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三重縣立第三中學校(絵はがき)

資料名 三重縣立第三中學校(絵はがき) 資料番号 748-14
寸法  たて:87mm
 よこ:139mm
時代 明治32年以降
大正9年以前
解説 近代教育制度が整えられるきっかけとなったのは、明治5(1872)年の太政官布告(だじょうかんふこく)第214号でした。いわゆる「学制(がくせい)」と呼ばれるもので、日本で初めて近代学校制度について定めた教育関係の基本法令です。「学制」では、全国を8つの「大学区」にわけ、1つの「大学区」を32の「中学区」に、1つの「中学区」を210の「小学区」にわけて、全国に大学、中学校、小学校を合計54,024校の学校を設置するとしました。(翌明治6(1873)年に大学区などの改定がなされています。)現在の三重県は「第二大学区」に愛知県や岐阜県などともに属することとなりました。
三重県で県立の中学校が初めて津に創立されたのが明治13(1880)年の冬のことで、最初の入学者は25名でした。旧津藩・有造館(ゆうぞうかん)が仮校舎とされましたが、明治21(1888)年に現在の津市東古河町に新築移転しています。津中学校創立後、法令などの改正があったため公立や郡立などの中学校の創立が相次ぎましたが、数年もたたぬうちに法令が改正され、いくつかの中学校は廃校となっています。そして、明治30年ごろに県立中学校の増設の機運が高まり、明治32(1899)年、3校の中学校が創立されました。第二中学校(四日市市)、第三中学校(阿山(あやま)郡上野町)、第四中学校(度会(わたらい)郡宇治山田町)の3校で、既存の津中学校(第一中学校)とあわせて中学校は4校となりました。大正時代になり、志願者が急増したことから大正9(1920)年に中学校が増設されました。また、これにあわせて名称の変更も行われています。増設されたのは、神戸(かんべ)中学校(河芸(かわげ)郡神戸町)と木本(きのもと)中学校(南牟婁(みなみむろ)郡木本町)で、第一中学校は津中学校、第二中学校は富田(とみだ)中学校、第三中学校は上野中学校、第四中学校は宇治山田中学校へと改称されました。このあと、中学校の誘致に失敗した主要な街では町立の中学校を創立しています。これら6つの中学校は、戦後、新制高校の発足で、津高校、四日市高校、上野高校、宇治山田高校、神戸高校、木本高校となっています。
写真の絵はがきは、『三重縣立第三中學校』と題されたものです。この題名から大正9年に校名を上野中学校に改称する以前に製作されたものと考えられます。写真に写っているのは、明治33(1900)年建築の校舎で、地元では「明治校舎」「白亜の校舎」と呼ばれています。テレビのドラマのロケが行われたこともあります。また、同じ角度で見た現在の風景とは少しちがう点があります。お気づきでしょうか。実は、この写真の校舎の後ろには「上野城」がありません。「上野城」は建設中の慶長17(1612)年に大暴風で倒壊しています。その後、再建されることなく明治維新を迎え、昭和10(1935)年に再建されたものだからです。(建設中に倒壊したものとは異なります。)平成元(1989)年には、現代に残された明治洋風建築の黎明期の例として三重県の有形文化財(建造物)に指定されました。昭和50年代後半には、校長室や事務室、教務室、生徒指導室などに使用されていましたが、有形文化財指定後の復元整備を経て、現在でも教務室や進路指導室、同窓会室、各クラブの部室などに使用されています。(FK)
三重県立第三中学校(絵はがき1)

三重県立第三中学校(絵はがき2)
三重県立第三中学校(写真部分拡大)
写真部分(拡大)
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