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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1994 > 高橋由一展のご紹介 田中善明 友の会だより 37号より、1994・11・25

高橋由一展のご紹介

田中善明

「幕末最後の、明治最初の巨人」と評論家土方定一(ひじかたていいち)氏が述べたように、高橋由一は近代洋画草創期の第一人者と言えましょう。重要文化財指定の《鮭》は歴史の教科書や郵便切手などで一度は御覧になったことがあると思いますが、この荒縄に吊るされた《鮭》は高橋由一が幼年から青年時代に学んだ狩野(かのう)派など従来の日本絵画の運筆法と、立体表現に適した油絵の材質とが見事に噛み合った傑作です。

高橋由一は文政11(1828)年、江戸大手前の佐野藩邸内で生まれました。2歳で人の顔を描き母たちを驚かしたとの記録があるように、幼いころより絵を描くのが好きで、祖父源五郎は彼を武術家にしたかったのですが、生来の病弱のこともあって結局画業に専念することを許可しました。彼が西洋画に目覚めたのは嘉永年間、30歳を超えてからのことと伝えられています。友人より西洋石版画を借り受けたところ、その迫真的な描写に感激し、以後、洋書調書(しらべしょ)(蕃書調書より改称)画学局に入り博物図譜などを制作、39歳のとき、イギリス人ワーグマンとの出会いによって本格的に油絵と取り組むようになりました。彼は後進のために洋画塾天絵楼(てんかいろう)を開設し、イタリア人のフォンターネージが官設の工部美術学校教師として来日した年と同じ明治9年(1876)年、天絵社(天絵楼より改称)内で毎月第1日曜日に塾生といっしょに展覧会を開催。この月例会は明治14年まで続きましたが、この時期由一はもっとも充実し、フォンタネージから教えを受けた正統の油絵技法を駆使して、油絵具の特性を生かした由一独特の画面をつくりだしました。

明治時代というと、現在の私たちにとっては伝統や因習が強く残された古めかしい存在として映るかも知れません。もちろん高橋由一の作品にも江戸時代からの絵画様式がみられます。たとえば、彼の風景画は名所・旧跡を題材にしたものが多くから描かれていて、画中の名所に人々が引き寄せられる様子をみると、江戸時代からつづく名所絵を思い起こさせます。また、前景を大きく取り、忠景、遠景がかすかに見えかくれする構図はまさしく浮世絵の手法です。明治維新のとき、すでに由一は40歳を迎えていたので、その多感な少・青年時代を幕末に過ごしたことを考えると、洋風化の象徴ともいえる油絵に旧来の構図が残されているのも当然のことでしょう。ところが、明治の始め、外来の西洋画の手法かよくわからなかった時代であったからこそ自由になることもありました。それは画面(キャンバス)のかたちとその見せかたです。油絵が本格的に描かれてすでに100年以上を経た現在、画面のサイズは人物がFサイズ、風景はPサイズ、海景はMサイズといった規格に従う場合がほとんどですが、由一の時代はそのような規格にとらわれず、描く題材によってその大きさを自由に決めることができました。《鮭》を例にすると、あたかも本物の鮭がそこにあるかのごとく見せようと思えば、この縦長の変形画面はもっともらしいかたちであったでしょうし、例えば江之島の全景を描こうとすると、とてつもなく画面を横長にする方がすっきり収まります。また、畳文化の日本では油絵を床の間に飾るのはしっくりこないというので、油絵を衝立(ついたて)状に仕立てたり、《小池虚一斎(きょいっさい)像》ではあたかも水墨画の賛のように油絵の右隣に墓碑銘の分が墨書きされています。これらのことは、一方でそれまでの伝統を継承しているとも考えられますが、他方で、新しい文化がどのように入ってきても、それを自分たちの使いたいようにつくりかえてしまう日本人のエネルギーみたいなものを感じます。とにもかくにも、変化に富んだ画面のかたちや絵の様子から明治時代を肌で感じとることができるもこの展覧会の魅力のひとつです。

(たなかよしあき・学芸員)

友の会だより 37号より 1994.11.25

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