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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 広重「東海道五十三次之内 庄野」(ひろしげ とうかいどうごじゅうさんつぎのうち しょうの)

広重「東海道五十三次之内 庄野」(ひろしげ とうかいどうごじゅうさんつぎのうち しょ

資料名 広重「東海道五十三次之内 庄野」
(ひろしげ とうかいどうごじゅうさんつぎのうち しょうの)
時代 江戸時代
資料番号 198 寸法 たて:21.5cm
よこ:37.5cm
解説

江戸時代は、街道・宿場の整備や経済的なゆとりを背景に多くの庶民が社寺へ参詣や名所旧跡への遊山に出かけるようになった時代です。とりわけ庶民の旅行熱が急速に高まった江戸時代後期には、文芸の分野では弥次喜多道中で知られる十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」などがヒットし、それまで役者絵や美人画が中心であった浮世絵の世界でも名所絵や街道ものと呼ばれる作品が数多く生み出されました。
浮世絵に最もよく描かれた街道は、江戸と上方を結ぶ大動脈であった東海道です。19世紀の初め頃から盛んに描かれるようになりますが、早い時期の喜多川歌麿(きたがわうたまろ)「美人一代五十三次(びじんいちだいごじゅうさんつぎ)」や葛飾北斎(かつしかほくさい)・歌川豊広(うたがわとよひろ)の作品は、美人や人物の描写が主で街道や宿場の風景は添景として描かれる程度でした。これに対して、天保4(1833)年から翌年の初めごろに刊行された歌川(安藤)広重(うたがわ(あんどう)ひろしげ)の保永堂版(ほえいどうばん)「東海道五十三次之内(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち)」シリーズは、東海道の風景そのものを主題材とし、沿道の風俗や気象の変化という装いをまとわせて旅情豊かに描き出したもので、発売とともに爆発的な人気を博しました。この成功で名所絵師としての地位を確立した歌川広重は、晩年に至るまで多くの東海道ものを手がけています。
庄野宿(現 鈴鹿市庄野町)付近を描いた「東海道五十三次之内 庄野」は、この保永堂版「東海道五十三次之内」のシリーズ中でも最も優れた名作とされるひとつで、「白雨(はくう)」という副題がついています。
「白雨」は、白日(昼間)の激しい夕立のことで、街道の坂道で突然の夕立に見舞われ雨宿りの場所を探して走り出す旅人たちの姿を躍動感あふれる筆致で描いています。画面上端の太い墨色の一文字ぼかしから斜め下方への強い直線で大地にたたきつける雨の激しい様子を表し、背景には静まった草葺き屋根の農家、ざわざわとかぶりを振る竹藪を方向・濃淡が異なる三層に描き分けて、激しい夕立の強風・暗さを見事に表現しています。画面左には、街道の坂の上に向かって、ござをかぶった旅人が走り、駕籠(かご)の屋根に合羽(かっぱ)を掛け息杖をつきながら声をかけあって籠屋(かごや)も急いでいます。反対側には坂を駆け下る二人が描かれています。青い脚絆(きゃはん)をつけた旅人が強い風に向かって番傘(ばんがさ)を半開きにさし、野良から戻る近傍の農夫は、笠蓑(かさみの)をつけ鍬(くわ)を担いで前かがみに走っています。全体に暗い色調の中で、明るい配色で描かれたこれらの人物の動きが画面全体に緊張感を与えています。なお、半開きの番傘に「竹のうち」「五十三次」と文字が入っているのは初版です。
歌川広重の傑作とされている街道ものの大半は、平明で親しみやすい構図を骨組みとし、その上にこのような日本の風土を彩る気象現象を巧みに取り入れ、見る者をして風景に対するしみじみとした共感や愛着をおぼえさせるような親しみ深さが込められています。(SG)

東海道五十三次之内 庄野


「白雨」の朱印
「白雨」の朱印
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