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美術館 > 刊行物 > 研究論集 > 創刊号(1983年3月発行) > 長原孝太郎の美術批評 牧野研一郎 研究論集1

no.1(1983.3)
[論考]

長原孝太郎の美術批評

牧野研-郎

洋画家長原孝太郎には、挿絵画家や漫画家あるいは装釘画家としての側面があることはよく知られている。そしてこれらのいわば「余業的側面」▼1におけるいずれの分野においても先駆的な業績を残している。山本鼎によれば長原孝太郎は「近代的眼光」すなわち近代的知性=批評精神とすぐれた表現力とをあわせもった日本で最初の漫画家であるが▼2、その長原の漫画のなかに美術作品を対象としたものが何点かある。長原が漫画を発表したのは「とばゑ」、「めぎまし草」、「明星」、「二六新報」の各誌であるが、美術作品を対象とした漫画が掲載されたのは、このうち「とばゑ」、「めざまし草」の二誌であり、時期的には明治二十八年から三十一年の四年間に集中している。こうした美術作品を対象とした漫画がどのような背景から生まれ、またそれらは長原孝太郎にとってどのような意味をもつものであるのか若干の考察を試みてみたい。


▼1 土方定一「坪内逍遥当世書生気質』と長原孝太郎」(『近代日本の画家たち』昭和三十四年。美術出版社所収)

▼2 山本鼎「現代の滑稽画及び風刺画について」(「方寸」第一巻第二号・明治四十年)

「とばゑ」の周辺

「とばゑ」は編集兼発行人・長原孝太郎、石版刷、和綴じの小雑誌で、明治二十六年十二月から二十八年十一月にかけて三回発行されている。第1号奥附けには、「明治二十六年十二月二十三日印刷、明治二十六年十二月二十九日発行、定価十銭、版権所有、編輯兼発行人東京本郷区駒込千駄木町百七十七番地長原孝太郎、印刷人東京都神田区東松下町十六番地小柴英侍、売捌所東京神田区裏神保町一番地敬業社」とある。各号いずれも十頁にみたないが、表紙は銀鼠色の地に銀刷の版画がほどこされ、白絹の紐で綴じるという瀟酒な体裁となっている。第一号の奥付頁には発刊の趣旨が「謹告」として述べられている。


 謹 告
一、とばゑは政事に関せざる狂画と時様風俗画を蒐集したるもの也。
一、画趣の卑野卑猥褻に渉るもの又は人身攻撃に関するものは一切登載せず。
一、毎月一回発行の目的なれど◯◯の都合により発兌せぬ事あるべし。


編集方針が、政治に関せざる狂画(諷刺画)と時様風俗画(現代風俗画)との二本立てであることを明確にうたい、低俗な笑いを排し上品な笑いを旨とし、定期刊行をめざしたものであったことがこれによって知られるが、前二者はともかく、最後の目標は全くかなえられず、結果的には年一冊の発行ということになってしまっている。この文章はまた長原の漫画に対する見解を端的に示すものであるが、それがどのように「とばゑ」において実現されているかを見ておこう。「とばゑ」第一号~第三号の発行日と内容は次の通りである。


 第一号 明治二十六年十二月二十五日発行
   表紙・・羽子板
   百鬼夜行図
   むさしの(八駒)
 夫婦一
 奥付
 第二号 明治二十七年二月発行
 表紙・・盆栽の梅
 歳暮
 新年
 銀山(一二駒)
 夫婦二
 第三号 明治二十八年十一月発行
 表紙・・日清戦争入城の図
 雅邦の虎
 裸体画
 ゑんそく(一〇駒)
 十円でしばられた人
 奥付





長原孝太郎『とばゑ』第一号表紙

駒漫画を中心において一枚ものをその前後に配するというスタイルを各号ともとっている。また狂画と時様風俗画という区別では、第一号の〈夫婦一〉、第二号の〈歳暮〉〈新年〉〈夫婦二〉が時様風俗画にあたり、その他は狂画ということになろう。各作品の解釈については森口多里「長原孝太郎のペン画と浸画」▼3に詳述されているのでここでは触れないが、この小雑誌が、発行当時どのような反響を呼んだかを少し見ておきたい。明治二十七年一月発行の「日本人」第七号に早くも別天生の署名で「とばゑ」第一号に対する好意的書評が出ている。


「これ石版摺の絵画雑誌にして友人長原孝太郎氏の編輯するところなり。他、画を学ぶこと久しく造詣する所深し。然れども自ら韜晦して世に示さず。其の名を署して世に出たすは 「とばゑ」より始よる。巻中収むる所六葉、われ画を解せすと雖も、意匠斬新、着筆淡々として奇趣横溢するを見る・・中略・・他、性、淡白瀟酒、名を衒はんが為に之れを発刊するにあらず、利を釣らんが為に之れを発刊するにあらず、唯た斯道に志ある者と共に斯道を楽しむ所あらんとするのみ。斯の如きの篤志嘉みすべき也。」


別天生は別天長沢説(一八六八~一八九九) で、「江湖新聞」記者を経て政教社に入社、「日本人」の編集にあたり、明治二十四年から二十六年かけてアメリカに留学。英文学わけてもミルトンやバイロンの紹介に力を注ぐとともに、社会主義に共鳴して「日本人」に「社会主義一斑」を連載(明治二十七年)し、マルクス紹介号で発禁処分を受けたジャーナリストである。書評中に「友人」とあり、長原の性情に詳しいところから通り一篇の知人とは考えられず、長原の幅広い交友の一端を垣間みる思いがするとともに、「とばゑ」創刊の事情がうかがえて興味深い。「とばゑ」第一号の「夫婦一」の農民夫婦への愛情のこもったまなぎしや、第二号「歳暮」「新年」の雑沓のなかの都市庶民風俗への共感、あるいは「銀山」の鉱山労働者に対する同情にみちた視線などに、この友人長沢説との共通部分を読みとることができるかもしれない。


また同じく明治二十七年一月の「早稲田文学」第五六号の文界欄には無署名で次のような書評が掲載されている。


「此は西洋風の滑稽画を本として一新体を創めんと企てたる長原孝太郎氏の編する所、神田敬業社発行、長原氏は夙に油画に心を潜め多年研究のかたはら我が浮世画が兎角に虚偽の想を弄し徒に繊功の弊に流るゝを慨し浮世画の新式を興さんの志あり本篇収むる所は其数年前の稿に係るもの未だ氏が本領を窺ふに足らずといへども而も其のの着想が我が尋常の画工と同じからぎるは明なり。尚第二篇よりは氏が同好の譜家に乞うて更に一層面白きものをも掲げ且画とき若しくは言葉がきをも添へんとすといふ。」


