展覧会画集』(制作社)に〈日高河〉と記載された。また既述のとおり、同年十二月発行の『中央美術』国展号に掲載された各批評家たちの批評文中には〈日高川〉と記されている。昭和五年発行の華岳画譜刊行会編『華岳画譜』においては〈日高川ノ図〉、華岳没後の昭和十七年に発行された中井宗太郎編『華岳作品集』(春鳥会)では〈日高川〉、昭和三十年発行の加藤一雄著『村上華岳』(『現代日本美術全集5』角川書店)でも同じく〈日高川〉と記されている。その後昭和三十七年の村上常一朗著「解題と資料─華岳日記について─」(村上華岳『画論』所収・中央公論社)では〈日高河清姫〉と記され、以後多くは〈日高清姫図〉と記載されることになる。つまり大雑把に述べれば、華岳生存中にはだいたい〈日高河〉〉あるいは〈日高川〉と記され、華岳没後、とりわけ昭和三十年代以降においては主として〈日高河清姫図〉と呼ばれるに至った。この作品の材質は絹本着彩、掛幅で、寸法は縦一四三・七、横五五・七センチメートルの縦長の作品である。


さて、画面中央に描かれた女の数歩手前を流れる灰色の川は、画面左下隅の一角を大きく削り取るように、左上から右下へ引かれた幾本もの弛やかな曲線によって形づくられている。そのために、女の足元に広がる大地と背後の丘陵地帯の左縁部で、大まかな円孤を描く黄土の色面全体が、右下隅を支点として、左方向へ転がり倒れるような印象を産み出すことになった。この大胆な構図法が画面全体に極めて不安定な性格を与えていることは言うまでもない。また画面最上部には、遙か連山の稜線を横切って降る雨の斜線と、灰色がかった暗青色の空が描かれているが、それらの部分が黄土の山と大地の部分に比べて非常に暗い色調とされているために、やはり縦長の画面上辺部に錘りを載せた印象を生じさせ、画面全体の不安定感を一層強めている。しかも黄土の山と大地の部分に比べて非常に暗い色調とされているために、やはり縦長の画面上辺部に錘りを載せた印象を生じさせ、画面全体の不安定感を一層強めている。しかも黄土の色面内には、上方部に緑青の松と灰色の岩山が、控え目ながらもはっきりそれと判別できる無数の細線によって形象化されているために、黄土の色面自体も下半部と比較して、かなり上半部が重く感じられるはずである。また傾いた低い円錐系の笠が、黒い色彩及び形態の両面において、画面を引き締める効果的役割を果たしながら、観者の眼を惹きつける印象深いモティーフとして配置されている。その上のこの円錐系の形態は、画面の中心部よりおおよそ十センチメートル上に、また縦の中軸をやゝ左にそれて位置づけられているため、縦長の画面全体は、さらに不安定な動きの要素を増すこととなる。さらに注目すべきは女の身体描写であるが、その病人を連想させる華奢姿態は、とりわけ単純で神経質な細い線によって、如何にも弱々しく頼り無気に描かれている。女はまるで後から何物かによって不意に背中をどんと突かれ、その衝撃で、握り締めていた細い線状の杖を足元に落としてしまった盲人さながらに、両手で身体のバランスをかろうじて保ちながら、駆けるというよりも、むしろよろめくように足を運んでいる。またスイが僅かばかり上がっていることと、頭部には例の重そうな黒い笠が載せられていることから、女の姿勢は一層不安定な印象を生み出している。その上、花と木と岩の描かれた小袖の両袂が、女の進行方向へとなびくために、形態的には両袂がやはり女の体を前へ押し倒す錘りの役目を果すことになった。さらに彼女の目が閉じられていることによって、この不安定感はその項点に達している。しかも、身体を支えているはずの左足は、大地をしっかり踏みしめているとは見えず、足と地面との関係は極めて曖昧である。そのために、この女は、自分の意志と自分の脚で走っているというよりも何か絶対的な力によって操られながら動いている人形のように見えるのである。


▼9 木村重圭「村上華岳の世界」、『三彩』三二〇号、昭和四十九年七月、四一頁。

こうした不安定さの観照的性格は、程度の差こそ様々であるにしても、華岳の他の作品、とりわけ秀抜な作品に見られることから、半ばは彼の作品の本質的な造形的特質であるとも考えられる。一例を挙げれば、「阿弥陀仏」(大正五年作)の下部の左右相称を崩す構図法、「裸婦図」(大正九年作)に見られる大きな頭部及び上半身と、相対的に貧弱な下半身の形像のアンバランスな印象、「観世音菩薩半身尊像」(昭和十一年作)における両肩の非相称の配置や、力強い頭部と淡い体躯との実在感の変差、さらに晩年に制作された「紅焔不動」(昭和十四年作)に見られる、殆んどバロック的といってもよいほどの動勢に満ちた線の布置、といった具合である。


華岳の作品は、卒業制作「二月の頃」(明治四十四年作)や、「日高河」と同じ年に描かれた「昧爽の海」(大正八年作)、あるいは第五回国展出品作「松山雲煙」(大正十五年作)など、比較的安定感のある構図を示す作品においても、画面上部に暗い色彩が施される頻度が高いために、往々にして画面の完全な安定感が打ち破られることが多い。ただ既述の分析から明らかなように、華岳の作品中で、こうした不安定さの観照的性格が、可視的形式及び意味内容の両面にわたって、最も顕著に形象化されているのが、他ならぬ「日高河」なのである。


また、色彩に関していえば、この作品は比較的明かるい色彩を施されているにも拘らず、画面には観者を一瞬沈黙させ、心理的に暗くて陰気かつ不吉にさせる特異な雰囲気が立籠めている。とりわけ印象的なのが、画面中央で風に吹かれて後方になびく女の黒髪であろう。この頭部から生え出た運動感溢れる黒い形態は、忌わしい蛇を想起させるような不吉で不気味なモティーフとなっている。そして、これと類似した黒く細長い曲線の形態が、画面右下隅の川に沿って描かれているが、この線状の黒いモティーフは、鱗を想像させる模様が刻みつけられているために、まさに蛇と言ってもよいような形態である。こうした暗いものへの志向は、雨を降らせている真暗な空の描写からも直截に感じとることができるであろう。また背後の岩山や灰色の川も、画面の陰気な性格を一層強調している。


