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作家訪問〈3〉 森谷重夫

陽ざしの暖かい大寒の午下り、洋画家森谷重夫氏のアトリエには、制作中の女人画、高い三角天窓から入る光の中に輝いていた。

「中学4年までは、絵なんて大嫌いだったよ」と、森谷先生のお口から笑いと一緒に飛び出す言葉に"おやっ"と、みんなは怪訝な顔。そんな私達におかまいなく画家として今日までの歩みを話される。私達はじっとお話に耳を傾ける。

「僕は、韓国で生まれた。全羅北海に住み、日本人学校に5年生まで学んだ。日本で勉強させたいという父の希望で、岐阜の叔母を頼って一人旅。その時、僕は何故か一人でもやれる自身がついたような気がした」と、少年の頃の気迫が、今もなお脈うっておられるようだった。

「中学2年まで岐阜加納第二中学校に学ぶ。3年の時、弟が急死、父の許に戻り、朝鮮郡山中学校へ転校。日本の文部省検定と、朝鮮総督府検定では、全く違う教科書に困り果てた僕は、自分自身の生き方をきめる決心をした。それは何か、人間共通のもの、音楽か美術か、と考えたがどちらも好きではない。丁度その頃、油絵がはやりだしていた。よし、俺もやってみよう。早速、寄宿舎にいた僕は父に手紙を書いた。『絵の勉強がしたい』と。手紙を見た父はすごく怒った。仕方なく仕方なく絵の勉強を諦めていた頃、父からの小包が届いた。恐る恐る開く。何と絵の具のセットだ。あんなに怒っていた父からの贈り物、驚くと同時に、よし、これで絵画かけるぞ、父の暖かい心に嬉し涙を流したのも遠い思い出のひとつ」と目が少し滲む。

「この時から僕の絵の修行が始まる。当時クラスの中で絵の具のセットを持っているのは誰もいなかった。「鮮展」(「日展」と酷似)の先生の許へ通って猛勉強。鮮展に二枚出品。一枚は先生の手直しの大きい絵、一枚は僕自身の小さな絵、入選したのはなんと小さな絵だった。校長先生は、学校始まって以来と、100円を大事に使えと下さった。その時の嬉しかった事は忘れられないが、100円を何に使ったかは覚えていない。全く僕はワルだったな」と頭をかいて大笑い。この入選を機に東京美術学校への進学を決意される。しかし、3年間の浪人生活、遊んでしまえと思ったが、きっとものにしてみせると、少年の頃の気迫が先生を武者修行にかりたてる。和田三造先生の許で、朝・昼・晩絵の勉強、掃除・洗濯の修業。晴れて入学した憧れの東京美術学校(現・東京芸大)での学生生活のお話は、いくつかのエピソードが飛び出した。

「30円の奨学金を飲み代に代えたり、いつも20銭銅貨を学生帽の記章の裏のはめ込んでいた」と、青春の日の想い出を次々に話され、そっとお茶を口にされる。一息ついた所で、「教職のお仕事と絵の制作とでは大変だったのでは?」との問いに、「学校の仕事はたしかに多忙だったが、絵を描く事は捨てなかった。生徒には、美術の時間は深呼吸の時間、しかし節度は守れと言ってきた」。採点法のお話も森谷先生の人間教育が現われ共感をもつ。教室に遅れて行くと、窓から首を出し、声を揃えて「ライオン丸がやってきた」と合唱した生徒の声が今も耳に残るとにっこりされる。

まだまだ続くお話に時の経つのも忘れた2時間。一番むつかしい女の人を描くこと一途の森谷先生のアトリエには、大小のキャンバスに、女人像が一人二人、立つ人、腰掛ける人とデッサンされている。

私達は、ますますのご研鑚とご健康をお祈りし、落日の光がいっぱいのアトリエを後にした。

(長谷川博子)

友の会だより 38号より 1995.3.1

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