この評は長原が〈謹告〉で述べた発刊趣意の裏にある長原の意図を教えてくれている。「とばゑ」は西洋風の滑稽画を本にして新たな様式を創ろうとしており、また一面でそれは「浮世画の新式を興さん」とする試みでもあるというのである。この評者はさらに第二号以降からの長原の構想をも予告している。こうした点から考えて、この評者も長沢説と同様に長原と親しい間柄であつたことが考えられる。「早稲田文学」といえば坪内逍遥であるが、評の「我が浮世画が兎角に虚偽の想を弄し徒らに繊功の弊に流るゝを慨し浮世画の新式を興さんの志あり」という一節は、逍遥の『当世書生気質』の挿画における長原と逍遥との交叉を想起させる。


▼3 「みづゑ」第三四二・三号・昭和八年

「あの頃、長原君は神田孝平さんの書生どころをして居られたが、書生気質の四号までの挿絵を見て「あれではいかん。もっと新らしいものでなくてはいかん。私に書かせて下さい」という話で、それは何よりだと思って喜んで此方から頼んだ。私は大変面白い絵だと思って居った。ところが、長原君にはお気の毒であつたが、新らし過ぎて、どうも世間受けがしなかった。あの頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかったような有様で、残念であったけれども二枚だけで中止して貰った次第である。」▼4


浮世絵流の挿絵を担当したのは国峰、葛飾、武内桂舟で、長原は五号と八号の挿絵を、逍遥自らが描いた指定下絵にしたがって描いている。逍遥との交友はこれを機にその後も続いたもようで、長原家には現在も幾葉かの逍遥からの葉書が残っている。「とばゑ」発刊の際には、それを手にして長原が逍遥のもとに出向いて行ったこともありえよう。


「東洋学芸雑誌」は科学啓蒙雑誌として東京大学の学者の多くがこれに寄稿しているが、明治二十七年三月発行の一五〇号に、「とばゑ」第二号の書評がある。東京芸術大学に残る長原孝太郎の履歴書を見ると、長原は明治二十二年五月に東京帝国大学理科大学雇を申付けられ、翌二十三年理科大学技手に任ぜられ、二十六年九月の大学令改正に伴い理科大学助手を拝命している。三十一年東京美術学校助教授を兼任することになり、翌三十二年三月九日附をもって東京帝国大学理科大学助手を免官になり東京美術学校助教授専任になるまでの十一年間を理科大学で送っている。その仕事は「箕作佳吉、飯島魁両博士の説明を聴きつつ、亀の胚盤の発生や海綿類の骨片などを描いていた」▼5とあるように、動物学教室において顕微鏡を覗きながらそれを写生するというものであった。「とばゑ」発行時においてはそうした仕事の傍らにペン画による風俗画や狂画を描いていたわけである。「東洋学芸雑誌」の書評はしたがって長原と職場を同じくする人によるものである。当時、坪井正五郎の人類学講座が開かれ(明治二十六年)、人類学教室の標本整理係として採用された長原の友人、鳥居龍蔵の名が思い浮かぶが▼6、評者の確定はできない。


以上示した書評の他には発刊当時の反響を今のところ知ることができない。後年この「とばゑ」を評したものとしては森口多里の「長原孝太郎のペン画と浸画」が唯一のものであろう。これは昭和八年の国民美術協会の物故会員遺作展に出品された長原のペン画や漫画に触発されて書かれた文章で、数少い長原論のうち多くの示唆に富む点で山本鼎の論考に匹敵するものでぁろう。このなかで森口は「とばゑ」の作品を「案外に穏健で、鋭く刺すような諷示や機智を欠いているが、それはまた時代のせいでもあつた]と総括し、「社会批評としての漫画を芸術化した最初の洋画家の一人」と評価した上で、「彼の漫画には、徳川時代の伝統を引く浮世絵師の漫画に附きまとい勝ちな擽りや駄洒落は少しもない。常にレアリストの立場から社会を観察しつつ、そこから把握された皮肉なり諷示なりを、ペン画で鍛へた筆に託したのであった。」と結んでいる。〈謹告〉で示された趣旨、あるいは当時の書評からうかがえる長原の意図というものが十分に達成されていることを、この森口の評によっても知るのである。


「早稲田文学」書評に「尚第二篇よりは氏が同好の諸家に乞うて更に一層面白きものを掲げ」とあるのは「とばゑ」第二号において「謹告」に追加された一項目を先どりしてのことであろぅ。その追加項目は以下の通りである。


一、安藤仲太郎原田直次郎久保田米僊の三君はとばゑ発行を賛助し時々投画さるるの約あり


▼4 神代種彦記、逍遥遊人訂「作者余談」『明治文学名著全集一』(大正十五年・東京堂)


▼5 坂井犀水「長原止水氏」 現今の作家(三)(「美術新報」第十三巻第四号・大正三年二月)


▼6 鳥居龍蔵と長原孝太郎の関係については。田崎哲朗「神田孝平と鳥居龍蔵」(「日本歴史」 391号・昭和五十五年)参照。

安藤仲太郎、原田直次郎との交友は明治十六年頃に始まったようである。大田耕治「長原孝太郎氏の口述伝」▼7には「明治十四五年頃準備学校(東京大学予備門のこと)へ通ってゐる間に学生の中にも絵のすきなものは二三人あった。それらを通じて氏は、専門に画事に進められる前に、同好者と風景の鉛筆写生をやってみる会合を主張されたことがあった。近藤、原田、安藤、五百城、内田、水野等々の人々であった。」とあるが、『原田先生記念帖』の長原孝太郎の記述によれば、長原が原田に初めて会ったのは明治十六年、原田の西洋留学が既に決ってからのことであるようだ。長原はその経緯を次のように回想している。「明治十六年の頃だと思ふ。私は画を稽古したいと思って居た。其頃どうして心安くなったか知らぬけれども、近藤次郎吉と云ふ人と面識になった。──中 略――其人が云ふのに、近頃画を稽古する為に西洋へ行く筈になってゐる原田直次郎さんと云ふ人があるから、お前画を稽古するなら、乃公が紹介してやろうと言った。それから裏猿楽町の今の屋敷へ行って初めて原田君と会った。」原田二十一歳、長原が二十歳の時で、原田は既に妻帯し、この年七月には長女壽が生まれている。原田はこの翌年二月にドイツへ向かうが、それまでの間に長原は度々原田に会って画の話をしたり、一緒に画を描いたりしたようである。その当時の写真が「アトリエ」第三巻第九号(大正十五年八月)に載っている。中央に原田が立ち、その右脇にまだ幼さの残る容貌の長原が座っている。安藤仲太郎、五百城文哉、水野正英らの顔もそこには見える。留学中も原田から長原の許へ手紙が届くなど交流は絶えず、帰国後も前述のメンバーが原田を中心として集まっている。小林萬吾は、原田帰国後の彼らの親密ぶりを次のように描写している。