このわれわれに暗澹たる気分を惹き起こす作風は、華岳が制作した数多の作品において再三再四露わにされているものであるが、そうした例は、晩年の「秋柳図」(昭和十二年作)などの極度に暗鬱な作品を枚挙するまでもなく、初期の作品において既に見られたものである。例えば「夜桜図」(大正二年作)の画面を覆う色調と雰囲気、「牡丹遊蝶図」(大正八年作)の灰青色の空、「秋林」(大正十年作)に描かれた林、といった絵画である。そして華岳はこれらの説明し難い暗くて陰気な作品群の中に、「夏の山」(昭和六年作)など稀に見られる翳りのない爽やかな作品を間歇的に挿入した。


さて今ひとつ触れておかねばならないのは、「日高河」では、鮮やかな色彩が排除されていることであろう。加藤一雄が「道頓堀の芝居に立つ幟の色」と形容した一見派手で一面素朴に見える華やかな色彩は、大正初め以来この時期に至るまで、華岳が制作した幾枚もの舞妓の図や「操り人形道成寺」(大正六年作)などにおいて、大胆かつ効果的に駆使されてきた。そしてこの「日高河」において、そうした鮮かな色彩は画面から消滅し、以後、晩年の悲愴で凄惨な仏画や山の絵において、再びその表現内容を変えて顕われるまで、彼の作品は、一部の例外を除いて多くのものが、たとえ部分的に鮮かな色彩が施される場合でも、画面全体は極めて地味で抑制の利いた色面によって占められることになる。その観点から言えば、「日高河」は、背後の山や大地に石井柏亭が見た金箔の剥げたような比較的明かるい黄土を用いているにもかかわらず、本質的にいわば陽性の派手な色彩を排除した陰鬱な作品なのである。こうした特質を考慮に入れるならば、この絵は実に巧妙な遣り方で、暗く陰気な観照的性格を、決して誇張することなく、しかし確実に画面全体に浸透させている作品だといえるであろう。


ところで注目すべきは、ここに見られる神秘的な観照的性格である。本稿の冒頭で印象を述べたとおり、この作品は、ある種の神秘的世界を描いたような不可思議な特質を保持している。荒涼とした砂漠を想わせる寂しい大地、遙か遠方の連山に降る不可解で意味あり気な細い雨、また既述の爬虫類のような生物を連想させる不気味な形態モティーフ、これら一見取るに足りないかのように思われる数種のモティーフは、それらを凝視するにつれて、謎めいて神秘的な性格を漸次確実に観者の網膜に刻み込んでゆく。例えば女の黒髪や画面下方の黒く細長い形態に関していえば、われわれが、それらのモティーフに蛇や蜥蜴といった何らかの概念的な名称を与えようとすると、これらのモティーフは、たちまち意味のない抽象的形態を示すばかりとなる。逆にそれらを単なる非対象的形態として注視していると、これらの形態は、徐々にある種の有機的な生物の姿に変身する。おそらく華岳は、観者の眼を欺くために巧妙な計算をして、これらのモティーフに両義的な二重の性格を付与し、本質的に曖昧模糊とした形態にして画面に配置したのであろう。だがこの画面中、最も不可解に思われるのは、女の描写である。彼女はまるで生身の肉体を持たない幽霊のように体を浮かしながらゆっくりと前進している。質素で地味かつ繊細な模様を散りばめた小袖は、その輪郭線を中心とする平板な形態描写によって、殆んど女の肉体を感じさせないほどである。そうした印象は、この女の姿が背後の黄土の大地に類似した明かるさを示す色彩を施されているからであろう。女の身体を画面に止める押しピンの役割を担っている黒い帯、控え目に描き込まれた鴇色の文様、体を包む小袖の存在を強調する目的でうっすらと塗られた灰味を帯びた水色の絵具、そしてそれを縁どる繊細簡潔な輪郭線、すなわち、これらの種々様々な色調をもってする形態描写がかろうじて女の姿を背景の色面から切り離しているにすぎない。少なくとも造形的観点から見る限り、女は背後の大地や山にまず手足から溶け込んで消失してゆくように見えるであろう。それというのも、細部の写実的描写を省略され、重量感や立体感を完全に奪われた手足や顔、そして小袖の表現は、人物の実在感を稀薄にし、女の肉体そのものを、はかなく透明なものにしているからである。この透明感のある非写実的かつ非現実的な人体把握は大和絵や浮世絵において習慣的に用いられた輪郭線を中心とする表現法を巧妙に駆使することによって可能にされたもの、と考えられるかも知れない。そして形態及び意味の両面にわたって、この作品の中心的モティーフであると認められる女の顔は、胡粉を掃かれて画面中で最も明るい色面とされ、ほとんど消え入るばかりの幾本もの繊細緻な柔らかい線によって、眉、鼻、口、そして耳元で乱れる数本の毛筆に至るまで、極めて簡潔に抽出されている。さて最も注目すべきは、目を閉じた女の表情が、無表情あるいは神秘的に表現されていることであろう。少なくとも、この表情は、可能な限り感情を内に秘めた静かさを示しており、もしもわれわれが、この女の表情を見て哀れで切ないと感じるとすれば、それはこの人物が悲恋の女主人公清姫であることを知的に理解し、その知識を無理やり画面の清姫に重ねて見るからではなかろうか。仮に一歩譲って、女のしぐさなどから哀れさらしき感情を見てとることができるとしても、この作品が一般に言われるように、清姫あるいは女の哀感を描いた作品であるとする主張は、純然たる視覚的観点からすれば、あまりに誇張された観念的見方と言わざるを得ない。むしろここには、背後の寂しい風景や、既述の暗く不吉なモティーフの効果によって、おどろおどろしい雰囲気と共に、鬼気迫る何物かが確実に視覚化されていることを見逃してはならないであろう。



華岳 紅焔不動



華岳 日高河 (部分)

