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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 水鉄砲 (みずてっぽう)

水鉄砲 (みずてっぽう)

資料名 水鉄砲
(みずてっぽう))

左/資料番号4058  右/資料番号203(2点)
@ 資料番号 203
寸 法 高さ100.7センチ 
幅 8.0 センチ
奥行き 11.7センチ
材 質 木 製
時 代 江戸末期
A 資料番号 4058
寸 法 高さ 72.0センチ
本体直径 13.0センチ
材 質 ブリキ製
時 代 昭和初期
解 説  「地震、雷、火事、親父」、それは恐ろしいものとしてあげられた“ベスト4”の事象です。地震と雷そして親父(台風を意味する「大山事(おおやまじ)」が訛ったものか)は自然の為すものとして防ぎようがありません。しかし、火事だけは日頃からの一人ひとりの努力で未然に防ぐことが可能です。

 多くの場合人為的なミスで発生する「火事」。その対策が組織的に行われるようになったのは江戸時代のことです。当時、世界有数の大都市だった江戸は、度重なる火災に悩まされていました。17世紀の半ば以降、江戸の町には「大名火消し」や旗本による「定火消(じょうびけし)」が組織されますが、これは武士の家財を守るためのもので、大多数を占める町人のためのものではありませんでした。そして江戸時代も半ば頃になると、町人による町人のための「町火消」(いろは四十八組)が編成されます。これを組織したのが、ご存知、南町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)です。彼の業績は、その後幕末まで引き継がれることになります。ちなみに、時代劇でお馴染みの「め組」も四十八組の一つです。また辰五郎という名前を聞くと大物演歌歌手を頭に描く方も多いかもしれませんが、新門辰五郎(しんもんたつごろう)はめ組の頭ではなく、「を組」の頭として活躍した実在の人物です。

 さて、今回紹介する資料は、江戸時代に町火消が使用した「水鉄砲」です。これは一人で持ち運びが可能な筒型の消火器具で、水は細く延びたノズルから噴射させました。まず桶やたらいに水を張り、その中に本体を立てます。T字の柄を引き上げることで水を吸い上げ、押し下げることで水に圧力をかけ飛距離をつけようとしたのです。当館には、木製のものとブリキ製のものが収蔵されています。木製のもの(資料番号203)には正面に「御免」「木綿屋」、側面に「江戸 神田三河二丁目 龍吐水師 天野半七」と焼印が押されていますが、製造年代はよくわかりません。しかし、手がかりは、他の博物館が所蔵する同じ形式の水鉄砲にありました。明治時代に購入したことを示す墨書が残されているこの資料には、「御免」の代わりに「官許」という焼印が用いられています。「御免」と「官許」の表現の違いは、江戸時代と明治時代の違いではないでしょうか。幕府が町火消の各組に水鉄砲を常備するように指示したのは文政13(1830)年のことですから、恐らく、その後幕末までの38年の間に作られたと考えられます。一方、ブリキ製のもの(資料番号4058)は、筒型で精巧に作られています。三重県松阪市の旧家から寄贈されたもので、昭和初期の製造と伝えられています。

 ところで、この水鉄砲は、実際に消火活動に使えたのでしょうか。江戸時代には、水鉄砲よりも威力のある龍吐水(りゅうとすい)(水鉄砲と水槽を一体化させ、二人がかりで水を噴射させたもの)という消火器具がありました。しかし、射程距離は16〜20メートル程度といわれていますから、その効果には疑問が残ります。実は、当時の消火活動は、火を消すというよりも、むしろ延焼をくい止めるというものでした。つまり火災が起こった周辺の家屋を破壊して空間地を作る「破壊消防」が中心で、町火消が屋根に上り纏(まとい)を空高く掲げるのは、そこが最初に消火(破壊)にとりかかる場所(消し口)であることを示すものでした。現在のようにポンプやホースを用い、火元に直接水をかける方法がとられるようになるのは、町火消が「消防組」と呼ばれるようになった明治時代からです。
 町火消が行う消火活動において、龍吐水は、火を消すために用いるのではなく、むしろ最前線で破壊消防に従事する火消したちに水をかけることが、主な目的だったともいわれています。また、水鉄砲はコンパクトな消火器具として、龍吐水が入れないような狭い場所で使用されたり、個人用としても常備されていました。大店や裕福な人々の間では、すでに江戸時代から個人的に所持されていたようです。そういえば、ブリキ製の水鉄砲には屋号と苗字が書かれています。地方においても地域の有力者の家には、現在の家庭用消火器のように設置され、もしもに備えられていたのでしょう。

 家や財産、そして命さえも一瞬にして奪ってしまう火災。先人たちは、それを最小限に食い止める努力をし、制度や道具を作ってきましたが、やはり最も大切なのは“起こさない”ための取組みではないでしょうか。1月26日は文化財防火デーです。昭和24(1949)年のこの日、法隆寺金堂が火災に遭い仏教絵画の最高峰と称された壁画が失われてしまいました。原因は、壁画を模写していた絵師の電気座布団といわれています。文化財を保護していこうという取組みが原因となった悲しい事件でした。しかし、せめてもの慰めは、この火災が国民の文化財を守り継承しようという意識を高め、翌年の『文化財保護法』の制定(1950年)への原動力となったことです。
 全国で火災が増加する時期です。消火器具のお世話にならなくてもいいように、いつも以上に気を付けたいものです。(U)
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