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二見浦真景之図(ふたみうらしんけいのず)

資料名 二見浦真景之図 (ふたみうらしんけいのず)
時 代 明治23(1890)年
資料番号 93 寸 法 たて:36.8cm
よこ:54.0cm
解 説

海に囲まれた日本には、約1,300カ所の海水浴場があるそうです。今年も、各地の海水浴場はたくさんの人で賑わっていることでしょう。

その数多い海水浴場の中で、今から約140年前の明治15(1882)年に、日本で最初に開設された海水浴場が、現在の伊勢市二見町にある二見浦海水浴場です。今回ご紹介する資料は、その二見浦海水浴場の情景が描かれた明治23(1890)年発行の刷り物です。

二見浦は、古くから伊勢参宮の名所の一つとして多くの参宮者が訪れた地であり、また、海で身を清める垢離場(こりば)としてもよく知られていました。江戸時代の浮世絵にも、現在夫婦岩と呼ばれる立石近くの海に入って斎戒沐浴(さいかいもくよく)をする参宮者の姿が描かれています。

このような二見浦に海水浴場が開設された契機は、明治政府の内務省衛生局長として我が国の医務衛生の基礎を確立した長與専斉(ながよ せんさい)が、三重県下を巡視した際に、二見浦の海岸を海水浴場に極めて適している地と評価したためとされています。これにより地元の気運が高まり、直ちに県の許可を得て工事を行い、明治15(1882)年10月19日に海水浴場開設の式典が挙行されました。

現在のレジャーとしての海水浴とは異なり、医療法的な側面が強かった当時の海水浴には、冷浴と温浴の2種類がありました。海に直接入る冷浴は、栄養不足による神経衰弱や皮膚から起きる病気に効果があるとされ、暖めた海水に浴する温浴は、体の弱い人や短気な人によいとされました。二見浦海水浴場の開設時期が秋たけなわの10月である点に疑問を持たれた方も多いでしょうが、当時の海水浴の内容や位置付けからすれば、現在のように海水浴は夏限定のものではなかったようです。

海水浴場開設当初の二見浦では、現在の夫婦岩がある立石崎近くの海を冷浴の場とし、温浴施設は現在の二見興玉神社社務所の東側に男女別に4基の温浴槽が設けられました。その後、明治17(1884)年に、海水浴場は現在の賓日館(ひんじつかん)の西側付近に移され、そこに新たに宿舎・温浴施設が建設され、その前の海岸が冷浴場として整備されました。

今回の資料は明治23(1890)年の発行ですから、海水浴場が移転した後の二見浦の情景が描かれています。画面中央の冠木門(かぶきもん)がある建物は神苑会が明治20(1887)年に建築した賓日館で、今も冠木門と2階建ての和風建築が美しい景観を形成しています。その手前に続く砂浜に沿って目を左に転ずると二見浦のシンボルである夫婦岩、さらに、海の向こうには昇る朝日と富士山が見えます。当初の海水浴場はこの夫婦岩付近にあったのです。

賓日館の右手にあり、浜の松林の中に建つ建物には、大きく「海水温浴場」と記された旗や看板が掲げられています。旗竿の右側にはレンガ造平屋の瓦葺き建物が描かれ、その背後に煙を出している煙突が付設されています。恐らくこの建物が、明治17(1884)年に新設された海水を沸かして浴する温浴施設であったと思われます。その前面の海中には砂浜から一定の距離をおいて乱杭が打たれ、その杭列に囲まれた海の波間に4人の海水浴客の姿が描かれています。ここが冷浴場で、砂浜には休憩用の縁台が置かれ、右端には上方の水溜から水を放出して体を洗うシャワーに相当する設備も描かれています。

その後、明治38(1905)年には現在の二見旅館街の街路である新道が開通して、旧街道から多くの旅館が海岸沿いに進出しました。また、参宮鉄道延伸などの交通網の整備に加えて、修学旅行や日露戦争傷病兵の長期療養などの受け入れにより、観光地二見は飛躍的な発展を迎えることとなります。(SG)

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