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アトリエ訪問

画家 浅野弥衛さん

作品と作者との関係。ただの〈もの〉が〈作品〉になるか、ならないかの秘密はそこにひそんでいるので、それをヴァレリーは「作者とは作品の原因ではなく、結果である」といった。このひねりの利いた言葉のみかけは単純だが、その射程はとおく現代美術もこの定式から自由だとはいえない。なぜなら、このヴァレリーの言葉をはなれることは、作品と作者の関係という観念を無意味とするだけでなく、無意味という事態さえ逸脱させることにひとしい、とぼくは考えるからだ。芸術の死をたやすく口にできないぼくはだからやはりヴァレリーから出発する−浅野弥衛さんの作品を見、それについてあれこれ考えるときも。浅野さんの作品には、それが現代美術だからという意味からでなく、作者と作品の安易な関係づけを拒否するところがあることは、この場合かえってつごうがよい。いくらヴァレリ−の言葉といっても、作品によって鍛えられる必要があるし、その原因でなく結果となってはじめて定義の名にあたいするのだから。

きて龍頭蛇尾におわりそうな以上のようなことをかんがえながら、10月5日朝鈴鹿市の浅野さんを訪れた。旧参宮街道という狭い道に面した商家造りの家。煙草をあきなっていた店先がアトリエとなって、きちょうめんにそれぞれのものがところをえたといった顔をして配置されている。空気が自然にながれしめりけをおびた冷たさが土間からあがってくる。そして木目がそっそりと呼吸しているこの家のアトリエの次の間、臨済宗の仏壇がある部屋で、浅野さんと対面する。はなしのあいだ視線をはなさない。みつめれば、みつめかえしてくる、その眼をこわいとか優しいとか判断するまえに、まず信用できると思う。これは言葉というものを内容とか意味でなく言葉の姿、つまり言葉が言葉であるそのことで感じてくれる人だという印象だ。

アトリエで作品をみるには正午すぎの光線がいちばんいいとのことで、それからしばらく雑談するが、その中でぽくがそれまで浅野さんの作品を語るために捜しあぐねていたひとつの言葉にであう。non−sense。きちょうめんで計画的な性格は、時間をかけた丹念な仕事ぶりからうかかえるけれど、もっと肝腎な部分、職人芸と浅野さんの仕事をするどくわける与件、たとえてみれば豆腐の二ガリにあたるなにかを象徴するのに、浅野さんの場合どうもこの “ノン・センス” なる言葉がもっともふさわしい。うつろいやすい感情のうごきをシャット・アウトした禁欲的で緻密な構成力、清潔な抒情というだけでは死んでしまうこの人の好奇心のつよさとか、野性的なものへの讃美とか、かたくなにものを信じる幼児性とかがこの non−sense の一語で息をふきかえす。そして大人にしてはじめてもちえるinnocenceも。

じっさい浅野さんの作品に禁欲を発見するときは、non-sense のなかにはsenseが当然ふくまれていることを認めるのと同じ発想をうけいれて、禁欲じゃないものの存在を同時に発見しなければかたておちだ。承知のように浅野さんは抽象表現を一貫してくずさない。ぼくはこれを一種の抑制かと推測していたが、そんなことはなく、気ままに、「そう描きたかったからそう描いた」だけだそうである。この言葉だって、事物の本性を語るとき同語反復しかないと語る禅家やぼくの好きなヴィトゲンシュタインの言葉のようにみえる一面、内田百閧フ「いやだからいやだ」とおなじ、あたりまえすぎるものがもつなんともいえないノン・センスの海濶が全体をくるんでいる。

ぼくのいうnon-senseがsenseの一種、しかもある意味でとびきり洗煉されたそれであるということ、蛇足のようだがつけくわえておこう。それは浅野さんの洒落っ気というもの、つまり〈花〉というものはどんなときにもなくてはいけないという発言に通ずる。しかし、もっとおもしろいのは見巧者のいうほんとうは狭い〈花〉の通念をたくまずして破る浅野さんの non−senseぶりであろう。〈花〉はどこにでもあって、みる人がみれば空中にさえ開く。またどんな未熟にも、どんな悲惨にさえ、それをそうとみてとれば、そこに〈花〉はある−−とそこまでは語ってくれなかったけれど、浅野さんの考えを延長すれば当然そうなると、ぼくは勝手に解釈している。どうも作品の結果としての作者に触れること少なく終りそうだが、このアトリエ訪問記の結果としてのぼくは、浅野さんに関してはヴァレリーの言葉の正しさを証明することができそうな気になってきた。

〈学芸貞 東俊郎〉

友の会だよりno.4、1983.11.10

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