ところで、安珍と清姫の物語は、裏切り者の男安珍を追う清姫が血相を変えて日高川まで駆けつけるという筋書である。その劇的場面は、室町時代に制作された「道成寺縁起絵巻」において、表現性に富む卓越した描写力によって表わされた。絵巻では全力を上げて川岸まで走り寄る執念の女清姫の姿は、大腿を突き出し、まさに疾走する恰好で描かれている。飛ぶような速さで日高川にやって来た時、女の首は凄まじい形相で前方を睨みつける大蛇と化してしまった。この絵巻に描かれた清姫は、詞書が記すように、迅速に安珍を追いかける姿で表現されている。また近代に入っては、小林古径の描いた「清姫」(昭和五年作)が、やはり疾風迅雷とでも形容すべき女の姿を鮮かな色彩と簡潔な描写によって形象化している。さてそれに引き換え、華岳の描く清姫は、明らかにそれらの伝統的な清姫解釈を無視あるいは放棄していると見えるであろう。華岳の画面では、女は男を追いかけているというよりも、何物かに追いかけられている風にも見えるほどである。隈元謙次郎はこの作品の印象を「華岳は山野を馳せて来た清姫が、小川にさえぎられて困惑した様を表わしている」▼10と述べた。また執拗に男を追跡する姿にはとても見えない目を閉じた表情などは、理性的な思考や意識を完全に放棄した恍惚状態にある人間の内面を、少々瞑想的に表していると解されるに違いない。華岳は「日高河」制作の二年前、つまり大正六年に、つまり大正六年に、この作品とほぼ同様の構図によって、画稿「日高河清姫図」を描いており、この主題は彼にとって長らく興味を惹くものであったと考えられる。だが華岳は大正八年に国展への出品を予定して着手した「母と子」の制作に行き詰まり、急遽「日高河」の制作に踏み切った時、悲恋の女清姫の物語を忠実に絵画化する構想など、全く抱いていなかったのではなかろうか。


四、


大正八年頃の華岳は、本人でさえ明確な言葉で表現することのできない重苦し気分に捉われていた。いや、それとも心が落ち着かずに揺れ動く精神状態に陥っていたというべきであろうか。そうした状況が華岳の内面に一種の暗澹たる気分を生じさせていたように思われる。この華岳の内面は、彼がその生涯を終えるまで書き続けた多くの断片的文章から正確に読みとることができるが、とりわけ大正八年より九年、つまり「日高河」が制作された前後の時期に記された言葉の表現内容と文体には、それ以後のものとは明確に異なる主張と、やはり他の時期に記された言葉の表現内容と文体には、それ以後のものとは明確に異なる主張と、やはり他の時期に書かれた文章と較べて、際だった気分と調子が感じられる。当時の華岳の言葉から受ける、沈鬱かつ深憂の印象派、この画家の人生において、様々に形を変えながらも生涯付き纒い、作品の様式に反映するに至った重要な基調である。だが中でも大正八年頃の言葉は、若き日の画家の、しかもそれは彼の生来の気質である一種のニヒリスティックとさえ思える気分を簡明直截に示している。



道成寺縁起絵巻(部分)



華岳 日高河清姫図画稿


▼10 隅本謙次郎「村上華岳」、『萌春』六六号、昭和三十四年、四頁。

我々は沈黙の時におそろしいものを見付け出す。自分はそれにふれまいとし、逃れ様とし、ごまかそうとしてゐる。
  (中 略)
 闇の中に嵐が吹く。まっ黒な深夜に、恐ろしい嵐が轟々と吹いてゐるのだ。その中を真裸で何物も身につけず駆けまわる。彼は目的もなくむやみにかけり廻る。
 何といふ恐怖の世界だ。
 そこに円と思ったのは四角だった。まっ直と信じてゐるものは実はことごとく曲ってゐるのだ。自分が正しいと信じたものが  悉く不正であった。美しいと思ったものは醜の塊りであった。▼11(大正八年四月二十二日夜)


▼11 村上華岳『画論』昭和五十七年一月再版、中央公論美術出版、三三三~四頁。以下華岳『画論』とする。

この文章にはまるでニーチェの箴言を想起させるかのような暗い深淵を覗き見る人間の心情が端的に表明されている。そしてここには、少々衒学的とも思える特徴が示されていると共に、絶対的なものを信じることのできない懐疑的な思考が露わにされている。華岳は当時の画家としては稀に見る読書家であったと京都の絵画専門学校教授の美学者中井宗太郎が語っているように、彼の文章の随所に散見される様々な観念的言葉から推測して、その頃の華岳は、中井宗太郎の強い影響のもとに、美術書や哲学書を可能な限り読破し、自己の内面に巣喰う底知れぬ暗い領域を深刻かつ真摯に見据えていたと考えられる。この年の文章に、仏教は「人間の欲望を遁逃し創造的進化の積極的態度なきをあき足らず思ふ」▼12(傍点(太字)筆者)とある。大正期には一般向けの哲学啓蒙書類も数多く出版されており、たとえば、生田長江、中澤臨川共著 『近代思想十六講』(新潮社、大正四年)においては、「レオナルド・ダヰ゛ンチと文芸復興」、「ニイチエの超人の哲学」、「ダアヰンと進化論」、「ベルグソンの直観の哲学」、「梵の行者タゴール」他十一篇による西洋思想の解説が収められている。そして大正二年には、人間の本能の働きとその哲学的意味について多くの頁をさいたベルグソンの『創造的進化』(早稲田大学出版部)が金子馬治、桂井當之助共訳によって出版された。ベルグソンに限定せずとも、この時期の華岳が西洋あるいは東洋の哲学書を介し、自己流のやり方で哲学的思索に耽っていたことは間違いない事実である。華岳は人間を突き動かし苦しめる本能の力の暗い不思議さに想いをめぐらし、この当時『白樺』に連載されていた高村光太郎訳「ロダンの言葉」を反芻するかのごとく、「日高河」制作の数カ月前頃に、人間の欲望を支配する本能についてこう記している。


▼12 華岳『画論』、一六頁。

人間は本能のまゝに生きたい。本能の指すところ絶対の価値がある。(中略)罪は人間の弱さだ。本能は依然として絶対をさしてゐるのだ。ロダン評論をよんでこんなことを感じる。▼13(大正八年二月十五日)