「そして(長原の)当時の仲間は原田直次郎、安藤仲太郎、五百城文哉等の数氏(之等は皆高橋門下)で此等の人が時々寄り合って気エンをはいて居た様です。アーチスト・ア  ッソシエションと云ふ名の下に仲間の作品展覧会をやりたいと云ふ事も聞きましたが、其頃君はペン画ばかり描いて居た様です。」▼8


小林の言葉からは、アーチスト・アッソシエッションを提唱したのが誰であり、また何時頃のことであったのかは不鮮明だが、小林の言葉が発されたのが長原の追悼記事中であることを考えると、長原によって提唱されたものと考えるのが自然であろう。これが実現されていれば、自由な同志的結社が白馬会に先立って存在しえたであろう。


明治二十一年三月発行の「絵画叢誌」12号に次のような記事がある。


○油絵展覧


曾員 原田直次郎氏が発起にて去月二十三日より本月十五日まで横浜パブリックポール(ママ)にに於て油絵の展覧会を開きたり 尚次曾は陳列品の集まり次第東京に於て適当の場所を撰み開会する都合なりといふ。


この展覧会が小林の言うアーチスト・アッソシエションの名の下の仲間の作品展覧会なのかどうかは全く解らないが、おそらく上記の展覧会出陳者は原田周辺の人々に限られていたのではないかと思われる。これと関連するものに『原田先生記念帖』の安藤仲太郎の回想がある。


「明治二十三四年の頃、横濱のヘラルドにブルックといふ人がゐて、ヘラルドの階上に展覧会を開いたことがある。原田君も出品して大分画が売れた。代価が西洋人に売るのであるから、日本人に売る二、三倍であった。そのうちブルックが条約改正に反対したといふので、原田君は敵愾心を起して、其展覧会に出品しないようになった。」


安藤のいう横浜での展覧会と、「絵画叢誌」の伝える展覧会とが全く別のものなのか、同一のものなのかはいまは判然としない。ここでは原田が帰国してから明治美術会の創立に原田が参加するようになるまでの短い期間に原田を発起人として展覧会が開かれていること、また原田周辺に明治美術会の創立前後に明治美術会とは異る、アーチスト・アッソシエションの結成を求める声があったということを確認しておきたい。


この事に関連して中村不折の長原追悼記事の一節に次のような記述が見られる。


▼7 「美術新論」昭和六年四月号


▼8 小林萬吾「故長原孝太郎追悼」(「美術新論」昭和六年一月号)

「その頃長原君は安藤仲太郎君や五百城文哉君と云った人達と一緒に小山正太郎先生の塾に学んでいました。僕は明治二十年に信州から出て、矢張小山先生の塾にはいり  ましたが、其の時はもう長原君は塾を去っていました。何でもなにか事件があって先生と衝突し、安藤君の采配で皆んなが袂を連ねて立ち去ったのだと云ふ事でした。」▼9


▼9  中村不折「故長原孝太郎追悼」(「美術新論」昭和六年一月号)

長原孝太郎は明治十六年四月に神田孝平の斡旋で小山の塾に入塾している。また安藤や五百城は明治十七年三月に天絵学舎が廃校となったため小山塾に身を寄せていた。しかし実態は「画家を志して、始めは少しばかり小山正太郎氏に就た。然し主として同志の者たちと半身のモデル位を使って描くことの方が多かった。」▼10と長原が語っているようなものであった。ここで言う同志とは安藤、五百城らを指すのは言うまでもない。ところで不折の言う「事件」とはどのようなものであったのだろうか。


平木政次の『明治初期洋画壇回顧』に次のような記述が見られる。


「それから少しとんで明治20年の春、東京府主催の工芸共進会が上野公園博覧会場の跡で開催された。中略。 扨てこの会で非常に不愉快なことが起った。その第一は絵画の陳列場所でごたごたした。それは工部美術学校を中途退学した十一会の連中が、会場の中央で一番光線のいい場所を占領してしまい、一般の作品は工芸品とならべられ、しかも光線が甚だ悪かった。そこで不平の声が起った。ところが更に十一会よりは審査不公平の声が起った。それで私共もその審査不公平に賛同した訳だが、其後褒賞授与式の発表によれば、十一会を代表している、浅井忠氏が授賞しているので問題となった。」


東京府工芸品共進会は第二回内国勧業博覧会(明治十四年)以来展覧会からしめだされてきた油彩画の出品が認められたため、多くの洋画家が出品している。浅井忠は〈寒駅霜晴〉〈農夫帰路〉の二点を出品、二等賞を受けており、安藤仲太郎は〈汐干狩〉を出品している。長原はこのとき〈雷門〉を出品したと思われる。(同展覧会目録未見のため。ただ「美術新報」第13巻第4号にこの作品の図版が掲載されており、同記事中に「二十年に当時の洋画家の組織していた十一会の展覧会に〈雷門〉の大作を出して非常に好評を博した。」とある。明治二十年に十一会独自の展覧会があったとは考えにくく、工芸品共進会のことをさすと思われる。)安藤、五百城それに長原らは小山塾において外様的意識があったかに思われる。それがこの展覧会における会場問題、審査問題において噴きだし、小山との意見の衝突があり、安藤の采配で小山塾をとびだすことになったのであろう。この時原田はまだドイツにあった。原田の帰国後にその周辺にアーチスト・アッソシエションの声があったのは原田の留守中の事件に起因しているのであろうか。明治二十二年の明治美術会の創立にあたって、そのグループの中心的存在である原田が当初から評議員として参加しているのにもかかわらず、安藤や長原がこれに加わらなかったのも小山との一件があってのことだと思われる。安藤は後日明治美術会に出品することになるが長原は明治美術会との関わりを持たなかった。それはこの期長原が理科大学の技手をしていて油彩画を描く余裕を失ったためばかりでなく、小山ら明治美術会の事大主義あるいは政治性に対する嫌厭感を抱いたためであろう。


この事件は、この先白馬会が結成されるにあたって安藤や長原がすすんでそれに入会するひとつの遠因ともなっているかに考えられる。


▼10 長原孝太郎「私の畫學生時代」(「アトリエ」第三巻第九号・大正十五年)



長原孝太郎〈雷門〉(1887年)

