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嘉暦三年公卿勅使記

嘉暦三年公卿勅使記

資料の概要

資料番号 JR0000948
資料分野/分類 人文系/考歴美/典籍類
資料名 嘉暦三年公卿勅使記
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解説

 「嘉暦三年九月十日公卿勅使御参宮日記」と「正応六年公卿勅使御参宮次第」の合本で、鎌倉時代の公卿勅使参宮記録である。  鎌倉時代末期の1328(嘉暦3)年9月、後醍醐天皇の命を受けて、伊勢神宮に祈りを捧げる公卿勅使が発遣された。勅使に選ばれたのは、後醍醐に仕え、北畠親房、吉田定房とともに「三房」と称された権大納言万里小路宣房であった。  公卿勅使とは、天皇の代替わりや特別な事情などがあった場合に、公卿(大臣クラスの地位にある上級貴族)の中から選ばれて伊勢神宮に発遣されたものである。古くは奈良時代にさかのぼり、聖武天皇の738(天平10)年5月に遣唐使の無事を祈るために右大臣橘諸兄が発遣されたのが初見となっている。その後、幕末の1861(文久元)年までの約1100年間に120回以上の勅使が発遣されたが、その大半は11世紀中頃の平安時代後期から13世紀初期の鎌倉時代前期に集中しているのが特色である。  勅使に任命されるのは、その時々の政府の要人であり、中には著名な人の名も見られる。例えば、平安時代末期でいうと、伊勢平氏の出身で武家として初めて公卿の地位につき武家政権の端緒を築いた平清盛とその子の重盛も、勅使として伊勢に赴いている。  公卿勅使に関する記録としては、貴族の儀式書や日記、関係文書や記録を集めて編集した勅使記などが伝わっている。本資料(江戸時代の写本)もそのような記録の一つである。  この時の発遣理由は、具体的な記述がなく不明である。とはいえ、後醍醐天皇は、二度にわたる倒幕計画の失敗を経て、鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を実現した天皇である。嘉暦3年の公卿勅使は、二度の倒幕計画、正中の変(1324年)と元弘の変(1331年)の間の出来事であり、側近の万里小路宣房を勅使として発遣した理由も倒幕計画と無関係ではないと思われる。  勅使記を読んでみると、勅使発遣の準備を命じる綸旨(天皇の命令)が下り、関係者の間で、参宮の進行や設営の内容、神宮側の神官等の役割分担や禄物の確認、道中の雑事などに関する文書が交わされながら準備が進められた様子を知ることができる。  勅使の一行は9月6日に京を出発、途中、近江の甲賀、伊勢の関、一志に宿泊する3泊4日の行程で進み、9日に度会の離宮院(伊勢市小俣町)に到着、10日に参宮をした。また、勅使の一行は、人夫なども含めて総勢550人以上の人数に及んだという。 ここには記述はないが、伊勢に派遣された勅使たちは、伊勢神宮の神官たちとさまざまな交流をしたらしい。さらに都への帰途、天皇に替わって伊勢神宮に仕えるために遣わされていた斎王の暮らす斎宮を訪れ、斎王や斎王に仕えた人々と面会する場合もあったようである。  古代から中世にかけて、このように中央政界のトップクラスの人々が頻繁に行き来をした地方は他にはなかったであろう。伊勢の地は、都の文化と直結した地であったのである。

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