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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 御陰参宮文政神異記

御陰参宮文政神異記(おかげまいりぶんせいしんいき)

資料名 御陰参宮文政神異記 (おかげまいりぶんせいしんいき)
時 代 江戸時代(天保3(1832年))
資料番号

 

寸 法 たて:22.8cm
よこ:15.6cm
解 説

 

これは、今から約180年前の文政13(1830、12月に天保元年に改元)年に起こった文政のお蔭参りの際の様子です。前年に伊勢神宮の式年遷宮があったこの年は、前回の明和8(1771)年のお蔭参りから60年後にあたり、人々の間にお蔭参りが起こるのではないかという期待感が次第に高まっていました。そのような中、3月に阿波国の子どもたちの抜け参りを契機として、伊勢神宮へ群参する人々が各地から続々と押し寄せ、8月の末までの数ヶ月間にその数は約500万人に達したのです。

史料によって人数は異なりますが、陸路を旅して宮川の渡しを渡った人数が約486万人、さらに大湊や神社港などへと海路で到着した人数が10万人以上とも言われ、また、1日あたりの最高の人数は148,000人という記録もあります。当時の日本の総人口が3,000万人を少し越える程度と推計されていますので、約半年間で人口の約16%、6人に1人が伊勢を訪れたことになります。正確に人数をカウントした訳ではないでしょうが、それにしても大変な人数であったことに変わりありません。ちなみに、東京ディズニーランドの年間入園者数はディズニーシーが開園する直前の平成12(2000)年度に1,730万人で、人口の13.5%に相当しますが、これを上回っています。

このような驚異的な文政のお蔭参りの様子は、当時、たくさんの書物や刷り物として出版され、そのありさまが全国に伝えられました。今回ご紹介する「御陰参宮文政神異記上下二巻はその代表的な書物の一つで、伊勢の人である箕輪在六が自らの見聞や、知人、自宅に宿泊した人などからの聞き取りをもとに、天保3(1832)年に出版したものです。冒頭に「浮説を除き事実をあつむ」と信憑性のある事例を収録した実録である旨を記し、本文中の事例ごとに情報の出所を明記しています。

まず、阿波国徳島からの参宮者、柄杓屋の木具屋徳次からの聞き取りとして、今回のお蔭参りの発端は、文政13(1830)年3月20日の徳島佐古町の子どもら20~30人による抜け参りにはじまり、時を同じくして、10歳の男児が白馬で参宮をしたことや、阿波国各所へ伊勢神宮の御祓い札が降下したことなどの神異現象が重なったと記しています。これに続いて、阿波国をはじめ、大和、河内、摂津、播磨、備中、丹波、丹後、但馬、伊勢、志摩、美濃、尾張、武蔵、陸奥の諸国や、京、大坂、堺などの都市、また参宮道中におけるお蔭参りにかかわる様々な神異現象、さらに、街道筋や地元伊勢におけるお蔭参りの参宮者の様子や宮川の渡しの日毎の人数、参宮者を受け入れる地元における金銭・食物・駕籠・船・宿泊などの施行の状況が収録されています。

また、本文中の挿図からは、当時の状況をビジュアルに知ることができます。「外宮北御門橋杓積たる図」と題された図は、相当高く積み上げられた柄杓の山に向かって、旅姿の参宮者が柄杓を1本投げ上げている様子が描かれています。柄杓はお蔭参りに向かう参宮者の印ともいうべきもので、たとえ無一文でも柄杓1本さえ持っていれば、これを差し出すことによって様々な施行や便宜を受けて参宮道中を続けることができました。このため、諸国からの参宮者は、手に手に柄杓を携えて伊勢まで来ましたが、宮に到達した際に北御門橋の脇に持参した柄杓を置いて行くのが習わしとなっていました。この相当高く積み上げられた柄杓の山こそ、お蔭参りのおびただしい参宮者が伊勢へ押し寄せた象徴といえましょう。なお、現在、外宮の北御門を入り火除け橋をわたってすぐ左側の石垣が一部くぼんでいますが、そこが江戸時代に参宮者が柄杓を置いて行った場所とされています。

この他、参宮者を満載して行き交う渡し船と両岸に続く船待ちの長蛇の列が描かれた宮川の渡し、鳥居をくぐって参拝に向かう参宮者の笠の行列からは、途切れることのないお蔭参りの人波の様子をうかがうことができます。一方、施行所の図では、地元伊勢の町方による参宮者への施行の様子が描かれています。「御蔭参施行」の札を掲げ開け放った建物内では、町役人と思われる人物を中心に10人程の人が、銭(紐にさし連ねて、屈曲する棒状に描かれたもの)や伊勢で発行された紙幣である山田羽書と目される紙片を配布し、その傍らには米などが入った俵が積み上げられています。このような施行所が伊勢の町の各所に置かれていたようです。

最後に、箕輪在六は、相当の参宮者が見込まれ心配されていた食料について、お蔭参りが始まったら、船によって大湊・河崎へ1万俵余の米が運び込まれ、魚介も豊漁が続き、数ヶ月間の数百万人分の日々の食料が欠乏することがなかったことも、神の恵みと讃えて本書を締めくくっています。

 このようなお蔭参りに代表されるように、江戸時代には全国からおびただしい人々が伊勢を訪れ、人・モノ・文化の活発な交流が行われました。これは我が国の歴史上、他に例がないものといえましょう。その顕彰は、MieMuの基本展示における大きなテーマのひとつです。(SG)
 


外宮北御門杓積たる図
宮川の渡し
鳥居をくぐる参宮者の列
施行所のようす
阿波国から参宮した おさん犬
お祓い札と鶏
大湊・河崎へ米を運ぶ船団
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