このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 崇廣堂扁額(レプリカ)

崇廣堂扁額(レプリカ)

資料名 崇廣堂扁額(レプリカ) 資料番号 882
時代 江戸時代 寸法 たて: 82.7cm
よこ:164.5cm
解説

江戸時代、全国の各藩は、主に藩士やその子どもたちを対象とする教育機関として「藩校」を設置しました。藩校では、漢学を中心に和学・算術・武術など文武両道にわたる教育が行われ、藩に有為な人材を養成することを目指していました。
三重県内でも、享保7(1722)年に設立された長島藩の「文礼館」をはじめとして、桑名藩の「立教館」、菰野藩の「麗澤館」、亀山藩の「明倫舎」、神戸藩の「教倫堂」、鳥羽藩の「尚志館」などが設立されています。
伊勢・伊賀を中心に32万石を領する雄藩であった津藩では、10代藩主・藤堂高兌(たかさわ)が、文政2(1820)年に「有造館」を津に設立しました。そして、上野に伊賀・大和・山城の藩士などのために、「有造館」の支校として「崇廣堂」を設立しました。「崇廣堂」は、文政4(1822)年の竣工当初は、講堂を中心に北控所・表門・玄関などの文場のみであったと思われますが、しだいに馬術・槍術・柔術などの武場が拡充整備されました。
写真の「崇廣堂扁額」(レプリカ)は、崇廣堂の中心建物の講堂に掲げられていたもので、当時、大規模な藩政改革の実をあげていた米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)の筆によるものです。「崇廣堂」の名前は、『書経』の「功崇惟志、業廣惟勤(功の崇きはこれ志し、業の廣きはこれ勤なり)」の一節からとられたものです。『開業式講演筆記』によると、開設の主旨は、文人学者だけを育成するのではなく、文武の士を創り国用軍事の大用に備えようとするためとされ、当時の津藩の藩政改革に備える人材養成への意気込みがうかがえます。
現在、伊賀市の県立上野高校と市立崇広中学校の間には、崇廣堂の表門・講堂・玄関などの文場の建物群が残っています。江戸時代の藩校の様子をよく伝える貴重な事例として、昭和5(1930)年に国の史跡に指定されました。国道に面して建つ「表門」は、市民から「赤門(あかもん)」と親しみを持って呼ばれています。「講堂」は市立図書館(現在は、別の場所に移転しています)として長く市民に親しまれました。近年、建物群は、当時の姿に整備され、一般に公開されています。(SG)

崇廣堂扁額(表)
崇廣堂扁額(表)
崇廣堂扁額(裏)
崇廣堂扁額(裏)
右側部分に「藤原治憲(上杉鷹山)」の署名がある。
ページID:000061549