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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 桑名藩藩札(銭12文)

桑名藩藩札(銭12文)

資料名 桑名藩藩札(銭12文)
くわなはんはんさつ(ぜに12もん)
資料番号 69-45

寸 法 たて: 約14センチ
よこ: 約 3センチ
時 代 江戸時代
解 説

時代劇でおなじみの千両箱に詰まった小判、二八そばの支払いに使われる一文銭など、江戸時代にはさまざまな貨幣が流通していました。徳川幕府は、それまで支配体制や地域によって異なっていた通貨制度を改め、金貨(大判・小判・二分金など)、銀貨(丁銀・豆板銀・一分銀など)、銭(銅)貨(寛永通宝・天保通宝など)の三貨による全国共通の制度とし、貨幣鋳造権を独占して各貨幣の様式も統一しました。これによって、江戸時代には幕府が鋳造した金・銀・銭貨が並行して全国的に流通し、取引内容や金額に応じて使用されていたのです。

しかし、実際にはこれらの鋳造貨幣に加えてもう一つ、藩札などと呼ばれる紙幣が発行され、広く流通していました。日本における最初の紙幣は、1600年頃に伊勢の山田で流通した「山田羽書(はがき)」で、御師(おんし)と呼ばれる伊勢神宮の下級神官であった有力商人たちが発行したものでした。このような紙幣は、伊勢国内の射和(いざわ)・松坂、また、大和下市・堺・摂津などの商業の中心地でも有力商人によって発行され、私札と総称されています。一方、江戸時代前期の寛文頃(1661~1673)から、各藩は財政赤字の補填や幕府貨幣の不足の緩和などを目的として、藩札と呼ばれる独自の紙幣を発行しました。藩札は各藩が幕府鋳造の三貨や米などとの交換を補償したもので、金札、銀札、銭札、米札などがみられます。

今回ご紹介する資料は、桑名藩が発行した藩札のひとつです。「銭拾弐文預」とあるところから、銅銭12文(寛永通宝1文銭12枚)相当として発行された紙幣で、厚手の和紙に木板印刷されています。発行年次が表記されていませんが、後に紹介するように「當百」とよばれた天保通宝(100文銭)との交換が記載されていますので、その初鋳の天保6(1835)年以降の発行と考えられます。

当時の藩札などには相当金額や、発行者の印、正貨などとの引き替え方法のほかに、宝珠や七福神、宝船、高砂など吉祥絵も印刷されていますが、この藩札には、上端に打出小槌に登る白鼠の絵がみられます。打出小槌は福の神である大黒天の持ち物であり、白鼠は大黒天の使いとされていますので、この絵は大黒天を表した縁起のよい図柄といえましょう。

また、下端には銭貨との引き替え方法として「以此札八枚、換當百一銭」と印刷され、この札8枚で「當百(とうひゃく)」銭=天保通宝100文銭1枚と交換できることが判ります。天保通宝は1文銭5.5枚程度の原料で作られ、実際には100文以下でしか流通しなかったとされていますが、額面は100文ですから、この札8枚が銭100文に相当した訳です。しかし、銭12文の藩札8枚では96文にしかならず、計算が合いません。なぜ100文なのでしょうか? 桑名藩のみの特例?? 天保通宝の実際的な評価??? 実は、この差は、当時、銭96枚(96文)を紐などでまとめた1(さし)を100文とみなして取引した省百法(しょうびゃくほう)という流通の方法によるもので、桑名藩の特例などではないのです。なお、時代は遡りますが、大量の銅銭が埋められた中世の備蓄銭の発掘調査では、96枚や97枚を1としている事例が多くみられ、省百法は古くからの取引慣習とされています。(SG)

  
 ▲換金の方法                 ▲打出小槌と白鼠
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