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看板(煙草小売所標札)

資料名 看板(煙草小売所標札) 資料番号 1353
寸 法 たて45.5センチ
よこ15.0センチ
時 代 昭和6年~24年
材 質 琺瑯(ホウロウ)製   
解 説  今回は煙草に関する資料をご紹介します。

 煙草が我が国に伝えられたのは慶長10(1605)年以前のことといわれています。『徳川實記』には「蛮船はじめて烟草をのせくる。京人その種をうえて。専らその煙りを吸ふ事風尚となり天下にあまねし。この事益少なく損多きをもて。令をくだし禁ぜらる」とあり、南蛮貿易を介して伝えられた煙草は、日本においても栽培され急速な広がりを見せたことが伺えます。そんな煙草に対して幕府は幾度も栽培を禁止したようですが、庶民の嗜好品としての広がりに歯止めは利かず、ついには野山での栽培を容認することとなりました。

 煙草は当初葉を買い求め自分で刻み吸っていたようですが、後に刻んだ葉を売ることを生業とする人々が現れます。“たばこ屋さん”の出現です。刻み煙草を売る店、煙草を吸うキセル、そして煙草入れを売る店、江戸時代に我が国にもたらされた煙草は、新たな文化や産業を生み出し人々の生活に溶け込んでいきました。
 そして明治維新以後、煙草はまた新たな転換期を迎えます。紙煙草の登場です。外国から輸入される新しい煙草の形は大流行し、国産の紙煙草も次々に作られていきます。そしてたばこ屋さんの看板も、単なる「たばこ」から、煙草の銘柄の看板を掲げるようになりました。各社が競う広告合戦は、人目を引く看板やポスターを数多く生み出し、たばこ屋さんの店先はとても賑やかだったといわれています。

 そんな華やかな煙草産業の発展に目をつけたのが明治政府です。明治9(1876)年の「煙草税則」に始まり、明治31(1898)年の葉煙草の専売の開始、そして明治37(1904)年の「煙草専売法」の成立により、葉煙草の買い上げから製造そして販売が国の管理下におかれるようになりました。民営から官営に、現在の時流とはまったく逆の社会情勢の変化に、派手な看板はその姿を消すことになりました。

 さて、この「煙草小売所」の標札(ホウロウ製)は、この煙草の専売制が始まった後、大蔵省の専売局からの通達により作られたものです。つまり煙草の小売を認められている店であることを示す看板というわけです。ただし、当時全国に17~18万人いたといわれている煙草小売人が同一の看板を所持していたわけではありません。白木の板に墨書きのものもあれば、真っ赤な地に白抜きの文字を施したホウロウ製のものもあり、材質、色、形は少しずつ異なりますが、共通するのは標札の中央に「煙草小売所」を、その左脇に「煙草小売人」の文字を配する点です。恐らく専売局の製造所や組合などの単位でまとめて作られていたものと考えられます。看板中央の上下2ヶ所に直径0.8㎝の穴があけられ、また外側に向けて少し丸みを持たせていますので、店先の柱などにとめられていたものと思われます。

 昭和24(1949)年、専売局を引き継ぎ日本専売公社が立ち上がりますが、同年施行の「たばこ専売法」に看板の設置に関する記載はありません。専売局の廃止とともにこの看板の歴史も幕を閉じることになりました。
 自動販売機にコンビニと今や煙草を買う場所は大きく変化しています。もしあなたのご近所に「煙草小売所」の看板を掲げるお店があれば、そのお店は昭和24年以前にまで遡る歴史あるお店かも知れません。まだまだ多くの「看板」が“たばこ屋さん”の片隅で人知れず静かに移り行く時代を見つめている、そんな気がします。(U)

 


看板(煙草小売所)/表

看板(煙草小売所)/裏
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