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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 石板

石板

資料名 石板(せきばん) 資料番号  1189
時代 大正時代 寸法  たて:14.2cm
 よこ:20.2cm
解説

写真の「石版」は、大正時代に現在の津市内で使用されていたものです。平成11(1999)年に博物館に寄贈されたもので、県内でも数少ない資料の1つです。材質は、黒色頁岩(けつがん)で、表面には子どものいたずらと思われる鋭利な傷あとも残っています。
一般的に知られている「石板」は木枠にはめこまれています。写真の「石板」には丈夫の左右に2つの孔があって、もともと木枠がなく、ひもを通して使っていたと思われます。
石板は、ろう石を丸く削った石筆で表面に文字や絵などを書いて使います。書いた文字や絵は、布で拭けば消えるので、何度でも書くことができます。使い方は黒板に似ていますが、現在のノートのような役割をしていたものです。
明治時代に入って日本では西洋式の教育制度を取り入れ、それに倣って石板などの教材も取り入れました。明治5(1872)年に文部省から出された「小学教則」の中にも「石盤」を使用した「綴字(カナツカヒ)」の授業法が記載されています。石板は、習字や書き取りの授業で用いられました。高価なことから購入できない児童も多く、学校で用意したものを貸し出していました。また、山梨県内のある小学校の年表には「大正時代、ボール紙の表面を黒く塗って代用品としていた」という記載があります。昭和の初めになると安価なノートが出回るようになり、しだいに「石板」は使われなくなりました。
三重県内に残る記録の中で、明治9(1871)年「三重県小学規則」の中の「下等教則 第八級」には、

  一習字 最初石盤ニテ仮字ノ字形ヲ教ヘ次ニ習字手本或ハ小学習字帖ヲ与ヘテ書法ヲ教フ

と「石盤」についての記述が見られます。また、三重県下頑民暴動之事件直後に提出されたある小学校の罹災届(明治10(1877)年)の中に備品であった石盤が焼失したことが記されています。これらの資料から、三重県内でも明治初期には石板が学校教育の中に取り入れられていたことがわかります。(U)


【参考文献】

『近代日本の学校文化誌』 石附実 編著 思文閣出版 1992年
『学校ことはじめ辞典』 佐藤秀夫 著 小学館 1987年
『三重県史 資料編 近代4 社会・文化』 三重県 平成3年
『三重県教育史 第一巻』 三重県総合文化センター編 三重県教育委員会発行 1980年
津久井郡郷土資料館ホームページ
山梨県 甲東小学校ホームページ


石板(表)

石板(裏)
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