久保田米僊は幸野楳嶺門下で、明治十三年の京都府立画学校の設立に尽力、出仕したが免官となり、その後ジャーナリズムで活躍した。明治十九年、「京都我楽多珍報」に征韓論の評定を諷刺する淳画を載せ、「名浸画として、好評噴々たるものがあった。」▼11という。明治二十三年、徳富蘇峰の招増により「国民新聞」の絵画関係担当となり居を東京に移した。長原孝太郎と米僊との関係は原田直次郎仲だちとするものであろうか。原田は明治二十三年「国民新聞」に「又饒舌」と題して第三回内国博覧会評をサルガケ樵夫の署名で書き、それを受けて森鴎外が「又々饒舌」と題して「国民新聞」に四月十四日から六月六日まで十四回にわたって連載しているのは周知のとおりである。この件に米僊は「国民新聞」サイドから関与していたはずであり、これを契機に原田らとの交流が深まり、米僊は原田の鐘美館に長男米斎の教育を委ねることにもなる。久保田米斎は『原田先記念帖』のなかで、明治二十四年十二月七日、初めて鐘美館を訪ねた時の印象を「家父(米僊のこと)もお面識なので、最初から打解けて、後で思ふと、私の京訛が可笑しかったのでせう、始終目元に微笑みを湛へながらお話でした」と記している。


このような交友関係のなかで長原の「とばゑ」は発刊され、第二号の〈謹告〉で安藤、原田、久保田の三人の名を挙げているわけだが、これは実現しなかった。久保田が、漫画に関心を寄せまた描いたのは当然であるが、原田や安藤がその当時どのような漫画を描いたのか、あるいは描かなかったのかは、いまのところわからない。「とばゑ」発刊時、既に原田は病床にあり、明治二十七年には久保田米僊は日清戦争の従軍記者として東京を離れ、また安藤にも京都に居を移していると思われる。長原も、後で見るように二十七年には久保田同様「二六新報」の美術担当として多忙な毎日を送っている。こうした事情が絡みあって、安藤らの約束果たされず、また「とばゑ」第三号の発行されるのが明治二十八年末まで延ばされたとみてよいであろう。


ところで、この期における諷刺画への長原と同世代の関心はどのようなものであったのだろうか。


▼11 島屋政一『日本版畫変遷史』(五月書房・昭和五十四年)

「花月新誌と共に余が推奨せんとするは團々珍聞なり、其小話其狂詩其川柳惣て朽腐にして天明思想を脱せずと雖ども獨り其キャリケーチュア(ぽんち畫)に到っては我が文藝社曾に一段の進化をアタへしもの豈に是を軽視すべけむや。此種の嘲罵幕末に創って既に新意想にあらざるも團々珍聞に到って特に巧妙を極めしは陳腐に安ぜし當時に在って是を賛称するの價値あらむ、唯怪む、初刊以来既に十有餘年を閲せる今日に於て其外観を更めしも進歩の寛跡亳も現れざるを。」▼12


▼12 内田魯庵「現代文学」(「國民之友」明治二十五年一月三日)

内田魯庵は団々珍聞のカリカチュアを高く評価しながらも、それが近年マンネリズムに陥ちいっていることに不満をもらしている。「団々珍聞」の諷刺画は、創刊当初(明治十年)は本多錦吉郎が担当し、明治十三年本多が筆禍事件をおこして諷刺画の筆を折ったのちは、小林清親らによって引き継がれている。魯庵は慶応四年の生まれで、長原よりわずかに年少であるが、長原より少し年長の坪内逍遥にも次のような述懐がある。「東大在学当時の私は、極楽とんぼであった。・・・其頃の雑誌では「花月新誌」や「東京新誌」が最も学生間に愛読されたものだが、私は寧ろ「団々珍聞」や「魯文珍報」や「歌舞伎新報」の常得意で、少しでも余裕があると、新富座へ出かける、寄席へ行く。」▼13


▼13 坪内逍遥「回憶漫談」(「早稲田文学」大正十四年七月号)

逍遥、魯庵ともに長原とは因縁浅からぬ関係をもつが、こうした同世代の「団々珍聞」への反応と、長原のそれとはそう異ったものではなかったであろう。あるいは長原の漫画への関心の芽生えた場を、長原が少・青年期を過した神田孝平の居宅に求めてもよいかも知れない。神田孝平は天保元年(一八三〇)美濃国不破郡岩手村に生まれ、十七歳で京都に出、嘉永二年(一八四九)江戸に移っている。嘉永六年(一八五三)松崎慊堂に漢籍を学んだのち、プーチャーチンの長崎来航、ペリーの浦賀来航によって習学の方向を転じ杉田成卿について蘭学を学び、ついで伊東玄朴、手塚律蔵に師事している。文久二年(一八六二)蕃書調所の教授出役となって数学を担当した。慶応四年には開成所頭取となるが、この年九月新政府に出仕して議事體裁御取調御用となり、その後大学大亟、兵庫縣令、元老院議官、文部少輔、貴族院議員などを歴任している。数学、経済学、法学さらには天文学と幅広い分野に関心を寄せ著作も多いが、晩年は『日本人太古石器孝』(明治十八年)を著すなど考古学に情熱をかたむけている。アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』の最終章(第三十六章)に、明治二年二月十四日、サトーの送別の晩餐会の記述がある。「私たちは一度公使館へもどり、その足ですぐに、東久世が私の出発のために送別の晩餐会を開いてくれるホテルへ駆けつけた。客は、ミットフォードと、シーボルトと、私のほかに、備前候、公卿の大原待従、木戸、町田、森(後に森有礼として知られた人)、それから語学校の教授で最近創刊された江戸の一新聞の編集長神田孝平、宇和島の都築荘蔵であった。とても楽しい集まりだった。」というものである。文中の「最近創刊された江戸の一新聞」とあるのは、慶応四年以降、神田孝平の『江戸市中改革案』などの論考を次々と掲載した「中外新聞」のことを指すと思われる。蕃書調所の仕事のひとつに、「ジャパン・ヘラルド」や「ジャパン・コンマーシャル・ニュース」などの横浜で刊行された外字新聞の翻訳があった。興津要氏の『新聞雑誌発生事情』によれば「中外新聞」は、「この「ジャパン・コンマーシャルニース」の流れをくむ「ジャパン・タイムス」を邦訳し、「日本新聞」と題して回覧したのが、柳川春三を中心とする「会訳社」だった。・・・柳川春三の「中外新聞」は、この会訳社の回覧筆写新聞の発展したもので、外字新聞を翻訳印刷して外国事情を紹介し、あわせて国内ニュースをも報道する」ものであった。神田孝平が「中外新聞」の編集長であったかどうかは不明であるが、深い関わりを持っていたのは事実である。またのちに神田は「明六社」に加入して「明六雑誌」に啓蒙的論考を多く寄稿したことはよく知られている。ジャーナリズムの発生期に、その重要性を知り、深く関与した一人であったし、またその職務上、外字紙を通じ居留民の動向にも関心をはらわざるを得なかった。神田は伊藤博文のあとを受けて明治四年十一月兵縣令に任命されている。本庄栄次郎編著『神田孝平―研究と史料―』によれば「『神戸市史』には当時外人居留地の『勢甚だ盛にして、当局社亦紛擾避くるに汲々たり、四年十二月外国の事情に通じる神田孝平を懸命となせしもこれが為なり』と説いているが、そういう事情もあったことと思われる。洋学者であり、外国の制度取調に与っていた神田が兵庫県令として治績を挙げたことは、当然のこととはいえ、特筆すべきことであろう。」とされる。こうした神田であってみれば、チャールズ・ワーグマンの「ザ・ジャパン・パンチ」に当然目を通していたであろう。神田はまた浮世絵・陶器など古美術の収集でも知られ、モース、フェノロサ、ビゲローとも親交があったことが知られている。▼14長原はこうした神田のもとに、郷里の大垣第三小学校を卒業した明治九年に養育を託され、はじめ神戸の花隈英学校に入学、翌十年神田孝平が兵庫縣令の任を解かれ文部少輔として東京に移るのに従い東京神田共立学校に転じ、同十三年九月実母の希望もあり医学を志して東京大学予備門に入学するが、十五年二月に同校を退学している。退学の理由については詳らかではないが、予備門在学当時から画技は群を抜いており、そのため画家になることを希望して志望を変更したともおもわれる。神田は長原の希望を容認し、長原を小山正太郎にひきあわせた。小山の画塾での長原については先にみたとおりであるが、長原はこの期洋画を学ぶかたわら、神田孝平の養嗣子で英語学者の神田乃武に就いて英学を学んでいる。「怜悧なこの青年は神田さんに非常に愛せられてゐたし、長原君も又大に神田さんに私淑してゐたやうであった。人は感銘したことに最も影響されるものであるが、この神田さんが浮世絵や骨董の蒐集家であつたので、長原君はその整理を委任されたりした関係から、自身も非常に書斎骨董を愛し、殊に浮世絵に対する愛着が深かった。」という小林萬吾の回想▼15にあるように、この期以降も長原は神田の身辺にあってその所蔵品の整理にあたっている。また単に書画の整理にとどまらず、明治二十年の四月には神田に随伴して「奈良地方ニ於テ古器物ヲ寫シ」たり、神田の考古学の論文の挿図を描いたりしてもいたことを、その履歴書によって知ることができる。