▼13 華岳『画論』、二三~四頁

この時期、華岳は京都の衣笠南麓に住居を構えていたが、国展の同僚、榊原紫峯はその頃の華岳の心境を象徴的に示していると考えられる事実を指摘している。「彼が衣笠におった頃ですが、玄関に骸骨の絵が貼付けてあって、それに『死ぬるぞよ』と彼自ら賛を入れていました。華岳君の長所も短所もよくここに出ている思いがします。」▼14確かに華岳は心の奥底に間断なくしのび入るいわく言い難い虚しい感情を払拭するために、自己の心情を骸骨の絵と賛によって外部 に表現することで、いわゆるカタルシスの効果を求めたに違いない。また華岳は大正五年に神戸でインドの宗教哲学者タゴールに会い、その後「タゴール像」(大正十四年作)を描いた。彼が思想的に深い影響を受けた哲人タゴールは、大正四年に翻訳出版された『生の実現』において、「不完全な人間たる吾等の真の富は苦痛である、又吾等を完全の域に進ましめて偉大有要のものたらしめるものも苦痛である」▼15と語っているが、おそらく華岳はこれらの厳粛な言葉を繰り返し精読したはずである。いずれにしても、当時の華岳は「暗い何物か」に眼を向けていた。このことについては、やはり大正中期における彼の芸術観および人生観を本質的に示していると思われる次の文章を挙げるだけで充分であろう。


▼14 榊原紫峯(談)「早逝の友華岳君を偲ぶ」、『日本近代絵画全集22土田麦僊、村上華岳月報』、昭和三十七年十一月、講談社、三頁。


▼15 タゴール著、三浦関造訳『生の実現』、大正四年、玄黄社、九九頁。

ジョットオの方が人間といふ立場を失ってはゐない、苦しみがあると思ふ。
  (中 略)
 ドラクロアーの様に、生々しき、人間の苦患も描きたい。
  (中 略)
 人間生物の歴史はそれに達せんとする、もがき苦しむ状態だ。▼16(大正八年)


華岳の心を捉えたこの暗いものへの志向は、またより具体的にその形を変えて、彼を精神的窮地に追い込もうとしていた。彼の苦悩は激しい圧迫感を伴って、芸術と宗教との分裂に悩むという、一面において観念的な苦悩として、そして他方においては不安定な心の苛立ちとなって彼の胸を締めつけたはずである。


▼16 華岳『画論』、二〇、二五、二八頁。

芸術とはなんでせう、私はしりません。私にはこの頃またすっかり解らなくなってしまひました。しかし私にとって画家であることなどはどうでもいゝのです。(中略)画家であるよりも或は宗教家であるよりも前に、何よりも前に私は人間でありたいと思います。▼17(大正九年)


▼17 華岳『画論』、四三頁。

「芸術と宗教とは同じものであらねばならぬ」 ▼18という彼の切実な願望と裏腹に、芸術活動は、宗教的境地とは相反する妄執の道であるという懐疑が彼を捉えて離さなかったように思われる。


▼18 華岳『画論』、一五頁。

実は私は絵なんかどうだっていゝ、描けなくてもかまはないと考へます。若し世界の本体を掴むことさへ出来れば、それが一番大切なことです。 ▼19(大正九年)


ここには芸術家としての生活を続ける限り、結局自らの思想や心情を妥協によって不本意にもねじ曲げ、その精神的動揺から遂に逃れるすべはないであろうという、窮地に陥って、宗教的生活と芸術活動との対立矛盾する両極の世界に引き裂かれていく、苦しい思考と動揺する心情とが読みとれる。

▼19 華岳『画論』、四六頁。

穢いといふと語弊があるが、清浄な感じは更にない猥雑で混乱を極め、そして妥協でかためた私の生活、私は絵を描いてゐても時々厭になることがあります。 ▼20(大正九年)


これらの苛立った印象を与える文章には、当時彼が行動派の土田麦僊に従って不承不承に参加していた国展の活動に対する気持ちの疲れもまた確実に反映しているに違いない。


この時期における彼の切羽詰まった心境は、最終的には、昭和二年に恩師の中井宗太郎に書き送った次の手紙の下書に集約された。


▼20 華岳『画論』、四五頁。

中井先生、本年は全く休息するつもりでおりました。御親切な御書面を頂いて看手はしたのでしたが、描損、図を改めましたが、気分が既に落付かなくなっており、殊に元来、テキパキ仕事運びのできぬ自分の性質から、身体にも無理が出来て困憊しております。少からず閉口して居ます。入江兄にも、折角のすすめたもすまぬが、自分はやめやうと思ってゐます。▼21


また別の覚書でこう記している。


▼21 華岳『画論』四三一頁。

展覧会なるものには賛成し現代の重大な機関だとは思っております。しかし展覧会に出したいといふ─世に公表する─意欲も自分は今もっておりませぬ。▼22


▼22 華岳『画論』四三四頁。

この「気分が既に落付かなくなっており」という焦慮の色が濃い心情は、少くとも大正七年に国展が結成された時期から、最後の国展出品作「松山雲煙」を制作した頃まで、華岳の心に錘りのように引っ掛かっていたに違いない。大正九年秋には 「余は決心したり、余はあることを決心したり、それは久しき間余を悶えしめたり、余は決心したり」▼23という人生の方向を決定しようとする悲愴な覚悟を示す文章が現われる。この頃の文章に「隠遁」を志向する一種の人間嫌いを表面化したような思考が繰り返し述べられているが、言うまでもなく、国展退会の決意と、世間から身を隠した生活へ踏み切る決意の仄めかしであろう。事実、彼は芦屋に転居した数年後に再転居して、神戸花隈の地で半ば隠者のような生活を送ることになった。華岳の『画論』を読み通すと、その表現の仕方は異なるにしても、「我々は決して虚名のために筆をとるのではない」▼24といった戒めの言葉が死に至るまで再三再四繰り返されているのが目につく。彼が単に芸術家の高邁な理想を語ったと考えるのはあまりに皮相的であろう。これらは自らへの戒めとして発せられたものであることは疑い得ないことである。とりわけ大正八年頃の華岳は、おそらく拭っても拭っても湧き起こる画家としての職業に対する執着と、またそうしたことから生じる世間的なくだらぬ虚名に振り廻される自己の内面の動揺に疲労困憊し、その苛立つ心境から一刻も早く逃れたいと心の底から望んでいたように思われる。「人から悪くいはれるといふことは、時々張り合いがあっていゝ。人から愛せられることは、自ら顧みて苦しい」▼25という彼の言葉は、多少なりとも世評を気にする自己の愚かさに対して、反語もしくはトウカイの言葉として語られたに違いない。こうした苦しい心情は、一方で妄執を捨て去った宗教的生活への憧憬の発言として、他方では自己の赤裸々な気持ちに耽溺する感傷的な独白の言葉となって表明された。この文章にもやはり焦燥の感に駆られた華岳の内面を看てとることができるだろう。


