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麻生三郎展

むしやはなくさを とることは かたくおことわり いたします

東 俊郎

たとえば麻生三郎は1966年にかいた『木を切ることは胴体をひくことだ』のなかで、こんなことをいっている。

南多摩に安養寺という寺があるが、その時の付近にすばらしくよくのびた欅の大木がある。その下を通る時、わたしは空を見上げるのであるが、大木のかたちは生命そのものの彫刻だし、空のひろがりと、木の幹の動きは広い空間を抱きかかえて美しい。これはまったく生命の美しさだと感嘆する。

人間のつくったものには、それがどのようなかたちのものでも、また逸れていても、人間はけっして満足しないだろうが、木はそこに木があることだけで美しいのだ

麻生三郎はきっとコワモテする画家のひとりだろう。ルノワールのようにちかくで愛撫されずに、松本竣介みたいに詩人の抒情を感じない。かれの絵はたたかう絵であり、その絵画のたたかいは激しいから、ひとはすこし離れたところによけているよけながら、この画家はなんだか気むずかしそうで、頑固でなかなか人にゆずらず、絵かきなんてみんなそうだけど、この人もどこからふつうじゃないのでは……などと、つい思ってしまうのは、これはこれで自然なのかもしれない。なにしろその絵が絵で、人の手や足が切断されて、目玉だけが暗い闇の中に不気味な光をはなって、明るい空も広い野原も、そこをふきぬける爽やかな風もなく、ひたすら思いが重く滞留してウットウしいのだから。

しかしまあ、そんなことはどうでもいいのだ。だいじなのは、どんな人工の巧みにもまして、いっぽんの木のほうにつよく生命のちからを感受するのが麻生だということであって、それは同時に「自然のあるがままのかたちをそのまま感じるときのその驚き」につつまれた瞬間なのである。すべてを失っても、この素直な驚きさえあれば、原始の生命のちからはわが身体にあり、その泉にわくエネルギーによって絵をかきつづけることができる。と麻生三郎はかたく信じて、ここまでやってきた。だからかれは生命を否定した絵はぜったいに一枚もえがいていない。生命を否定するものを否定しているのが麻生三郎の絵であり、たとえ裏がえしになっても歪んでもねじれてもいつだって生命の賛歌をうたっている。そして壊れそうにみえて壊れないそういう生命の、もっとも単純明快なかたちとして木があった。だから人間もまた木なのである。そこに人間としてあることだけで美しくあることを願いながら、どうみてもまだそこまで美しくない一種の樹木のようなものとして。それならついでに、ときどき訪ねるお寺の木々にふれて、柔らかなこころをひろげてみせたこういうのも引用したくなる。

山門までの広い樹木のかさなりあう丘の眺めはいまではなくなった自然の風景の大きさである。そして木が深く、木の葉のしげみのかたまりの黒いみどりの闇のなかには、その一つ一つ葉や枝にはいきもののいのちの気配がして魑魅の集りのざわめきにかわる。風があって闇のなかの木立の黒はかげがふかくつかみどころがない黒だ。寺は平地と傾斜面との地形であって丘の全体のかたまりは樹木の自然さである。

この場所はこれからもながくこのままにしておきたい。「このおてらにおいて、むしやはなくさをとることはかたくおことわりいたします。星宿山 王褝寺」と書いた立札があった。

(ひがししゅんろう 学芸員)

友の会だより 38号より、1995・3・1

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