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アトリエ訪問

中村利郎さん

鋭く尖ってとげとげしいもの。どこまでも直線的に、非人情のごとき意志を走らせて無機の世界をつくりあげるもの。あたかも感性の爆発だけが人の証しだといいたげに、形なきものの運動を執拗に追いかけるもの。それが現代の象徴であるといいたいために、はき気を催すような素材をわざと(意識的に)ほとんどそのままの形で画廊の床にころがすもの−。

そんなぼくらの芸術の現在のなかに、中村さんの作品をおいてみる。彼の作品は、そのときなにごとかを声低くつぶやいているように聴えてくるのだが、それがいったいどういう言葉なのか、今のぼくにははっきり断定することはできない。その言葉が言葉となっていない、つまり表現が表現として自立していないということと、おそらく中村さんが考えている、表現という概念を破壊してみせたミニマル・アートの思考によって育った世代として、20世紀的な新しい芸術を生みたいとする欲求とか、まだ分節していないところに最大の原因があるからだ。これまで訪問したアトリエの主人たちは、その年齢のためというより、それぞれが一家をなし、これからの変化の可能性など問わなくてもよかったのにくらべ、今回紹介する中村さんは作品的にもまた芸術家としても未知の可能性と不可能性のあいだをゆれている。この卵からなにか孵化するか、おそらく本人にもわかるまいが、そういう不安のなかにある人だけがもつ清澄さがあって、つきあっていて楽しい、とはもちろんこっちのわがままである。

中村利郎さん。1952年津に生まれ、本人のいいぐさによれば陰気でうっとうしい北陸の金沢の冬を美大の学生としてすごし、日本の美術家の古い体質にはじめてであい、同時にアメリカの、おそらくべトナム戦争が最大のバネとなって生まれたと思われる芸術はおろか政治をもこえた社会運動の大きなうねに身をまかせ(ヒッピーというなつかしい言葉を彼から聴いた)、名古屋市工芸高校時代、久野真や庄司達といった教師がすでに実行していた新しい芸術(の考え)の現場に立合った感動がそれらの経験とフレンドされる。そして依然彼は発酵中なのだ。

そこで彼の作品だか、ぼくが知っているのは、県立美術館開館の年のアート・フェスティヴァル出品作の大きなマッチ棒(どこかに火をつけたかったのだろう)と第1回CAN展の椅子にすわった裸婦〈人体からの直取りが物議をかもしたらしい)以外のすべては同じコンセプトに立ったミニアル・アート、プライマリ・アートの系列にあるといえよう。ネッシーの頭のような比較的単純なパターンを左右対称にしたりひっくりかえしたりした組合わせで作品を構成すると同時に石(松阪公園)や木(同歴史民俗資料館の庭)や今年の第3回CAN展での段ポール紙など、さまざまの素材に、それぞれの物質のもつ抵抗をやんわりとねじふせたり、逆にそれに導かれたりしてこの基本のパターンをくりかえしている。感情の小さな揺れがそこにあらわれないというのはもちろんミニマル・アートの鉄則であるが、中村さんの作品の表情はある種の禁欲とは無縁であるようにみえる。だいいちそのパターンそのものが、思わずネッシーの頭と書いてしまったように、巧まぬユーモアと天成のやわらかな感覚と、こせこせ些事にこだわったり無闇にかっこうばかりつけて生きることへの決然とした拒否とを語って余りあるからである。ヒトイズクンゾカクサンヤ。

しかし、ミニマル・アートを新しいということなかれ。たとえばベートーウェンの作曲の根底にあったものは、音の基本パタ−ン(「運命」のタ・タ・タ・ターン、ヴァイオリン・コンチェルトのタン・タン・タンタン)を、銀箔作りの名人が一つまみの金から敲きに敲いたあげく信じられないほどの広がりをもった箔を生みだすように、もうそれ以上は展開のしようのない地点まで搾りきって、ひとつのパターンの内包するあらゆる可能性を外延化することであった。ベートーヴェンが変奏variationの天才といわれる所以であって、今のところぼくが中村さんに望むことは、ミニマル・アートを超えてvariationの試みをさらに徹底させることに係る。20世紀から19世紀へ逆行することに限りなく近いかもしれないが、しかしそこを通らなければ、すでに停滞した知の前線は長くぽくらの頭上をおおうだろうという、世界の天気図のぽくなりの読み方からでてきた期待という名の戦略でもある。

(東俊郎・学芸員)

友の会だよりno.6(1984.6.25)

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