神田家の、西欧文物への開明性と古美術収集にみられる日本趣味という二元性は、そこで少・青年期を過した長原に決定的な影響を与えている。その後の長原は意識的にこの二元性を止揚しようとしていた躓いたかに見え、また岡倉天心とも小山正太郎ともあいいれなかった原因をこの二元性にもとめることもできようが、それは後述することとして、ここでは長原が神田家において「ザ・ジャパン・パンチ」などの横浜での刊行物のほか、外国の書籍、諸雑誌さらには浮世絵等を通して、内外の漫画、挿絵に触れる機会が少なくなかったであろうことを指摘するにとどめたい。


▼14 神田孝平とモースとの関係については、佐原真「大森貝塚百年」(「考古学研究」第24巻第三、四号)参照。フェノロサとの関係については、山口静一『フェノロサ』(三省堂・昭和五十七年)上巻十六頁、一二二頁参照。ビゲローについても同上書参照。


▼15 小林萬吾「思ひ出片々」(「アトリエ」昭和六年一月号)

小林萬吾によれば、小林が長原と知りあった明治二十一年頃には、長原は油絵はかかずペン画を多く描いていて、その頃既に外国のペン画の雑誌などを集めていたという。▼16また藤島武二の回想には「漫画に就ては・鞄鱒[い造詣があって、十九世紀のフランスの有名な漫画家ギャバルニーとか、その以後のカランダッシュなどの作品集をしきりに集めていた様でした。」▼17とある。藤島が長原と知りあうのは明治二十九年になってからであるが、小林の語っている外国のペン画の雑誌がどのような種類のものであったかの一端をここからうかがうこともできよう。また藤島も同文中で触れているが、内田魯庵の『淡島椿岳』▼18に「洋画界の長老長原止水の如きは最も早くから椿岳を随喜した一人であった」として長原の椿岳作品の収集に触れている。あるいは「美術評論」二十五号(明治三十三年三月)の時文雑爼欄の「二六新報は我邦戯畫界に幾多清新の光明をあたへんとするものなりとの抱負を以て鳥羽ソウ正の筆蹟其他を傳ふ、一見識と稱すべし、聞く往年めざまし草にて毎巻讀畫界を悦ばせし長原孝太郎氏に(あた)かり居れりといふ」といった評言からも長原の漫画への関心の幅を知ることができよう。次にジョルジュ・ビゴーと長原との関係に触れておこう。長原はビゴーについて次のような談話を残している。


▼16 小林萬吾「故長原孝太郎追悼」(「美術新論」昭和六年一月号)


▼17 藤島武二「故長原孝太郎追悼」(「美術新論」昭和六年一月号)


▼18 『思ひ出す人々』(春秋社・大正十四年)所収



長原孝太郎〈店先〉(1889年作)本館蔵


「本國(フランス)へ歸った彼は今もなほ在世のことゝ思ふ。僕は彼が日本に居る當時、二三度逢ったことがある 。一度は彼がその頃住居してゐた市ヶ谷邊の寓居に、友人に連れられて訪ふたことがあった。彼は畳の上に日本  の机をすえて、その前に座り、マドロスパイプで煙草を喫ってゐた。一見して一寸一癖ありさうな人物に見えた。 彼は日本の陸軍省あたりに勤めてゐたといふ話であるが、僕が訪ねた時、彼の部屋には赤い布で腰の邊を纒った裸 体の油畫などがあったが、その頃の我々には「何といふ下品な畫を描く男だろう」と思はれた。
 彼が日本の風俗を描いた漫畫は外國の人々に賣って生活の助けとする為に描かれたものだ。無論日本人仲間などに は問題にはならなかった。しかし、今見ると、日本人の描いたものよりも面白いものが多いやうだ。」▼19


▼19 『近代日本漫画集』(中央美術社・昭和三年)

