第2回具象絵画ビエンナーレより+ミニ用語解説「カプリッチオ」+岡鹿之助《廃墟》+エッシャー《物見の塔》
第2回具象絵画ビ工ンナーレより + ミニ用語解説:カプリッチオ + |
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館蔵品から表紙解説 裏表紙解説 |
岡鹿之助(1898-1972) 《廃墟》 1962年 油彩 45.5×37.9cm モーリツ・コルネリス・エッシャー(1898-1972) 《物見の塔》 1958年 石版画 46.1×29.5cm |
身近なところでは例えば人がいなくなった後の学校-自分のからだとそれよりずっと尺度の大きな建物の合間に、何かを、と云うか何かの響きを感じた事は無いだろうか。視線の外にある璧の向こうや階投の下乃至上、廊下の存在をあらかじめ知っている事が、そうした感じの裏付けとなっているのだろう。からだの動きによって生じ感じられる親密な空間、或るいは自然の唯中個我など融かしてしまう無限そのものであるような空間;空間にはこれら原初的なもの以外に、具体的な境界があり、その場が物であるために空虚として感じられるのだが、空虚が今度は物である境との対比の内に兆しをそして時間を孕む、と云ったものがある。この空間は人工の建築、とりわけ巨大なそれから生まれる。
遠藤彰子の『とばり』(図1)-回廊や階段は人がそこに落ち着く場所ではなく、過程また隔たりとして存在している。それらが錯綜する画面は、そのまま解き得ぬ謎としての現実の寓意と、さらに重層する空間に畳み込まれた時間の堆積によってか別の世界の風景と化す。押し潰されたかの如く寸詰まりの人間たちと魚眼流に湾曲した視野が、視る者を内に引きずり込んでしまうだろう。遠藤の構図はしばしばエッシャーと比較されるが後者にはさらに、17世紀初頭のフレデマン・デ・フリースの透視図法の画集のような先例がある。
これらの構図は皆遠近法、言い換えれば視る者がその中に入り込めるような空間の捉え方を前提としている。絵画における建築モティーフの展開は線遠近法と密接に結びついており、特に舞台装置との関連から建築のみで占められた画面が制作されたりしたが、独立したジャンルが成立するのは17世紀のオランダにおいてで、そこには市民の写実主義への嗜好が強く作用したと説明されている。ゴヤの『気紛れ(ロス・カプリチョス)』や彼に影響を与えたティエポロ、さらに遡ってカロの同題の連作は人間の在り様を諷刺したものだが、〈気紛れCapriccio〉の語はより限定された意味で用いられる事が少なくない。即ち建築を主なモティーフとし、現実には存在しない空想的な風景を描く画題を指す。建築は実在のものを範とする場合もしない場合もあり、しばしば廃墟が取り上げられる。先に触れたイタリアでの舞台装飾と関連する郁市図、フリースらの透視法のための教材風の建築画(界画による楼閣図と比較できよう)、17世紀の街景図などを先駆けに、特に18世紀のヴェネツィアで好んで制作され、パンニーニ、グァルディ、それにピラネージ等を代表とする。
本館蔵のエッシャーの『物見の塔』(裏表紙図版)も、図像上カプリッチオ或いは透視法の見本図の系譜に属している。左下の図面と模型を見比べる人物は、かつての建築画に現れる技師の像を思い起こさせる。四阿の現実にあり得ない構造は、幾何学的な遊びである以上に、始めに記したような空間の不思議さを感覚として視る者に伝える。
カプリッチオにせよ街景図にせよジャンルとして独立はしたものの、歴史画と同等の価値を持っていると考えられたわけではない。近代までの絵画の在り方が崩壊して後の現代美術は、かつてなら断片としか見なされなかったであろうものをそれだけで取り上げ、以てその奥にある全体性を一挙に照射しようとした。抽象美術ならばそれは色や形その他美術上の形式なのだが-以前は形は現実に、そして形には個別的な意味が応じていなければならなかった-、具象にあっても事情は変わらず、画題としては二次的な価値しか持たなかった建築が、遠藤では迷宮としての世界、エッシヤーでは空間の錯綜との根源性を帯びた主題を呈示している。
断片化は今まで見えなかった相を顕わにする一方、しかし否応なく作品を観念的なものとする。高橋常政の“Festina lente”(図 2)における建造物は、尺度の曖昧さが示す如く、戯れる夢想の玩具のようなものなのだが、建築であるために、夢の小宇宙の機構を支えるカラクリとして中央を占めている。逆遠近法、湾曲する遠景;色相の明るさなどが画面に装飾的な軽快さをもたらす。本館蔵の『廃墟』(表紙図版)で古いタイプの具象画家とも見える岡鹿之肋は、静謐な点描法によって画面を生けるものとしての建築の肖像にしている。建築は内部を虚とするが故に、漂う夢想を内に滑り込ませる事ができるのだ。入り組んだ外観はただちに内部の錯綜の反映となる。川口起美雄の『プラートのバジリカ』(図3)もまた、外から眺められた建築を大きく配している。輪郭を明瞭に句切りつつ塊量性を失わない細密な描写(その枠内で壁の部分は筆致を残す)と、夜のなか光源なしで建物を明るく照らす賦彩とが画面に緊張した不安感を与え、ぶら下がる枝や散らばった櫂、正面の扉のまえ宙に浮く幾つかの赤い実のようなものが、この中で起こった或いは起こるであろう異変を暗示している。
規模大きな建築はおそらく、洞窟に充ちた大地の在り様と結びついている。しかしその外形が多少とも生動を殺した幾何学性を帯びざるを得ないためか、内部の空虚は時をとどこおらせる事になる。廊下の向こう、階段の上或いは下を走り抜けるのは、起こらなかった出来事の記憶であろう。
(石崎勝基・学芸員)
図1 遠藤彰子『とばり』
図2 高橋常政“Festina lente”
図3 川口起美雄『プラートのバジリカ』
友の会だよりno.15, 1987.7.10