▼23 華岳『画論』四〇頁。


▼24 華岳『画論』三八頁。


▼25 華岳『画論』三九頁。

矢張り出来る限り煩悩を断って清浄を保ちたいのです。身口意の三つを共に浄めて三密加持してゆきたい。そして菩薩の清浄さが欲しいと思ひます。(中略)私はもう力弱いものでも生命の淡いものでもかまはない。あの清浄で透徹した月光のやうな生活でありたいと願ふやうになりました。(中略)私には今生活転向の時期が来ているのです。何等か生涯の一時期を劃するような心的革新を行わねばならぬところへ来ているのです。▼26(大正九年)


▼26 華岳『画論』四三~五頁。

通説によると、華岳は霊と肉との葛藤に生涯懊悩したといわれている。だがこのロダンの言葉すなわち「霊と肉とを戦はしめるところの此の痛烈な格闘」▼27という言葉に基づく勧念的な苦悩よりも、私はむしろこの頃の彼の心を捉えたのは、現実にどのような姿勢で生きるへきかという実生活上の差し迫った二者択一の具体的な問題であったように思われてならない。すなわち華岳の思考に基づいて述べれば、芸術的なものを志向する執念の生活と、宗教的なものを志向する安寧の生活との分裂葛藤、そしてこの分裂は、とりもなおさず、国展退会に絡んだ揺れ動く心情として具体化され、そうした内的かつ外的な苦しみによって袋小路に追いやられながら、華岳は宗教への憧れを強く抱きつつ、仏教的な神秘的世界に強い関心を示した。彼はすでに大正五年第五回文展に「阿弥陀仏」を出品し、彼岸の神秘的世界を造形化している。こうした関心はやはり大正八年の文章において明白に示された。例えば「単純に風景画なども書いて見たいと思ふ。後に自然の意志があるやうに神秘的にかいて見たいと思ふ」▼28とか、ロダンの言葉を繰り返すかのような「レオナルドの様な、深さの知れぬ神秘さをも描きたく思ひます」。▼29あるいは「自分は何かしらこの世でないものが描いてみたい。神秘の感じのするものが描いてみたい」▼30とかいった発言である。


さて『画論』中に記された言葉から、「日高河」に関連していると思われる箇所を列挙し、検討してみたい。


▼27 ポール・グゼル筆録、高村光太郎訳「ロダンの言葉追補(二)」、『白樺』第九年三月号、大正七年三月、一〇二頁。


▼28 華岳『画論』、一九頁。


▼29 華岳『画論』、二五頁。


▼30 華岳『画論』、三一頁。

私は、人間が描きたい。私は人間の習作を沢山作りたいと思ってゐます。
 この不可思議なる人間が描きたい。不可思議なる人間の戯曲を描きたい、人生の相を、人間の内の現実をかきたく思ひます。▼31(大正八年三月十五日夜)


▼31 華岳『画論』、二五頁。

華岳は、執念がついに大蛇に化してしまう清姫の物語を不可思議な人間の戯曲として絵画化しようとしたに違いない。清姫をモティーフにして、人間精神の奥底にある複雑で不条理な普遍的感情を形象化しようとしたように思われる。それ故、先の造形分析からも明らかなように、「日高河」では「道成寺縁起絵巻」や古径の「清姫」のように、安珍と清姫の物語を絵画によって再現するという意図を華岳は殆んど放棄してしまったのであろう。このことに関しては、やはりロダンが「芸術は、まったく、少しも文学の力を借りないで思想や夢想を生ぜしめる事が出来ます。詩歌の場面に挿画する事をしないで、芸術はまるで文学の本文を含んで居ない非常に明瞭な象徴を使ふ可きです」▼32と語っているのに呼応するように、華岳は次のように述べている。


▼32 高村光太郎訳『ロダンの言葉』、大正十年十一月、目黒分店発行、三五三頁。

文学的に材料を得るかも知れない。或いは得ないかも知れぬ。画題に文学的材を籍ることはあるだろう。しかし乍ら其れは命題に止まる。製作は単なる図解であってはならぬ。▼33(大正八年四月二十二日夜)


▼33 華岳『画論』、三一~二頁。

それ故、「日高河」を見る際に、ここに視覚化された様々な形態や色彩、あるいは女の描写自体を、道成寺縁起で語られる筋書きに照らして直訳的に理解することは誤りなのである。まして描かれてもいない「清姫の哀感」などを画面に読みとるということは、偏見に満ちた観念的解釈以外の何ものでもない。そうした見方は、この巧妙で複雑な作品から眼を逸らすことである。先に触れたように、華岳はこの時期に広範囲にわたる書物に目を通していたが、とりわけ『白樺』に掲載された「ロダンの言葉」を中心に、西洋美術の作風や芸術理念に深く心を奪われていた。そして国展の同僚、麦僊や竹喬が、主としてゴーギャンやセザンヌなどの後期印象派に連なる画家たちの影響を示す作品を描いていたのに対し、▼34華岳はロダンの芸術観に基づいて、広義のロマン主義的あるいは象徴主義的作風に傾倒していた。彼は印象派の意味内容軽視の形式主義を鋭く批判し、大和絵、浮世絵、そして『白樺』などの文芸美術雑誌が盛んに紹介を繰り返していたジオットーやアンジェリコ、そしてロダンが敬愛の念を抱いていたシャヴァンヌの精神主義的作風に関心を抱いた。


