明治6(1873)年の太陽暦(たいようれき)への改暦まで、わが国では月の運行を基準にして太陽の運行との差を閏月(うるうづき)によって調整する太陰暦(たいいんれき・「旧暦」のこと)が用いられていました。古代以来、中国から伝えられた元嘉暦(げんかれき)・宣明暦(せんみょうれき)などが正式な暦として順次利用されてきましたが、江戸時代にはその誤差(暦と実際の季節との誤差)を修正し日本に適用させた暦が造られ、木版印刷による出版・頒布(はんぷ)が一般化して広く普及しました。
伊勢暦には、15世紀後半以降に丹生(にゅう)でつくられた「丹生暦(にゅうこよみ)」「紀州暦(きしゅうこよみ)」といわれるものと江戸時代に伊勢神宮のおひざもとである宇治・山田で出版された「内宮暦(ないくうこよみ)」「山田暦(やまだこよみ)」といわれるものの2種類があります。通常は、宇治・山田のものを「伊勢暦」と呼んでいます。
宇治・山田の「伊勢暦」は、江戸時代の初め、寛永(かんえい)9(1663)年に山田の森若太夫(もりわかだゆう)が初めて出版し、伊勢参宮者の増加による需要の高まりに伴い、多数の版元(はんもと)から出されるようになりました。やがて、全国の頒暦(はんれき・暦を配ること)の約半数を占めるようになったといわれています。出版は、明治6年の改暦まで続きました。写真の資料は、安永(あんえい)5(1776)年から明治5(1872)年までの73冊のうちの1冊で、文政(ぶんせい)2(1819)年のものです。
伊勢暦の形は、一枚刷りの暦を折りたたんで表紙をつけたコンパクトな折本(おりほん)がほとんどで、冒頭に暦日(れきじつ)の吉凶凡例などを記して、続いて正月から十二月までの暦が掲載されています。暦の日々の欄に記された歴注(れきちゅう)には、節季(せっき)やその日の吉凶のほか、さまざまな事項が書かれています。特に農作業に関する記載は、当時の農家にとって農作業の時期を決める欠くことのできない情報でした。このため、伊勢暦は参宮者が買い求めるばかりではなく、伊勢神宮の下級神官である御師(おんし)が、毎年定期的に全国各地の担当の村々をめぐる旦那廻り(だんなまわり)の際に、神宮の御祓札(おはらいふだ)に添えて届ける土産(みやげ)の品々の中でも人々が最も心待ちにしていたもののひとつでした。
このように、江戸時代、伊勢暦は伊勢から全国に向けて情報を発信し、多くの人々の生活の基準となった出版物として人々と伊勢をつなぐ“伊勢ブランド”の主要商品だったのです。(SG)
※太陽暦への改暦
明治維新後もしばらくは天保暦(弘化(こうか)元(1844)年から採用・太陰暦)を用いていました。明治政府は、明治5年11月9日に「改暦ノ布告」を布告して、明治5年12月2日が太陽暦で明治5年12月31日にあたるため、明治5年12月3日を明治6年1月1日として太陽暦への変更をしました。明治5年の12月は2日間しかなかったということになります。
※閏月(うるうづき)
太陰暦では、1か月がおよそ29日のため、実際の季節と暦に誤差が生まれます。太陽暦と比較すると太陰暦は11日短く、この誤差を修正するためにおよそ3年に1回の割合で「閏月」が挿入されます。「閏月」のある年は、1年が13か月となります。また、「閏月」は1月から12月の間のいずれかの月に挿入されるので、特定の月が「閏月」となるわけではありません。
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