この長原とビゴーとの出会いの時期を、清水勲氏は明治二十年から二十一年初めの頃と推定している。▼20そして出会いの契機を、明治十八年報知社刊行の『諷世嘲俗・繋思談』(藤田茂吉・尾崎薦夫訳)が明治二十一年五月集成社から再び刊行されるに際して、前者のビゴーの銅版画挿絵を長原が石版画に描き直すための仕事上の必要からとされている。ビゴーの挿絵の仕事としては、この『繋思談』(明治十八年)のほか、『想夫恋』(明治十九年)、『鍛鉄場主』(明治十九年)などがあるが、ビゴーの『繋思談』第四図「景涅路婉少年を携えて走るの図」と前に触れた長原の『当世書生気質』第五号の挿絵(明治十八年)とを比較すると(写真参照)そこには多くの類似性(たとえば構図、建物の処理法)がうかがえ、清水氏が推定された両者の出会いよりも早く、長原はビゴーの仕事に関心を持ち影響を受けてきたのではないかと思わせるものがある。長原の漫画や、ペン画による風俗画も、先に見てきたような時代・環境のなかで、直接てきにはビゴーによって触発されたものと考えてよいのかもしれない。ただ長原が「団々珍聞」の本多錦吉郎や、「経国美談」(矢野龍渓、明治十六年 十二月刊)の挿画を描いた亀井至一のように外国作品の移植的作画にとどまることなく、またビゴーの模倣に陥ってはいないことに注意すべきであろう。ビゴーと会ったと推定される明治二十年には「ジャパン・パンチ」が終刊となり、ビゴーの「トバエ」(第二次)が刊行されている。漫画だけによる小雑誌、あるいは駒絵の採用などビゴーが長原に及ぼした影響は明らかであると思われるが、ビゴーの「トバエ」を「とばゑ」として刊行するところに長原の面目があるというべきであろう。前述した「早稲田文学」の書評の、「とばゑ」が「西洋風の滑稽画を本として一新体を創めん」とする試みであると同時に「浮世絵の新式を興さん」とする試みであるという言葉は長原の真意を伝えてくれている。


▼20 清水勲『明治まんが遊覧船』(文芸春秋社・昭和五十九年)



『繋思談』挿図 ジョルジュ・ビゴー〈景浬路婉少年を携えて走るの図〉



『当世書生気質』第五号挿図 長原孝太郎

ところで、この「とばゑ」第三号に美術に関する漫画二点が掲載されている。一点は黒田清輝の〈朝妝図)に関するものである。もう一点は橋本雅邦の〈龍虎図〉に関するものである。いずれも、明治二十八年京都で開催された第四回内国勧業博覧会に出品された作品で、前者は裸体画問題として、後者はその作品の是非、審査の問題をめぐって、当時の新聞紙上において論争をひきおこしたものである。長原の漫画も、黒田の〈朝妝図〉については作品そのものへの批評ではなく、裸体画に対する観衆の反応への諷刺であり、雅邦の作品に関しては作品そのものへの諷刺となつており、後にみるように当時のジャーナリズムの視点と変わるところはない。浸画による美術批評という形式は、やはりビゴーの『ショッキング・オウ・ジャポン』(明治二十八年刊)にその発想を負っているものと思われるが、同書の正確な刊行月日が不明なため、長原、ビゴーいずれが先行するのか正確にはわからない。ビゴーも周知のように『ショッキング・オウ・ジャポン』において〈朝妝図〉をとりあげていて、これに関しては酒井忠康氏をはじめとして、清水勲氏などが詳述されているのでここでは省略する。


ビゴーの図と長原の図とを比較してみると、両者ともに観衆の反応を主題とする点では同様であるが、長原のものには呆然と口をあけて〈朝妝図〉を眺めている観衆を、その反応を冷やかに眺めている一人の男が描かれている点に、ビゴーのそれとは違った点がある。その男は、その容貌からみて黒田清輝その人である。そこに、ビゴーと長原との、黒田との関係の違いが読みとれそうである。ビゴーは『ショッキング・オウ・ジャパン』においてガネスコの名で黒田作品に対して「われわれが知っている化物はもう少し本物らしい化物のはずだ」と酷評している。こうした酷評の背後にあるビゴーと黒田との関係を酒井忠康氏は「フランス=アカデミズムにがんこにしがみついて、しかもわが国の官設展への支配的画風となっていった黒田にたいして、ピゴー自身いい印象はもっていなかったと考えられる。日本では一流でも、ビゴーからすれば、自分とそれほど差のあるものとは思っていなかったろう」▼21とされている。



長原孝太郎〈朝妝図〉



ジョルジュ・ビゴー〈朝妝図〉


▼21 酒井忠康『ビゴー画集』解説(岩崎美術社・昭和四十八年)


長原と黒田とが最初に会ったのは、小林萬吾によると明治二十八年、この第四回内国勧業博覧会の開催されていた京都でであったという。▼22


長原の図に黒田の顔があるのは、この図が黒田との面識以降に描かれたものであることを証しているが、長原が黒田からどのような印象を受けたかは想像によるほかはない。小林萬吾が「光風」に寄せた『吾々の十年前』という文章に、小林と黒田との出会いを語った一節がある。「明治二十八年に私は京都に行って居りまして、矢張繒畫を専門にやって居りました。けれども、何分思ふ程畫けませんので、終には今一度昔に立ち歸って、極初歩から眞真面目に之を研究して見たいと思って居りましたが、黒田先生の畫を見てから謚々さう決心する様になりました。其時丁度先生も京都にきて居られましたので、私は三木樹月波樓の奥座敷で初めて御目にかゝりそれからのちは度々上って其方面のお話を伺ったり、また其研究の方法を種々教はりました。」


黒田はこの期京都にあって〈昔語り図〉の構想を練るとともに、さかんに安藤仲太郎や中村勝治郎と交友しているが、こうしたなかで安藤を頼って京都にやってきた小林萬吾と会っている。小林は東京に帰ると天真道場に入り黒田の指導を受けるようになる。長原も小林同様、安藤とは親しい関係にあったから、黒田との出会いも小林と同様なものであったであろう。長原が黒田に初めて会ったのはこの明治二十八年であったが、これ以前に長原によると思われる黒田への言及があるので紹介しておきたい。それは明治二十七年十月二十八日の二六新報に掲載されたX・Y・Zという署名の「明治美術曾漫評」という標題の明治美術会第六回展覧会の批評記事である。この第六回展には、黒田の〈朝妝図〉等の滞欧作と帰国後の作品が陳列された。これらに対する批評は「毎日新聞」が「油画彫刻展覧会を観る」と題して十月十三日から十一月十四日まで七回にわたって連載した記事のほかは紹介されることがないので、全文を以下に掲げておく。


