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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1994 > 作家訪問1:森一蔵 森本孝 友の会だより35号、1994・2・25

作家訪問<1>

森 一蔵

昨夜から今朝にかけて雪が降り、午前中は路面が凍結していた1月30日の午後、会報部の若山理子さん、中山たか子さん、水野雅子さんと私の4名で、桑名市安永にある森一蔵さんのご自宅を訪問した。幸い午後には雪も止み、日がさして路面凍結も消え去っていたが、それでも気温は非常に低い日だった。14時に桑名駅で待ち合わせて、森さんの自家用車伺った。

会報部では、三重の作家訪問の記事を連載することになり、先日、桑名の六華苑内にある蔵での個展で作品をご覧になった友の会の方々から、是非森さん宅を訪問したいという要望が出されていて、それで今日の日となった。

案内して下さった応接室には陶芸を中心とした美術の図書や雑誌、そして森さんの初期の作品から近世まで、所狭しと置かれていた。

森一蔵さんは弄山の古萬古の魅力に惹かれて作陶に入り、はじめは「三蔵」と名乗っていたこと、自転車で窯場を訪問しながら九州にまで旅したことなど、現在まで数々のエピソードを伺い、釉薬のこと、胎土のこと、窯焼きのことなど、かなり失礼といってもいいような我々の質問に対してわかりやすく応え下さった。森さんの造られた茶碗で抹茶をいただいたりしながら語っていただいた内容は、市販されている釉薬を使いはじめたが溶ける温度がまちまちなので、赤絵の場合、赤の釉薬が溶ける温度に合わせて他の釉薬をつくり、土は桑名の土を始め信楽や瀬戸など各地に土を、完成後の姿を想像し模索しながらブレンドしていくこと、器の焼成温度は約1,250度で、上絵付け後の焼成は用いる釉薬によって異なることなどである。

森一蔵さんは終戦の年、1945年(昭和20)に桑名で生まれている。現在では松本尚氏など三重にも会員はいるが、誰も同人(会員のこと)がいないなかで、走泥社へ出品を続けて同人となり、精力的にオブジェを制作して、朝日陶芸展、中日国際陶芸展、三重県立美術展覧会などにも発表している作家であり、1922年度の三重県立美術展覧会の審査員、1994年秋の三重県での国民文化祭の工芸部門企画委員を務めたりしている。昨年の五月には三重県立美術館県民ギャラリーで伊藤圭氏、高山光氏、林克次氏、山田耕作氏の5人と「陶会議6」展を開いたことなどでもよく知られた陶芸家であろう。

現在当館で開催している「第4期美術コレクション」(常設展)にも森さん「7×7=49」が展示されている。ピサの斜塔のように少し傾いた形状で7本ずつ7つが縦に並んだこの作品は、あるとき崩れてしまいそうな土の特性である脆さをテーマにしているが、「陶会議6」展に出品した小さな丘を輪切りにしたような形に緑釉を施した作品群は、脆いという気分は完全に消え去って、ツヤのある比較的明快な形が、存在感を強く主張していた。

桑名駅から西へ国道421号線、すなわち員弁街道を車で15分程進んだ北勢町麻生田の北勢病院を右に曲がり、田畑の中を登って走ると樹々の間に、彼の●石窯(ろっこくよう)がある。神社と見間違うような建築で、どこか精神修業の道場のような雰囲気が漂っている。彼は主としてこの窯で焼成し、上絵付けを自邸の窯で行っているそうである。かなり無理を申し上げて、我々4人はぎっしりと釉薬が並ぶ彼の仕事場を拝見させていただいた。

森さんはオブジェを制作する一方、赤絵を中心とする自由奔放な古萬古の器もつくっている。萬古焼は連綿と続いているような印象を持つが、「弄山の古萬古は弄山焼だ。有節萬古は有節焼だ。その後の萬古焼も皆それぞれ別のやきものだ」という彼の言葉に説得力を感じた。また、沼波弄山の古萬古の精神と技を最も継いでいるのが森一蔵さんであるという実感が湧いてきた。

紐状にした土を積み上げ形成して緑釉を施したオブジェや、同様の方法による花器、あるいは、瀟酒な筆致による赤絵の皿、古萬古写の作品など多くの作品を拝見して岐路についた。

(森本孝)

友の会だより35号、1994・2・25

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