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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1988 > 「自然の精を描いた-林義明」展 森本孝 友の会だより 18号より、1988・7・23

没後10年記念

「自然の精を描いた―林義明」展

森本 孝

三重の美術教育史、あるいは三重の洋画史を振り返ったとき、忘れることができない林義明が、再び帰ることのない旅に出てから10年の歳月が経過した。明治23年、和歌山県海南市の奥、上谷という山村で、父安千代、母房枝の次男として、主として果樹園を経営する農家に生まれた林義明が、何の由縁もない三重県の中学校に赴任して、以後この地に根を生やし、88歳の長寿を全うして逝去した。旧制の三重県津中学校から戦後の三重県立津高等学校と名称が代わっても、同一の学校で37年間教鞭をとり、「山羊さん」の愛称で呼ばれた林義明を、今でも慕う教え子は少なくない。絵を描く技術を教えられたというより、「絵を制作する心を学んだ」とか「偉大なる人間性に接した」というような言葉を誰もが述べている。美術教育者として果たした役割は小さくないのであろう。

一般的のはお手本を写しとるのが美術の時間であった大正時代から昭和初期に、天候が良ければ屋外に生徒を連れ出して写生するという義明の指導方法は、画期的であったことは事実である。しかし、そういった方法論さえ問題にしない心の通った美術教育が37年間行われていたようで、そう考えないと理解できない程、教え子たちの義明に対する尊敬の念は強い。

高等小学校時代、絵と算術が好きだった少年が、明治41年、和歌山県師範学校本科に入学、美術クラブに入って水彩画を始め、大下藤次郎(1870-1911)や斉藤与里(1885-1959)らが講師を務める講習会に出席して水彩画を学び、油彩画を知り、林義明は「自然ほど美しいものはありません。」という大下藤次郎の言葉に感銘を受け、彼らから表現の技法と制作への熱い心に触れ、彼らを通じて印象派や後期印象派の画家たちを知り画家になる夢は膨らんでいった。

今回の没後10年記念『自然の精を描く―林義明展』は、林義明の初期から晩年に至る全画業を展観するものであるが、このなかでも特筆すべきことは、大正期の油彩19点、水彩素描10数点が紹介されることである。これらの作品のほとんどは初出、少なくとも三重県では初めて紹介される作品群であろう。最も若い時期の作品は、美校2年のとき伊豆大島へ写生に出かけて制作した大正4年頃の『伊豆大島小景』である。俯瞰した構図の『藁葺の家』周辺の何気ない情景を描いた『宇都宮風景』の連作など、光を浴びたところに配した朱系の色彩との調和が美しい作品を制作する一方、村山槐多のような木々の表現、万鉄五郎のような色彩、河野通勢が描いた同じような筆触の『自画像』のペン画といったように、林義明の作品から様々な影響を読み取ることができるが、誰もがそうであったように時代の嵐を浴びて、義明もまた自己の表現を求めて模索していた。こういった作品の中で、小出楢重のような裸婦デッサン、児島善三郎を思わせる単純化された風景スケッチは、彼ら以上の出来ばえといえよう。

ゴッホの触筆を思わせる『案濃川』(昭和6年頃)、モネが『積藁』(昭和6年頃)など、ヨーロッパや日本の近代の画家たちが行った表現様式を試みたりしたが、数多くの風景画を手掛けるなかで、セザンヌが自然を対象に画面を構成していったこととも、また後期印象派のような激しさを伴った色彩とも異なる林義明独自の道を歩み始めている。西洋の画家には見られない自然と融合するような東洋的な精神、すなわち自然の精を汲みとって画面を形成するような作画態度を窺うことはできる。日本の伝統となった水墨画や南画に近い心境に至ったのであろう。

(もりもとたかし・学芸員)

友の会だより 18号より、1988・7・23

作家別記事一覧:林義明
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