▼34 ただし麦僊は印象派のみならず、象徴主義の画家ルドンにも関心を示し、作品を所蔵していた。辻鏡子『回想の父土田麦僊』、昭和五十九年四月、京都書院、一六四頁。

絵画に於いて印象派は時間的要素或は人間の精神、神秘の表情とか愛の戯曲的場面だとかを全然排斥してしまった。(もとより排斥といふわけではないが手を染めない。)唯それだけを全部と信じたら稍々捉はれた見解である。自分は人事を画因とする場合に於いて、前のそれ等のものが絵画の立派な要素の一つであることを固く信じる。▼35(大正八年四月二十二日夜)


▼35 華岳『画論』、三二頁。

この文章の内容からは、印象派の築いた建物は天井が低い、と痛烈な印象派批判を行った十九世紀フランス象徴主義の画家ルドンの言葉を想起させられる。▼36こうした華岳の言葉を裏づけるように、「日高河」は神秘の表情とか愛の戯曲的場面を扱った作品であると解釈できるかも知れない。とすれば、この時期に華岳の脳裏に浮んでいたのは如何なる構想であったのか。親友の洋画家、黒田重太郎が研究していたドラクロワのロマン主義的な運動感溢れる作風であったのか。▼37この点に関しては、増田洋氏が、「不可思議なる人間の戯曲」、「人生の相」、「人間の内の現実」を描こうと念願していた華岳が、フランス・ロマン派のドラクロワの画集から二十点の作品を選び、写真複写にして身辺に置いた事実(『画論』に記されている)を挙げ、これを根拠に、「日高河」製作にあたってはドラクロワの影響が大であると示唆している。▼38確かに、この作品には、ドラクロワの影響ということを一概にして否定し去ることのできない運動感に満ちた清姫の姿と、情念に操られた苦患の状況とが見てとれる。その点では、「日高河」には「浪漫的な伝説的気分」を味うことができると記した坂井犀水の批評も、この作品の重要な側面を突いたものといえるかも知れない。その上、先にも指摘したように、華岳はこの時期に、「ドラクロワの様に、生々しき、人間の苦患も描きたい」と言明しているのである。 さて、これまでは『画論』に記された文章の意味を言葉の概念に従って解読してきたが、『画論』の読みとりにおいて決定的に重要なのは、言葉を逐一絵画とつき合わせることではなく、大正八年から九年にかけて華岳が書いた全文章の総体から捉えることのできる、陰鬱で切羽詰まった特質を浮き彫りにすることである。記述のとおり、華岳はある箇所で「芸術は一生を賭しての仕事だ。偉大なる奉仕の精神がなくてはできない仕事だ」▼39という強い使命感を語ったかと思うと、今度は「私はもう力弱いものでも生命の淡いものでもかまわない。あの清浄で透徹した月光のやうな生活でありたい」▼40と感傷的で弱気な言葉を吐いている。この動揺する心情は、少なくとも大正八年と相前後する数年間にわたって、彼の文章全体を貫いているもので、国展の脱退問題とも重なって、この感傷的かつ苛立った感情が、華岳自身にとっても半ば意識的かつ半ば無意識的に吐露されたものと思われる。こうした特質は、当時の華岳の精神の性向あるいは性癖であり、換言すれば、彼の思考や感情の「型」とでも呼び得るものである。


五、


▼36 オディロン・ルドン著、池辺一郎訳『ルドン 私自身に』、昭和五十八年七月、みすず書房、一四五頁。


▼37 黒田重太郎は当時、西洋時代美術の研究を行っていた。この研究が大正十四年、中央美術社より出版された『構図の研究』に結実する。この書物で、黒田はドラクロワの「サンダナパールの死」を分析している。


ドラクロワ サルダナパールの死(部分)

▼38 増田洋「村上華岳─六甲山の画家」、『近代美術の開拓者たち(3)』、昭和五十七年所収、有斐閣、十九~二十頁。華岳『画論』、二四頁参照。


▼39 華岳『画論』三八頁。


▼40 華岳『画論』四四頁。

数多の批評家たちの中にあって、とりわけ華岳研究に一時期を画した加藤一雄は、独自の文体を駆使しながら、「日高河」について次のように語っている。「黄土と藍のさびた色彩の溶け合う中に、ぼんやりとした悲しさが漂う。悲劇は寂しい感情の中に溶けこみ、感情は更に憂鬱な山河の中に、女の笠、閉じた眼、翻った花小抽、捨てた細い杖にまでも滲透してゆく。そしてこれらの滲透は、一転して、若くして既に憔悴の色のある作者の詩的精神をほのぼのと浮び上がらせてくる。三十二歳の華岳が満腔の哀歓をウッタエタものであり、それを支える技術は巧緻の極限をつくしたものであつた。もし尚彼がこの種のテーマを続けて行ったとしたら、余りにあわれな情感と官能の圧倒のもとに、彼の歌声はついに狂うに至ったであろう。」▼41


確かに華岳はこの清姫の物語を扱った作品の中に、自己の内面の深刻かつ感傷的な感情を持ち込んだように思われる。そのことは、「日高河」と『画論』とを検討することによって明白となるであろう。当時の華岳は「日高河」に見られる鬼気迫る陰鬱なものや神秘的なもの、あるいは感傷的なものに捉われていた。そうした彼の志向が、この頃に制作された作品群中でも、とくに「日高河」における種々様々な色彩や形態モティーフなどに、変形されつつ投影されたと考えられる。そしてこれら華岳の基本的な志向の中で、最も重要と思われるのが、既述の陰鬱かつ不安定な観照的性格であり、それは、彼が形象化したもの、すなわち「日高河」の画面全体を基本的に規定しているもので、われわれはそれを作品に向い合った時に明白な印象として感じとることができるであろう。そしてこの観照的性格が本作品の鬼気迫る緊迫感を確実に盛り上げ、画面全体の統一的な気分を確たるものにしているといって間違いないはずである。こうした観点から、われわれは「日高河」と画稿「母と子」に係る制作上の重要な問題に触れることができるように思われる。すなわち大正八年に華岳が国展出品のために着手した「母と子」の制作を下絵の段階で放棄し、急遽「日高河」の制作に取り掛かった大きな理由として、私は両作品に見られる造形的性格の決定的な相違を指摘したい。「母と子」の画稿は、「日高河」と全く逆に、華岳の全作品中で最も安定感のあるピラミッド型構図を示している。しかもこの作品の主題は、これまた狂女清姫のモティーフとは全く異なって、画家自身の妻子を描いた、華岳にとって最も心暖まる内容となっている。大正八年頃の暗く神秘的はものを志向し、しかも落ち着かない感情に支配され、今にも嗟嘆の声を上げるばかりとなっていた華岳にとって、「母と子」 という作品は、ロダンの語る「内の真実」に呼応する華岳の言葉、すなわち「人間の内の現実」を表現するためには、あまりに自己の心情と掛け離れたものであったといえるに違いない。このことは、「日高河」と画稿「母と子」 の両作品の枠内で造形的に実証することができるであろう。