明治美術曾漫評
               X・Y・Z


同曾の油繒彫刻展覧会は例によって上野に開かれ又例によって所謂名家の出品なきは如何なる情実のあるにや吾輩門外漢には天機容易に窺知るべきにはあらねど苟くも明治美術曾といへるに対しても少しは知名の作を出しき者なり 如何に羊頭を懸けて狗肉をひさぐ世の中とて是には餘りにアッケなし 先ず記者が一通り覧たる所にては油繒の部にて黒田清輝氏の「下碑」「摘草」「裸美人」この三点最も見る可し 就中「摘草」は運筆着色共に淡々の中に軽妙の技を弄し而かも意匠の斬新なるを見る 盖し黒田氏は佛国に遊びたる人と聞けば思ふに彼のイムプレッショニスト一派の流れを汲む者ならむ 然りながら此の画風は只管古に泥みて端荘華麗を以て美術の神髄となすアカデミー派の陣腐を厭ひたる反動の結果なれば奇抜なりと雖も凡才の人之を学ばば終に狼籍無紀の弊に陥るべし  凡そ芸術の作は其の平坦ならむよりは寧ろ奇抜を貴ふこと古今東西常に然り 豪放は必しも咎むべきにあらずと雖も大雅にして始めて大雅の画を成すべし コランに非ずして此の流を擬す眞に危い哉 佛人の曾て之を諷して戯れに狂画を作りし者あり 読者之を見て仔細に翫味せば思半ばに過ぎなむとて左に転写す 然れども記者は敢て黒田氏を以て庸才の画家と謂ふにあらず 必ず大雅の伊孚九に於るが如くなるを信ずる者なり 彫刻の部にて大熊某の『坂本少佐』大いに拙し 『ガンペッタ』は無類の出来にして同じ此の人の手に成れる物にて斯まで功拙の差あるは如何にと怪しみたるに同行の友人笑ひながら然ばかり怪しむべき事かは此に頬したる彫刻を先年大陸にて見たる事ありしと語りぬ 同氏の『戸田伯』はその人に親灸せる記者には一見して其人に似ざる事を知りたり 且つ此のバストには一種の光沢ありて面も賓都廬(ビンズル)の如き観ありしは銅製の為なりとはいへど大に伯の風釆を損じたり 長沼某の『ガリバルジー』は改鼠自在なるパステリナ製のものなれば取り分けて評すべき価値なしと雖も後頭の突起あまり低きが為め頭の扁平に見えたるは奇異の骨相といふべし 此他の作孰れも評するに足らず 何分にも出品の少なきため何となく寂しげに見えたるも果敢なしや。
      (註*文中にカランダッシュの“Le Peintre Impressioniste'を転写した挿図あり)


この文章が長原孝太郎によって書かれたものではないかとする主要な根拠は、(一)黒田を評するに際してカランダッシュの印象派に対する諷刺画を採用、転写していること、(二)「二六新報」に掲載されたこと、(三)黒田とコランとの関係を大雅伊孚九との関係になぞらえていること、(四)美術に相当精通していながら明治美術とは関係をもっていないらしいことの四点である。(一)については既に長原がカランダッシュなど外国の漫画に早くから関心を寄せ雑誌等を集めていたことを述べたので説明を要しないであろう。(二)については、長原は「二六新報」に美術担当として「二六新報」の創刊(明治二十六年)直後から関与していたらしい。その主な仕事は写真がわりの挿画の原画作成であったが、時おり漫画や市井風俗のスケッチをのせている。これまでに「二六新報」誌上に確認し得た長原の仕事の最も早いものは、明治二十七年五月六日第一三七号の第三面全面を用いた七駒漫画で画解が附されているものである。これには長原の署名がないが、画体から見て長原と考えてよい。これ以後長原のものと見られる挿絵、漫画がときおり見られるが、長原の署名がはいるのは、二十七年八月一日以降でこれ以後のものはほとんど署名がなされている。特に九月以降長原の挿画の掲載される頻度が高くなり、殆んど毎日のように出てくる。その主なものを挙げれば、九月五日から十日までの「千島密猟論」挿絵、九月二十三日から十月十日まで「支那人物」挿絵、十月十日より十二月九日までの「支那雑画」挿絵である。「支那人物」「支那雑画」の両シリーズは日清戦争のためのものであるがパリのル・モンド・イリュストレー社が黒田清輝を、ロンドンのグラフィック社がビゴーを、あるいは国民新聞が久保田米遷を派遣して戦争の現場の生々しい状況を伝えたのに対して、「二六新報」社は経済的理由のためか、あるいは長原が官職(理科大学助手)にあったためか戦地に画家を派遣することなく、写真から長原に原画をおこさせそれを掲載している。「明治美術会漫評」の載った十月二十八日の同じ紙面に「米遷氏の名誉」として当時大本営のおかれていた広島の特派員からの電報が載せられている。「病体を杖に支へつゝ平壌の戦況を視察したる久保田米遷氏は歸朝後廣島に船橋里の實戦闘を畫く圖遂に天覧を忝うし・・・」というものである。またやはり同一の紙上には「佛國の畫工及新聞記者の従軍」として「佛國畫工ビゴー氏は日清戦闘の實況を描寫する目的にて大山大將の率ゐたる第二軍に従軍」という記事も見える。長原と関係の深い二人がはからずもそこに消息を記録されているのである。それはともかくとして、「二六新報」に関係の深かった画家としては小林清親がいる。清親は明治二十六年の創刊時に「二六新報」に入社したとされるがこの期には清親のものを見出すことができなかった。長原孝太郎と「二六新報」との関係はこの後も長く続き、先に見たように鳥羽僧正などの諷刺画の紹介などもその紙面でおこなっているのであるから、そこに批評文を寄せたとしてもおかしくはないであろう。(三)の黒田のコランに対する関係が、大雅の伊孚九に対する関係となるよう望むという一節は、単に外来文化の移植にとどまらず、それを越えた一つの様式を確立するという長原の持論の反映であろうと思われる。(四)については、先に述べたように長原が、明治美術会に対する批判者としてその外側にあったことをあげればよいであろう。この評においては黒田以外の画家は黙殺されている。


以上四点のほかに、「筆者が親灸せる戸田伯」といった記述からも筆者が長原であることの傍証を得られそうに思われる。「戸田伯」は戸田氏共(一八五四~一九三六)で、大垣藩主戸田氏正の五男として生まれ、明治四年アメリカに留学し、のちにオーストラリア特命全権公使、式部長官などをつとめている。長原が英学を学んだ神田乃武も明治四年森有礼にに従ってアメリカに留学しているので帰国後も交友があったと考えられる。そうしたなかで長原も戸田を知る機会があったかに思われる。


長原がこののち大熊氏廣の〈大村益次郎像〉を諷した漫画を「めざまし草」に発表していることもつけ加えておこう。


この筆者が長原であるとすれば、文中の西欧留学の経験のあるらしい「同行の友人」は原田直次郎であるかもしれない。


ここで評者のあげた黒田の作品の〈下婢〉は〈婦人図(厨房)〉、〈摘草〉は〈摘草をする女〉、〈裸美人〉は〈朝妝〉にあたるのであろう。いずれも滞欧作である。評者が率直に黒田を高く評価し、好意的でもあるのは、大熊や長沼に対しては「大熊某」「長沼某」とするのに対し、黒田だけは「黒田清輝氏」としていることからもうかがえよう。


この評者が長原孝太郎であるならば、既にこの期に長原は漫画による美術批評という形式のあることを知っており、またそれが批評として有効なものであるということも知っていたことになる。先に長原がこの形式を採用したのは、直接的にはビゴーの『ショッキング・オウ・ジャポン』に触発されたためではないかとしたが、それをすばやく易々と消化してしまう能力はそうした蓄積が背後にあってのことであろう。


