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アトリエ訪問

木下 富雄(版画家)

これから何回かの連載で三重の芸術家を紹介することになり、その第1回目として木下富雄さんを四日市の富田に訪問した。ただし、「アトリエ訪問」というタイトルは今回に限って羊頭狗肉、つまり看板に偽りありである。それは日本の高度経済成長にそってつぎつぎにつくられた新建材の「明るく楽しい」夢にみちた家とちがって、戦後生まれのぼくの少年時代の記憶につながる〈暗さ〉(家の中のそれ、街のそれ、社会のそれ)を依然として漂わせ、時の流れに抵抗している底の木下さんの家の印象に象徴されるといってもいい。木下さんの制作態度、芸術についての信条、そしてその風貌が結びつくのは「アトリエ」という言葉ではなくて「仕事部屋」だろうとぼくは独断する。アルティザンの腕を失なったアルティストを苦々しい思いでみつめつつ、粘りづよく単調な仕事のくりかえしに耐えている無口なアルティスト。そんなイメージを抱きつづけているアルティストに木下さんは似ている。

2階にあるという「仕事部屋」を見ることができず、そう広くもない店の片偶にあったストーブをあいだにはさんで木下さんに向い合う。6点ほどの版画と風景を描いた油絵がこの室内にかけられている。顔にしか関心がないのかなと思っていたのでこの風景は意外だった。また描が好きらしく、6匹飼っているとのこと、ぼくの好きな作家の1人、大佛次郎のことがちらっと脳裏をかすめたところから「訪問」は始まったわけだ。

「ブラジルのサンバウロのビエンナーレで棟方志功が最高賞をとった。あれがきっかけです。」年譜をみると第3回サンバウロ・ビエンナーレ展は1955年〈昭和30)、棟方は十大弟子」などの木版画で受賞、翌年のヴィネツィア・ビ工ンナーレでもグラン・プリをとり、きらに翌1957年のサンパウロ・ビ工ンナーレでは銅版の浜口陽三が最優秀賞をうけるといった状況のなかで、満洲からひきあげ油絵を描いていたものの、いまひとつ自己の内面の世界と表現のあいだに齟齬を感じていた木下青年は版画の世界へ急速に傾斜してゆくことになった。ちょうどべニヤ合板が普及しはじめた頃で、大きな作品がつくれるようになったことも幸福だったと語る木下さんは、ここで自己の資質にもっとも適した表現のせかいにであったのだろう。

ところで木下富雄のせかいといえば―MaskとFace 即ち仮面=顔である。いまかりに=(イコール)とかってに解釈したが、無限のヴァリアントを含んだ記号なのであり、さらにこのMaskやFaceすら、木下さんが見かつ見られている人間世界の奥にひそむなにかしら大きなエネルギーの象徴、記号とかんがえられる。微妙な二重性がある。木下さんによって造形されたMask=Faceは現実の人間の表情へむかって運動すると同時に、右に彫られた象形文字の不死をめざしているかとも思えるという意味で。パウル・クレーとグロッスの名をここで思いだしてもいい。もちろん木下さんはすでに自己のスタイルをもった人だから、クレーやグロッスと同じ気圏にすむ人といいかえよう。人間に対する執着に由来している彼らの諷刺、彼らの絶望、彼らの愛―それはおそらく木下さんのものでもあるはずである。日本の木版がもつ独特の淡い色と苦渋や圭角をあまりみせない、かにみえる作品もよくみれば尖ったものとか苦いものが仕掛けられていて、けっして毒がないわけではない。

こういう人は奇妙に明るくて空虚な現代をどう感じているのだろう。「苦しみがあらわれる作品をつくれる人は幸せです。」と語ってくれた木下さんは、とにかく一所懸命やったという50年代後半から60年代前半にもっとも生きていたのではないか。少なくともその時代の日本は暗さの底に明るさがあったから。しかし「戦艦大和の最後」の著者吉田満が、こんなはすじゃなかったと撫然とつぶやいて亡くなった後の現在、木下さんの作品からさえ苦しみの表現力が稀薄になってゆくようにみえるのは、木下さんのためにも、そして木下さんの作品を愛する人びとのためにも不幸なことだ。人は時代を超えられない、というのが真実なら、時代は人を超えられないということも、すくなくとも芸術の領域においては真である、と誰より固く信じているとぼくには思われる木下さんに、ぎりぎりの最後で再び力を出していい作品をつくってほしいと願うのはぼくだけではないはずだ。(四日市市富田在住)

〈学芸員 東 俊郎〉

友の会だよりno.2(1983.5)

木下富雄展』(1995.8)
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