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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 藤堂高虎書状(とうどうたかとらしょじょう)

藤堂高虎書状(とうどうたかとらしょじょう)

資料名 藤堂高虎書状(六月五日津町中あて)
(とうどうたかとらしょじょう)
時 代 江戸時代
資料番号

 468-3-14

寸 法 たて:36.0センチ
よこ:52.5センチ
解 説


 関ヶ原の戦いの後、慶長十三(1608)年に、藤堂高虎は伊予の今治から、畿内の押さえとして重要な地である伊賀・伊勢に移封されました。伊賀一国及び伊勢国の安濃・一志郡内で二十万石、これに旧領の一部である今治付近の二万石を併せて二十二万石の国持大名となった高虎は、この年の九月に伊賀上野、翌十月に津に入城しました。

 今回ご紹介する史料は、藤堂高虎が藤堂藩の城下町である津の町衆に宛てた書状です。この書状は、津の町年寄(町役人)を代々努めた伊藤又五郎家に伝わった文書群の中の一通で、年号はありませんが、高虎の一代記である『高山公実録』に採録され、慶長二十(1615)年(七月に元和元年に改元)に発給されたものとされています。
 慶長二十年(元和元年)は、大阪夏の陣によって高虎の旧主である豊臣氏が滅亡した年です。
 関ヶ原の戦い以前から徳川家康の信頼を得ていた高虎は、関ヶ原での徳川方の勝利に大きく貢献してさらに信任を深め、要衝である伊賀・伊勢に所領を得ると共に、畿内・西国の豊臣氏ならびに豊臣恩顧大名対策の中心的な役割を担いました。慶長十九(1614)年の大阪冬の陣では、高虎は大和国の諸将を率いる先鋒として従軍しましたが、大阪城を囲む持久戦となったこの戦いでは大きな戦闘は行われませんでした。一方、野戦が中心となった翌年の夏の陣では、六十歳を迎えた高虎は徳川家譜代の井伊直孝とともに河内路の先鋒として進み、五月五日には若江・八尾方面で大阪(豊臣)方の木村重成・長宗我部盛親らの軍勢と遭遇、激戦のすえ、敵の首級七百八十余をあげる勝利を得ましたが、重臣の藤堂新七郎・ 仁右衛門をはじめ士卒あわせて三百人以上の戦死者を出す大きな損害を受けています。その後の戦闘によって同月八日には大阪城が陥落し、高虎の旧主豊臣氏は滅亡しました。
 大阪夏の陣のあと京都にとどまった徳川家康・秀忠から、高虎は、五月二十八日に伊勢国の鈴鹿・奄芸・三重・一志郡内で五万石を加増され、金銀の分銅を賜っています。また、翌六月十九日には従四位下にも叙せられています。

 今回の書状は、六月五日付けですから、戦功の恩賞を受け、叙位も取り沙汰されている京都滞在中の高虎のもとに、綿屋とよばれた津町年寄の伊藤又五郎が町を代表して大樽(酒)二・蚫(アワビ)五十・鰹(かつお)十連を携えて見舞いに訪れたことに対する挨拶状で、見舞いに対する礼と国替え(転封)もなく金銀・領地の拝領があったことを町衆とともにかたじけなく思うとの内容となっています。この書状は、二ツ折りにした紙に文面を書く折紙という形式で、文末の「和泉」は高虎の官途、日付の下には高虎自身の力強い花押がすえられています。
 この書状そのものは高虎から町方への挨拶状ですが、徳川家康から全幅の信頼を得て自身が参与する徳川政権の基礎固めの大きな節目であった大阪の戦役を乗り越え、一方では、伊賀・伊勢における新しい藩づくりを進める高虎の最も充実した時期の様子を知ることができる史料と言えます。(SG)
 

 〔書状内容〕 為見廻綿屋越候大樽二蚫五十鰹十連到来令祝着 然国替もなく金銀之ふんど御知行も           拝領候間下々共忝可存候謹言
                  和泉
           六月五日    花押       
             津町中

 


藤堂高虎書状
ページID:000061364