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洋画家島田章三を訪ねて

青く抜けるような秋空の日に、現代洋画界の重鎮、島田章三先生の取材に名古屋のお宅へ伺った。

お住まいは名古屋の西に位置し、緑に囲まれた丘陵地にある。瀟酒な洋風の建物は、周囲の緑に溶け込み、一瞬異国に来たような錯覚に因われた。木々と草花に囲まれた石段を上ると、玄関脇に植えられたホトトギスの花が、秋風に揺られていた。

チャイムの音と同時にドアーが開き、「どうぞ、どうぞ。」と美しい奥様の笑顔に緊張のほぐれた私達は、応接間へと案内された。

アンティークな家具や飾り付けが、外観通り異国風で、その中で先程見かけたホトトギスの一枝が、ワイングラスに挿してあり、何か心温まる思いにかられた。壁にはブラックのポスターが懸けられブラック自身の字で「ブラック展」とカタ仮名で描かれているのが印象的だった。

応接間では、先生がにこやかに迎えて下さった。挨拶の後今日の訪問の趣旨を説明して先生のお話を伺うことにした。


おいたち

先生は1933年横須賀に生まれる。父は浦賀ドックで客船のインテリアデザイナー、母は歌人であった。その島田家の三男にして、章三と名付けられる。長兄陽一は軍人で戦争で亡くなり、次兄修二は有名な歌人で朝日歌壇の選者として知られている。

幼い頃からデザイン雑誌、美術全集、文学全集に囲まれ恵まれた環境の家庭に育った先生は、画家への道へと進まれた。

現在鮎子夫人と、二人住まい。鮎子夫人は最初ピアニストになるつもりだった。しかし、音は消えてしまうが、絵は残るからと、画家の道を選択された。そして、東京芸大で同級であった先生と共に勉強され今日に至っている。


名古屋に根を下ろして30年

名古屋に来られる前は、結婚して東京の大森に住んでおられた。その当時、東京芸大の伊藤廉先生から、愛知に芸大を開設するので手伝ってほしいと言われ、愛知県立芸術大学講師として1966年に赴任された。

赴任当時は、住まいも小さくアトリエに苦労された。それで大学の研究室をアトリエとして夜遅くまで制作に使われた。その後、現在の地に移られた。お二人のアトリエは、自宅の二階にあり、階段を挟んで左右対象に全く同じ間取りになっている。天窓から太陽の光が注ぐ素敵なアトリエである。


抽象か具象かの狭間で

抽象に進むのが流行だった戦後について次のように語っておられた。「僕達の世代は、抽象か具象か、前衛か保守かを問われた二者択一の時代だった。芸大にいる時から僕は、抽象とか、前衛、右とか左とかいった考えで仕事をしていなかった。中庸というか、いつもニュートラルな、気持ちでいた。抽象に進まずに今までやってきたことが、今日まで長く持続できたと思っている。芸大の先輩や同僚の一部には、既成のものに反発してより抽象の方向に、走ったり、またより自然主義にとどまった人もいました。私が愛知芸大に招かれたのは、ニュートラルにいたお陰だと思っている。そうは言っても自分の中には、何時も変革しなければという気持ちはあった。戦後この時期に、抽象か具象かの狭間で随分悩んだが、初心貫徹してきたことが、結局、今の自分にとって良かったと思う。」


ヨーロッパ海外研修

「第11回安井賞を受賞した翌年(1968年)に愛知県在外研修員として1年間ヨーロッパに留学することになった。このヨーロッパ研修で、初めて日本を離れ、さまざまな因われから解放され、特にフランスでは自由になれた。そして、今まで一つの物語や神話から物を描こうとしてきたが、ブラックなどの絵を見て、目の前にコップとか机があれば、それをそのまま造形して描く仕方があるんだと分かり、物は自分で造形でつくっていくものだという考えができた。物の造り方とか、空間の扱い方などが勉強になり、このヨーロッパの体験が、今日の島田章三独自の『かたちびと』への足掛かりとなった。」


アンティークコレクション

「趣味は描くことだけかなぁ」と言われたが「アンティークなものにも心を引かれます。」との言葉通り、応接間の飾り棚には、留学中から集められた外国製の香水瓶が並んでいた。それらのコレクションは、全て素晴らしく、目を見張るものであった。「どちらかと言えば、アールヌーボーよりもアールデコの方が好きです。」とバカラ社製で布袋様の形をした珍しいものも見せて下さった。

「誰しも香水瓶など使ってしまえば捨ててしまう。だからこそはかなく珍しいものだという思いから、集めたものです。瓶に光が入り、美しく輝く様を眺めていると触発されるものがある。同じ物が同じ物でなく異なったものとして見えてくる。それらが頭に残り、自然と『かたちづくり』の想いが湧いてくるのだ。」と語られた。

ピアノ上には先生が15才の頃に、アルバイトまでして買ったというウェッジウッドの飾り皿が今も大切に飾ってあり、それらが不思議と応接間のアンティークな雰囲気に溶け込んでいた。


島田章三の夢

「自分の仕事一点一点が、島田章三という一本の線になって、それがどれだけ持続できるかが夢です。今迄の一本の線を少しでも補うように、老化と戦いながらどのように維持していくかが課題です。テーマ『かたちびと』は、私が生きている時にいる場所、つまり場をテーマとして、そこに人を描いていく、それがこの先どう行き着くかです。人物は生涯のテーマです。」と、さらなる制作への熱い思いを語られた。


『かたちびと』島田章三展にむけて

「今度の三重で開催する展覧会では、一枚一枚の絵を個々に見ていただくのではなく、個々の絵つまり一つ一つの点をつなげて一本の線として見ていただきたい。戦後の作家のひとりである島田章三がどういったことを考えて来たのか、その道程を見て下さい。」

三重の美術館は、「導入部がいいです。緑が映えて重厚な感じがし、いいコレクションを沢山持っている。日本中の美術館の中で一番、外観と内容が立派ですよ。」とお誉めの言葉を頂いた。

「その美術館で私の展覧会が開催されるのはうれしい。」と心待ちにされています。

「美術館に足を運び、仕事を忘れて作品を観ることは、精神衛生上とても良く、次ぎ次ぎと絵が変わるのをワクワクして観ることができる。もっとたくさんの人が、大いに美術館を利用してほしいです。」と強調された。

私達の愚問、奇問?にも心良く答えて頂き、お人柄の素晴らしさにも魅了された。今日一日楽しく取材させていただいたことを感謝して先生と奥様に別れを告げた。

門の所まで見送って下さったご夫婦のお姿が今も心に残っています。

(広報活動部)

友の会だより 49号より、1998・11・25

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