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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1997 > 続・<移動>展の会場を移動して迷子になるためのガイド 石崎勝基 友の会だより no.46, 1997.12.20

【展覧会案内】
<移動>-バレンシアの七人展
(10/25(土)-2/8(日)

続・<移動>展の会場を移動して迷子になるためのガイド

石崎勝基(学芸員)

その一:すっからかん

この展覧会のコミッショナーをつとめたフェルナンド・カストロ氏による、カタログのためのいささか晦渋な諸テクストをくっていると、一度ならず<空虚>だとか<不在>といったことばに出くわします。これらの概念は、<現前>の対立項として設定されていると考えることができるでしょう。つまり、何か目の前に現にあるもの、ひいては真実に存在するとされる何かを価値ある中心と見なすことによって、派生物や周縁を二次的なものとして抑圧・排除するのではなく、いかなる事象も他の事象との関係において成立するのであり、目の前にあるものも、今はない何かとの相互からのずれや遅延、痕跡か予感としてしかありえないのではないかという見方が背景にあるようなのです。

理屈はともかく、今回展示されている作品も、作品である以上物としての形をとってはいますが、いずれも、物それだけで自足してはおらず、それらがひきこみ重ねあわせさせる、空間や時間、イメージや観念との関係の内で表現として成立しています。もとよりこの点だけとれば、近代以前の、たとえば宗教芸術ではあたりまえのことでした。それに対しここでは、物と空間、時間、イメージ、観念などなどとの関係が、一義的に決定され後者に回収されるのではなく、関係自体が宙吊りのまま放りだされ、最終的な回答をさしだすことがありません。だからこそ、<空虚>だの<不在>といったことばが浮上してくるのでしょう。


その二:ひそひそざわざわ

とはいえ、これらの作品において物の部分が、単なるきっかけでしかないといいきることもできますまい。それどころか、ナバッロのアルミニウムと亜鉛、ソトの鋼や蝋、ナバローンのビロード、サンレオーンのテント用シート、カルデイスのウラリータやグラファイト、マルコの鉄や油、アスファルトにゴム、カルボの粘土やさまざまな廃物、石膏などは、作品の表情のみならず、それらがひきよせる不在の何かの予感ないし痕跡に対して、きわめて大きな役割をはたしています。

これらの素材はいずれも、決して大声で自己主張するようなものではありません。その点それらがまとっている色も、グレー、黒、褐色、白など地味で沈みこむたちのものが大半です。ナバローンのビロードの紅でさえ、一見華やかそうでいて、むしろそれ以上に、何かを包みこもうとするかのように、内に向かっていはしないでしょうか。もっともニュートラルに見えるナバッロのアルミニウムと亜鉛も、そのマットさと稠密さは、固有の存在感を放っています。

つまるところこれらの物は、その沈潜した性格ゆえ逆に、作者のあやつる道具であるにおさまらず、作者の意向によって支配されきることのない物としてのそれぞれのあり方を、見る者に語りかけずにいないのでしょう。


その三:ぴょんぴょんふらふらどどっずるずるこっそり

とすればここでも、物が具体的に作品の中で占めている位置だけでなく、物が物であることによって、外部から作品の内に呼びこむ何かが問題なのでしょう。これを一つの、<移動>と見なすことができるかもしれません。<移動/置き換え>という概念は、カストロ氏のテクストの中でもさまざまな用いられ方がなされており、一つの意味に限定することはできそうにありませんが、ここでは仮の一例として、形ある物とその外部との相互に流動的な関係ととらえてみましょう。

それはたとえば、ソトの小さなパーツとまわりの空間であるとか、カルデイスのジャケットと中の空洞など、物とからっぽの空間との相互の移行の場合もあれば、ナバッロの都市の過去や未来における変化の可能性であるとか、カルボの廃物が宿してきた過去の時間の堆積のように、現在以外の時間の侵入といった場合もあることでしょう。もちろん、空間と時間は截然と分けられるわけではなく、たがいに置き換えることができるはずです。たとえばソトのからっぽのひろがりは、その中を移動するための時間の厚みをはらんでいはしないでしょうか。文字どおり<通行>をテーマとするマルコの作品では、空間の移動と時間の移動は切りはなしようもありません。また見逃せないのは、ソトやマルコにおける経路、ナバッロとサンレオーンにおける都市、カルボにおける作業場や墓地など、建築から/への移動/置き換えです。さらに、カルデイスの素描における平面と彫刻の交通、ナバローンにおける人体と寝台、「鎮痛と恐れ」のいれかわりなど、さまざまな視点の組みかえが可能なように思われます。

そして以上は、ありうべき視点の移動のほんの数例でしかありません。物とその布置が特定の相において現われているのだから、解釈が無限だといっては嘘になるでしょうが、他の見方に移動できないものかどうか、迷子になるほどにたえず問いつづけることこそが、<移動>という問題設定に対する的を射たとりくみ方なのではないでしょうか?

友の会だより no.46, 1997.12.20

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