▼41 加藤一雄「近代画家論(一)村上華岳」、『三彩』一七一号、昭和三十九年、二二~三頁。



華岳 母と子画稿

さて「日高河」を解釈するにあたって、今ひとつ重要な鍵は、華岳が当時記した『画論』中において再三使用している「象徴」という言葉であろう。「我々は象徴を求めている」。▼42「我々の生活を高め更に生命の発育を力づけ生活向上に必要の任務をなすからには、そこにかゝる象徴の存在の必要があると思ふ」。▼43さらに彼は『画論』中の大正八年二月十五日付の「日本画の絵具」の中で、今後の日本画の可能性として「古仏画のやうに線条を重んじしかも新しい内容と生命の深さを備へた神秘的象徴的のものが出来るか」▼44と問うている。この点に関しては、加藤一雄や河北倫明氏が指摘するように、華岳は大正六年頃から西欧の壁画や宗教画から新しい製作理念を得ようとしており、同年に友人へ「私はシャバンヌとか、古くてはジョットとか、要するに象徴的な新理想画を成就したいのが望みです」▼45と言葉を書き送っている。彼のいう象徴的な新理想画は、華岳のみならず、明治末期より大正にかけて、たとえばシャヴァンヌに心酔した 藤島武二の名を挙げるまでもなく、その頃の多くの画家たちの脳裏に焼き付いていたはずである。森口多里は大正末期に出版された『近代美術十二講』(東京堂書店)において、〈新理想主義絵画〉という一章を設け、十九世紀のフランスやドイツの代表的な新理想主義絵画、すなわち今日では象徴主義の絵画と呼ばれている作品群の特質を詳述している。森口の解説は、大正時代において華岳が理想とした芸術観、なかでも「日高河」において具体化された制作理念を端的に要約していると思われるので、その解説を、華岳自身が名前を挙げたシャヴァンヌに照明を当てて纏めてみたい。


▼42 華岳『画論』、一五頁。


▼43 華岳『画論』、一六頁。


▼44 華岳『画論』、二二頁。


▼45 河北倫明『村上華岳』、昭和四十四年、中央公論美術出版、八七頁、前掲書、加藤一雄「近代画家論(一)村上華岳」、二一頁。


シャヴァンヌ 希望

〈森口多里解説による新理想主義絵画〉(要約)▼46


(一)新理想主義的画家、ピュヴヰ・ド・シャワ゛ァンヌとグュスターワ゛(ママ)・モローは、その心性の根底に於て「近代の悲哀と幻滅」とを体験し、現実の中に神秘感を追求したり、ロマンティックな雰囲気を愛慕したりして日常の実生活から全く懸け離れた幻影の世界を夢みたりする。

(二)新理想主義の作品が産み出す印象は、精神的側面が強調され、そのロマンティックな幻想は近代の頽廃的官能と唯美主義的心情とに裏づけられている。

(三)シャワ゛ンヌ(ママ)は懐古的な幻想に逃れ、寂しさを聖化し、普遍化した。彼は・炎凬泣lッサンスや印度の宗教芸術の特色を採り入れたモローと同様に、演劇めいた表情や身振り、一時的な興奮、反省の無い激情などの表現を否定し、人間の永遠の情操、普遍化された感情を表現した。

(四)シャワ゛ンヌは人生の恒久の情操に徹して、そこに聖僧の生活のような単純と素朴と静謐とを見出した。それ故、彼は実感や官能的な刺戟を超越して、くだくだしい細部の描写や肉感の表出を避けた。

(五)印象派にあっては、色は光として表わされたので、いわば色は太陽の光を再現する手段であった。しかるに新理想主義の絵にあっては、各々の色はそれぞれ独立した人間的感情を持っているので、画面における色の諧和には、一種の象徴的ながある。刺戟がある。