長原と黒田との関係にもどろう。長原の履歴書には「明治二十八年七月、黒田清輝氏二就き洋畫ノ指導ヲ受ク」とある。黒田はこの年博覧会終了後も京都にあって制作を続けているから先に引用した、長原が黒田にはじめて会ったのが京都であったという小林萬吾の記憶とも一致する。ただ小林萬吾が、東京に帰ったのち、天真道場に入塾したのに対し長原が天真道場で学んだのかどうかは詳らかでない。黒田清輝の日記に長原の名が登場するのは、翌明治二十九年四月二十五日になってからである。黒田は四月二十二日、東京美術学校に新設されることとなった西洋画科の準備のために京都から東京に帰り、岡倉とその日のうちに会っている。二十五日、黒田は長原を訪ねるが長原は留守であったため、その足で小山正太郎を訪れている。翌二十六日、今度は長原が黒田の家を訪れる。五月二日の黒田日記には次のようにある。


「約束通り十一時ニ衆議院ニ行き肖像をかき始めた 十二時迄仕事して出るとあたらし橋で大熊ニ出遭ひ一緒ニおすましの内でめしを食ひ別れて淡路町で靴を買ひ初音町ニ行て岡倉氏を訪ひ外國へ注文する一件や長原の事など話し圍子坂に行き一寸長田へ寄り又小山へ寄った どっちも亭主は留守で妻君ニ逢った それから長原を尋ねて今日岡倉氏との談判の結果を知らせ一緒ニ出て伊豫紋で晩めし 食・纉lでぼつぼつ散歩し神保町の邊へ一緒ニ来た」 この一連の接触は、長原によると次のようなことであった。


▼22 小林萬吾「故長長原孝太郎追悼」

「明治二十六年に帰朝した黒田君が、其後美術学校に新設された洋画部の主任となった時 私も同君の抜躍で助  教授といふことになる筈だったが、岡倉君が私と合はないので、といふよりも私を好かなかった為にとうとう  私は就任しなかった。」▼23


長原と岡倉天心との確執は後に触れるとして、なぜ黒田は、東京府工芸共進会以来、油彩画に特にこれといった実績のない長原を助教授に推薦しようとしたのであろうか。長年培ってきた素描力が評価されたためであろうか。あるいは旧友安藤仲太郎の推薦によるものであろうか。長年培ってきた素描力が評価されたためであろうか。あるいは旧友安藤仲太郎の推薦によるものであろうか。この間の経緯は、白馬会の成立の経緯とともに複雑で不明瞭な点が多い。特に小山正太郎の動き、黒田との関係は不可解なものがある。


▼23 長原孝太郎「私の畫學生時代」(「アトリエ」第三巻第九号・大正十五年八月)

白馬会への長原への参加は、黒田の安藤宛書簡(明治二十九年九月十六日附)によると、九月十六日には未だ会員となっておらず、書簡では「岩村、長原へは是非二,三中に逢って話をする積りだ」と黒田は記しているが、黒田と長原が会うのは九月二十七日の朝である。九月三十日の芝浦・大野屋での白馬会員の会合には長原も出席している。第一回白馬会展には長原は〈森川町遠望〉(水彩)、〈牛屋〉(狂画)、〈焼芋屋〉(狂画)、〈車夫〉(狂画)の四点を出品している。白馬会への参加の決心が遅れたためか、油彩画の制作をその当時していなかったためか、出品作は全て小品の水彩・漫画であつた。だがそれは会員の自由、平等をうたった白馬会の発足にふさわしいものでもあった。黒田も漫画には関心を持っていた様子で、同年の七月四日の日記には「ブレール・ブルス氏からカランダーシュの畫が來て居た 實二うれしく寝られない様だ」と記しているが、他の会員にも長原の浸画が概ね好評であったことは、「彿國當世の流行男Steinlenをして此程の光景を寫さしむるも、これに優したる趣は見ざるべし」 という久米桂一郎の、〈牛肉屋〉評からもうかがえる。▼24しかし翌年の第二回展以後は狂画(漫画)の出品はない。この期以降、長原は黒田の影響を強く受け、その技術の摂取に傾いていったといえよう。その後の経緯は森口多里が次のように的確に言いあてている。


▼24 「美術評論」第十一号。

「かくして彼は黒田の輸入した印象主義の衣裳を身につけたが、その新しい衣裳を着てからの身振りには迷ったらしい。身振りまでも、もっと突込んで言へば身振りを強要する心理までも、フランス風の印象主義になることは、彼の本来の「和魂」が許さなかったのである。印象主義画家は色のトナリテまたはリリスムを本位として自然観照した、従って感覚的であり享楽的であった、しかし長原の「和魂」はそれだけでは満足出来なくて何かしら想念的なものを求めその結果が理想主義的な  モチーフになったり、装飾的な屏風絵になったりした。」▼25


長原が想念的なものを求めはじめるのは明治四十一年、第二回文展に出品した〈平和〉以降のことであり、第三回文展の〈入道雲〉、第四回文展の「風伯」と次第にその傾向を強めていくが、明治三十年代の白馬会時代は〈子守〉(明治三十四年)、〈停車場の夜〉(明治四十年)など、黒田の〈昔語り〉をはじめとする白馬会の一連の風俗画の範疇におさまる仕事をしている。


▼25 森口多里「長原孝太郎のペン画と漫画」(「みづゑ」第三四二号・三号・昭和八年

長原が黒田の砕から外へ踏みだし、やがて内田魯庵から「一方には洋畫家の長原氏や橋本氏等が次第に日本畫に近づいて来る。唯獨り日本に於けるのみならず欧州大陸に於ても仏蘭西の後期印象派の諸家や最も極端なる獨逸のカンディンスキーの如き皆東洋畫の影響を受けてをるは争はれない事実で、東西美術は次第に融合一致せんとする趨勢を示してをる。」▼26と評される状況のなかに身をおくようになった原因は、森口多里の指摘するように「和魂」に求められようが、その「和魂」を構成する諸因子については更に考究されなければならないだろう。またその変貌の経緯に原田直次郎の影を見ないわけにはいかないだろう。長原はこの「とばゑ」における《朝妝》の他、「めざまし草」においても黒田の《智・感・情》をとりあげている。長原の漫画の対象となった洋画家は黒田清輝ただ一人である。長原にとって黒田との解逅がどのような意味をもつものであったのかについては、「めざまし草」の長原漫画を見る際にあらためて考えてみたい。(未完)


▼26 内田魯庵『気まぐれ日記』(「太陽」明治四十五年七月~十二月)十一月五日の条。

(まきのけんいちろう・学芸員)


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