▼46 森口多里『近代美術十二講』、大正十一年九月、東京堂書店、二二〇~五二頁。

さらに「日高河」の様式と突き合せて興味深く読むことのできる解説として、『中央美術』大正五年十月号に掲載された木下杢太郎の評論「モロオ及びシャワンヌ(下)」から次の個所を抜萃して挙げることができるであろう。「ピユウヰスに在っては全世界は鈍調の澹緑蒼涼の光を漲らして、画中人物は為めに其肉体的・物質的の所を失ひ、夢幻の像となりまた典型と化り了ってゐる、然しながら彼の荘厳なる印象は畢竟彼が線的様式を採ったのに存するのである。」。▼47この頃華岳は、西洋美術の中でも特にジオットー、アンジェリコ、レオナルド、ドラクロワ、ブレイク、そしてシャヴァンヌに注目しているが、これらの画家たちは、大正期の文芸、美術雑誌に次々と紹介されている。たとえば、華岳が愛読していた『白樺』大正元年号にはシャワ゛ンヌに関するロダンの言葉と作品図版六点によるシャヴァンヌの紹介、同誌大正三年四月号には十八点の図版を伴う柳宗悦解説の「ヰリアム・ブレーク」、大正三年九月号には十三点の図版と児島喜久雄解説の「リオナルド・ダ・ヴィンチ」、大正四年五月号には六点の図版を伴うジオットーの紹介、大正四年六月号には七点の図版によるドラクロワの紹介、大正六年四月号には再度十点の図版によるブレイクの紹介、大正六年十二月号には各々数点の図版によるシャヴァンヌ及びドラクロワの紹介、大正七年四月号にもまたドラクロワの作品十二点の紹介、大正七年十一月号には再度五点の図版によるレオナルドの紹介、大正七年十二月号には四点の図版を伴う小泉鐵解説の「フラ・アンジェリコ」、大正八年三月号にもまたブレイクの作品八点の紹介、大正八年九月号にはフラ・アンジェリコ作「楽を奏している天使」の紹介、さらに今ひとつ付け加えるならば、大正五年に刊行された『美術新報』の「ピュヰ゛ス・ド・シャワ゛ンヌ(ママ)」特別号である。こうした美術雑誌の出版状況、そして上記の彼自身が言明している言葉から推定して、華岳は、「日高河」の制作にあたって、これらの画家たちの中から、印象派と対立するシャヴァンヌの新理想主義絵画を想い浮かべていたということは充分に仮定することができるであろう。もっと華岳のシャヴァンヌ理解は、直接作品を通じてというよりも、森口多里らの解説書を介した多分に概念的な理解であったと推測されるので、この作品がシャヴァンヌらの新理想主義絵画の作風と酷似しているかどうかを細かく穿鑿することは意味がない。ここで問題となるのは、新理想主義の画家たちが主張した印象派批判に、大正八年の時点で、華岳が同意を示し、印象派と対立する制作理念を掲げていたという事実である。その意味では、やはり印象派と異って、人間の精神的苦患を扱ったドラクロワのロマン主義的作風や、人間の内面における真実の造形化を主張したロダンの芸術観の影響をも見逃すことができないであろう。画面の右から左へと山野を駆けて行く清姫の描写から、「日高河」の制作にあたって、華岳が「道成寺嫁起絵巻」を意識していたことは充分に推測することができるが、「日高河」は絵巻の一場面を単純に切りとって作品化されたものではないことに注意すべきである。ここでは清姫の物語の本質のみを凝縮して表現するために、様々な暗示的モティーフを配置することによって、極めて単純化された象徴的な画像が形成されているのである。


六、


▼47 木下杢太郎「モロオ及びシャワンヌ(下)」、『中央美術』大正五年十月号、四四頁。同著『印象派以後』、大正五年十月、日本美術学院、一七五~六頁。

以上の特質を考慮に入れて、結論を述べるならば、「日高河」は、本質的にいって、清姫の物語を描いた作品でも、女の哀感を形象化した作品でもない。この作品は、画面に正確に視覚化されている通り、「本能」あるいは「煩悩」という言葉を使って説明するにふさわしい何ものかを象徴的に描いた作品である。それ故、画面の清姫には、平福百穂が指摘しているように、風俗画的な激情も哀れさも、そしてまた恋に狂って疾走する女の姿をも見てとることができないのは当然なのである。女は人形さながらに、「本能」とでも解するしかない陰鬱な力に操られ、恍惚とした表情を示しながら踊るようにゆっくりと歩を進めている。この観点からすれば、背後の山の襞が清姫の煩悩を示すかのようであるという指摘は正鵠を射ている。▼48われわれは清姫の閉じた眼から、彼女の心の内部に入り込み、その内面の感情、すなはち暗く不吉な「煩悩」の形象化されたものとしか言いようのない黒の塗笠、風になびく忌しい黒髪、さらに背後の寂しく陰鬱な景観へと視線を導かれてゆくはずである。華岳は、本能が突き動かすままに男を追い、遂に蛇と化した清姫をモティーフにしながら、そこに当時の暗く神秘的なものを志向する自らの気分を投影し、印象派と対立する西洋美術の制作理念を念頭に置くことによって、「本能」あるいは「煩悩」を象徴的に暗示する清姫を描いたと考えられる。すでに指摘したように、「本能」というのは、この時期、すなわち大正八年において、華岳が最も関心を示した哲学的観念であった。


▼48 内山武夫「村上華岳作 田植の頃」、『視る』第一六八号、昭和五六年六月、京都国立近代美術館発行。

最後に、「日高河」がある種の哀れさを感じさせるとすれば、それは物語に側した清姫の哀れな姿が写実的に表現されているからではなく、画面全体の表現効果としての造形的特質、とりわけ大和絵の伝統的な造形表現、たとえば「隆能源氏」として知られる「源氏物語絵巻」(十二世紀作)の「御法」の場面など、多くの日本画に描かれた秋草の表現に共通する「あわれさ」を見てとることができるからではなかろうか。この観点からいえば、可憐で弱々しい女の身体描写や、小袖に描かれた頼り無気な野草の模様などのモティーフは、極めて効果的な表現に行き着いているといえるに違いない。また閉じた眼の表現は、大正二年頃より華岳の描く人物画に、しばしば見られたものであるが、殊に「日高河」に関しては、加藤一雄が「文楽の人形は激情の極限に眼を閉じる─文楽びいきだった華岳は、おそらくそれに倣ったのであろう」▼49と述べている。さらに、この閉じた眼には、当時華岳の脳裏を占めていた仏教的な法界の観念、つまり「あるがままの理法」に従って生きる人間の姿が、象徴的に顕わされていると考えられるのではなかろうか。こうした諸特徴を加味して、再度「日高河」の制作理念を纏めてみると、この画面には、シャヴァンヌらの新理想主義絵画や、その源流であるドラクロワのロマン主義的作品、加えてロダンの芸術観、さらに大和絵や浮世絵の表現法が、複雑に絡み合いながら混在しているのである。要するに華岳は、この作品において、伝統的な日本画の中に西洋美術の制作理念、とりわけ反印象派の立場を採り入れて、独自の象徴的絵画を実現させようとしたのではなかろうか。その際に、彼が狙いとしたのは、清姫の物語の風俗画的表現ではなく、人間の「煩悩」という普遍的観念を象徴的に表現することであったはずである。



源氏物語絵巻・御法


▼49 加藤一雄/内山武夫「村上華岳 土田麦僊』(現代日本美術全集4)、昭和四十七年十二月、集英社、一〇九頁。

(なかたにのぶお 学芸員)

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